第53話
ある日の夜、僕は夜中に唐突に目が覚めた。
そのまま眠り直しても良かったのに、なんとなく身を起こしてみる。
雨が建物の壁を打つ音が微かに響いている。見上げてみれば、豪雨とは言わずとも、小雨という程でもないそれなりの雨が、天窓を叩きつけていた。
「この音か……」
こんな些細な音で起こされたのだとしたら、不慣れとは不便なことだ。自宅なら、たとえ嵐でも朝まで起きたりしないだろう。コテージに寝泊りするようになってから初めての雨だから、きっと異常を察知した脳が意識を覚醒させたのだと思う。
気を取り直して身体を寝かせようとした時、隣のベッドの状態を目にして行動を中断する。
姉が寝ているはずのベッドは、掛け布団と毛布がまとめて捲られている。寝相が突き抜けて悪いわけではなく、晒されたベッドの上には、彼女の姿がなかった。
「姉ちゃん?」
彼女がいるはずの場所に不在であることが、更に眠気を吹き飛ばす。
大方トイレにでも行っているのだと推察したけれど、どうにも気になって僕はベッドから降りた。
深夜のコテージは凍えるような寒さで、少しでも動いていないと身体が震えてしまうほどだ。生地の薄い寝間着を着ていることも、激しく体温の低下を感じる原因の一つだろう。
なにをやっているんだろうと馬鹿馬鹿しく思いつつも、暗闇に包まれる階段を下りてトイレの前まで移動する。
トイレには、電気が付いていなかった。
近寄ってみると、鍵もかかっていない。
彼女はどこにいるのだろうか。覚めたばかりの脳で思考しつつ、居間を見回してみる。
明かりのない室内は、人が迷い込んでいる可能性を真っ向から否定している。
しかし外は雨だ。こんな真夜中に、雨の降る外へ出たりするだろうか。
玄関の方へ歩いていくと、傘立てに初めて来た時から置いてあったビニール傘が一本、未使用の状態で立てかけられていた。
私物として折り畳み傘を持ち込んだりはしていなかったはずなので、コテージにある唯一の雨具も使用されていないのであれば、外に出ているわけでもないし、一度出て帰ってきたわけでもないだろう。
すぐ傍の食卓に目を向けてみても、彼女の姿はない。
いや――。
その奥にあるキッチンスペースに、姉の後ろ姿が見えた。食卓を仕切るカウンターに隠れて下半身が見えないけれど、暗くとも彼女とわかる輪郭だ。
そもそもここには僕と彼女しかいないのだから、彼女以外にありえない。
「姉ちゃん、こんな夜中に何してるの? 明かりもつけないでさ」
「――っ!?」
驚かせるつもりはなかったのだけれど、僕が声をかけた瞬間、猫騙しでもされたように姉の身体が跳ねた。
姉は背を向けたまま何も答えないので、僕の方からキッチンに近寄り、途中にある照明のスイッチを入れてキッチンにだけ明かりを灯した。眩しい光が彼女を照らし出すと、ようやく振り返ってくれた。
「喉が渇いたから、水を飲んでいただけよ。あたしの足音で起こしちゃったかしら?」
「雨音で起きただけだよ。なんで電気つけなかったの?」
「すぐ戻るつもりだったから必要ないと思ったのよ」
「そっか。てっきり、夜中にどこか出かけたのかと思ったよ。こんな雨降ってるのにさ」
「勝手にどこかへ行ったりなんてしないわよ。でも、心配をかけてしまったようね。申し訳なかったわ」
「あ、いま謝った?」
「っ! ……聞き間違えじゃないかしら? 優くん、寝ぼけているんじゃない? さぁ、こんな夜中に起きていても仕方ないし、早く寝ましょう。睡眠時間が勿体ないわ」
「自分で言い出したくせに――って、ちょっと姉ちゃん!」
「なんのことかしらね。あたし、眠くてよくわからないわ。先に布団戻ってるわね~」
姉らしからぬ演技めいた態度を振り撒いて、制止にも聴く耳持たず、僕の横を通り過ぎて居間の奥へと去っていった。
キッチンに残された僕は、見つけた際に姉がいた位置に立ってみる。
眼下に流し台があり、窪んだスペースの中央付近に、姉が使っているコップが置いてあった。怪しい雰囲気ではあったけれど、彼女の証言は本当だったらしい。
いまいち合点がいかなかった。しかしそれが杞憂である可能性も充分にあり得ると思ったので、僕もキッチンの明かりを消して寝ようとした。
去り際、ふと流し台とガスコンロの間に無造作に置かれている物が目に留まって立ち止まる。
「……これ、なんでこんなところにあるんだ?」
最近、使ったことがあっただろうか。
コテージに来てから数日間の記憶を思い返してみるけれど、初日以外では目にした記憶がなかった。
「まぁいいか。何かを探していた時に、しまい忘れたんだろう」
深く考えずにもっともらしく解釈して、元あった流し台の下の収納スペースに戻そうとした。
手にとり腰を屈めて収納スペースの戸棚を開いた時、僕はあることを思いつく。
「……一応、準備しておくか」
呟いて、手にした物を元あった場所へは戻さずに、着ている寝間着のポケットに入れる。かなり大きかったけれど、ポケットが深かったので先端が頭を出す程度で、ほとんど完全に収まった。
回収した品が落ちないようポケットの上から手で押さえつつ、もう片方の手でキッチンの電灯を消すと、僕も二階の寝室へと戻る。
階段を上りきった時、すぐ横にある大きなベッドでは、姉が穏やかな顔つきで静かに寝息を立てていた。
彼女の呼吸が聞こえるくらいには、外で降る雨足が弱まっていた。
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