第52話

 ある日、僕達は自然の中を歩き回り、冬の山菜を採取した。すぐに食べるかと思ったけれど、どうやら一日置く必要があるみたいで、その日は缶詰で食事を済ませた。

 夕食が終わり、僕は風呂に入っている。

 身体を酷使して溜まった疲労も、立派な浴槽に浸かればお湯と共に流れ出た。大きな浴室は銭湯のように居心地が良くて、いつまでもいられる気さえする。

 実際、僕はいつも三十分くらいは湯船に浸かっていた。本当はもっと入っていたいけれど、次に姉が控えているので独占してもいられない。


「ふぅー。そろそろ出るか」


 時計を見てそう呟いて、お湯をまとって湯船から立ち上がる。

 浴槽から片足を出そうとした時、浴室の扉の薄っすらと透けている部分に、肌色の影が映った。


「優くん、入るわよ」

「はっ!? えっ!?」


 何を言っているんだと慌てつつ、隠れようも逃げようもないので急いで湯船に身を沈める。出入口の扉に背を向けて、正反対に位置する木目調の壁面と向き合う。

 音を立てて扉が開いて、水を踏む音が三回聞こえた後、扉が閉まった。


「な、な、なにしてんだよ姉ちゃん!」

「何って、お風呂に来たら、目的は一つしかないじゃない」

「僕が入ってるでしょ! なに平然と入ってきてるんだよ!」

「いいじゃない。たまには。あたし、一度優くんとお風呂に入ってみたかったのよ」

「は、はぁ!?」


 二人では狭い空間に、姉の声が反響する。彼女は僕の動揺なんて知らぬ顔で、普段おそらくそうしているように、普通にシャワーを浴びて髪を洗い始めた。

 僕は姿勢を動かせず硬直して、湧きあがってくる邪な感情を殺し続ける。それ以外に、何かを考える余裕はない。耳には、姉が身体を洗っているであろう音が届いている。届いてしまっている。

 身体を石鹸で擦っていた音が止むと、再びシャワーの噴射音が響く。とてつもなく長く続いたように思えた音が無くなると、姉が立ち上がる気配を感じた。


「優くん、半分空けてくれるかしら? 中央にいられたら、あたしが入れないわ」

「え、あ、わ、わかったよ」


 僕は瞼を閉じてから、膝を両腕に抱え込んだまま隅に寄った。間髪を容れずに姉が湯船に入ってくる。彼女が身体を沈めると、浴槽から多量のお湯が溢れ出た。


 ――っ!


 彼女の裸の背中が、僕の背中にぴったりと密着した。


「なんというか、やっぱり恥ずかしいわね」

「だったら最初からやめてよ! 僕も恥ずかしくて死にそうだ」

「そうなのね。優くんも同じように考えているのね。それを聞くと、なんだか嬉しくなってきたわ」

「僕は恥ずかしさしかないよ!」

「あら、あたしの裸を見れて、優くんは嬉しくないの? だとすると、それはあたしとは違うわね」

「な、なに言ってるんだよ!」

「うふふっ、ごめんなさい。少し調子に乗ってしまったわ」


 姉にからかわれた僕は、うまい返しを思いつかずに閉口する。体温が更に上がっていくような感覚に襲われる。

 何を言うこともできず、浴室から音が消える。

 暫く焦っていた僕だったけれど、深呼吸を繰り返して気持ちが落ち着くと、背中合わせの彼女の雰囲気に妙な感覚を覚えた。

 つい先ほどまでは打って変わり、彼女は重々しく、囁くような声を漏らした。


「優くん、あたしは――」

「……姉ちゃん?」


 鮮明に言葉を聞ける状況で、その先を聞き取ることができなかった。


「なんでもないわ。あたし、先に出るわね」

「えっ、あ、うん」


 何かを喋ろうとして濁した彼女は、早々に湯船から立ち上がって浴室を出て行った。


 ――彼女は、何を伝えたかったんだろう。


 冷静な思考を取り戻した僕は、広い浴室でそればかりを考えていた。

 けれども、結局見当がつかなかった。

 扉に透けていた影が消えたのを確認して、僕は昨日の倍以上浸かっていた浴槽から立ち上がり、お湯を抜いてから浴室を後にした。

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