第22話

 燃えるように紅い……とまではいかないけれども、ほんのりと赤みがかった葉を無数の枝の先に蓄えた大木があった。

 季節は一年の中でも最も寒い凍える真冬だというのに、眼前にそびえる見上げるほどに大きな樹木は、僕の世界の季節感を完全に無視している。

 茶色の幹を覆い隠す、見る者に暖かな印象を与える紅い色。

 その大木を包み込む空間は、混じり気のない純白の景色が地平まで続く世界。

 僕と姉は、特段成果をあげている実感はなかったけれど、経過観察と銘打って三日ぶりに純白の空間を訪れていた。

 新緑の大木が僅かに成長しているかもしれない程度の控えめな期待を抱きつつ、自宅の僕の部屋で手を繋いで此方にきてみれば、予想と乖離した想定外の変化を遂げた植物が待ち受けていた。


「紅葉した、という認識で合っているのかしら? サイズが大きくなったら蕾を作って花を咲かせるだけだと考えていたけれど、まさかこんな風に特殊な変化をするとは思わなかったわね」

「これって、一応成長してるってことでいいのかな?」

「どうかしら? 色が変化しただけかもしれないから、純粋な成長とは異なる意味が含まれているように思うけれど」

「単に樹木が育つための条件を満たしたんじゃなくて、別のことをしたから紅葉したとか?」

「そうね。植物の色を変化させることで、あたし達に何かを伝えようとしているのではないかしら」

「僕達がやろうとしていることは間違ってるとか、なのかな?」

「かもしれないわね。まぁ、咄嗟に思いついた、推量足らずの直感で行動を起こそうとしているのは事実だけれど」

「それは間違ってるって、そう警告してるのかもしれない」

「明確な答えなんてわからないわ。でも、そう解釈すれば、今まで起きなかったこの特殊な変化に対する相応の理由になるわね」

「これまでは正しいことをやってきて、これからやろうとしているのは間違ってる……か」


 僕と姉は、桜庭家には存在しないはずの妹が突如として現れた前後で、世界を救済する樹木の成長条件が変化したのだと推理した。

 そんな風に考えて納得したのは、それ以外に、中途半端なタイミングで桜庭理奈が出現した理由が考えられなかったからだ。


「理奈の願いを叶えたところで、樹木は大きくならないかもしれないんだね」

「彼女が現れてからも樹木は少しずつだけれど成長していたし、一概に断言することはできないわ。妹とは関係のないところで、誤った行為をしている可能性だってあり得るでしょう?」

「そうだけど、そうなるとどうすればいいのか全然わからなくなっちゃうじゃないか」

「どうすればいいのかなんて、最初からまったく判然としていないし、今もそれは変わっていないわ。これまでは偶然、いい具合に育ってくれていただけよ。優くんだって分かっているでしょう? あたし達は最初から今日までずっと、常に正解を予測して行動している状態よ。目隠しされていて、それでも自身の感覚だけで暗闇の中を前に進んでいる状態なの。本当に目的地に前進できているかなんて、確証はどこにもないわ」

「そうだけど……せっかく分かりやすい達成目標が立てられたのに、それが間違っているかもしれないなんて、できれば信じたくないよ」


 苦労して導き出した答えでもないけれど、理奈の願いを叶えれば最終目標に近づけると信じることで、初めて確かな希望を掴めた気分でいた。

 姉の言うとおり、これまでは偶然の産物による成果だったが、今回の一件はそうではない。同じ成果が得られたとしても、偶然か必然かによって、その価値には天と地ほどの差さえあると言ってもいい。

 伏せられている解答を突き止めて、行動した結果として予想通りの成果が得られたならば、謎に包まれた十三月の仕組みを解明できる証明となる。

 だから、僕達の考えは正しいのだと、それをどうしても確立したかった。


「それなら、信じなければいいじゃない」

「信じない?」


 真っ白な世界の中で並んで佇んでいる姉は、なんでもないようにそう返す。

 目線の高さがほぼ等しい彼女の瞳を、微量の疑念の眼差しで見つめた。


「そうよ。悪い現実から目を背けるのも良くないけれど、悪い現実ばかり気にしていたら、いつまで経っても前を向いて先に進むことなんてできないわ。失敗を恐れて延々立ち竦んでしまっても、それは失敗に相当するはずよ。成功するためには、失敗を恐怖する心を克服しないといけないわ」

「理想ばかり追っていても、求めていた結果が得られるとは限らないよね?」

「当然よ。でも、思い通りの結果が得られないかもしれないと憂慮しながらも追い続けなければ、理想に辿り着ける確率は皆無ではないかしら」

「その失敗が、取り返しのつかない事態を招くかもしれない」

「〝行動しなかった〟という失敗をしても同じことよ。あたし達には、無限の時間が用意されているわけではないの」

「……そうか。もう、半分を過ぎてしまったんだよね……」


 十三月が訪れて、現在は三週間目に突入している。

 与えられた猶予の半分の時間は、既に過ぎ去ってしまったのだ。

 〝立派な大木〟と称した当時から樹木は更に幹を太く、背丈を大きく成長させて、どういうわけか纏っている葉を紅く変色させた。

 これらの変化が何を示しているのか、僕も姉も、実際のところまったく特定できていない。

 どのような行動をすれば樹木を成長させられるのか。

 先代が求めていた物の正体は? 十三月がもたらす世界の破滅の実現方法とは?

 僕達は、依然として何も知らないままだ。

 果てなく続く純白の暗闇に囚われた状態で、勘と少しの知力を駆使しながら、手探りで解答を掴み取らなければならない状況下に置かれている。

 助かるためには、そうするしかないんだ。

 助かる見込みがあるのなら、足掻き続けなければ意味がない。

 諦めるという選択が間違っていることくらいは、確証がなくとも僕の本能が絶対的に誤りであると肯定している。

 僕は姉から視線を移動させて、〝紅葉した大木〟を正面から見据えた。


「わかった。合っているかわからないけど、予定通り、理奈の願いを叶えてあげることにするよ」

「優くんにばかり頼ってしまって申し訳ないわね」

「別に、そんなの気にしなくたっていいよ。ただ買い物に付き合うだけだし。妹が僕に願ったんだから、僕がやるしかないでしょ? 姉ちゃんの不手際が原因じゃないんだから、そんな丁寧に謝られても困るよ」

「でも、あたしは世界の救済するために送り込まれた存在なのよ? そのあたしが傍観しているだけで、巻き込まれた側の優くんが苦労するのはおかしいじゃない」

「そうなるように仕向けたのは先代の神様なんでしょ? 理奈を十三月に登場させたのも、理奈の願いが僕に関係した内容であるのも、それらの情報を姉ちゃんに与えなかったのも、全部先代の仕業だ。姉ちゃんは悪くないよ」

「それでも、優くんに任せるしかないというのは、あたしにとっては胸を締めつけられるほどに悔しい選択なのよ。助けたい人の力になれないというのは、何よりも悲しいことなの」

「そんな悲観しなくたって、姉ちゃんは充分に僕の力になってくれてるよ。こんな狂った世界、一緒に過ごしてくれる人がいなかったら、僕は今頃現実逃避して引き篭もってるかもしれなかったからね。いてくれるだけで支えになってるんだよ」

「優くん…………。その、なんというのかしら……。優くんにそう言ってもらえると、とても嬉しいわ」


 姉のその言葉を聴いた瞬間、ほんの僅かに、彼女の態度に違和感を抱いた。

 ごく普通の会話をしているはずだけれど、いったいどうしておかしいと感じたのだろうか。


「……? あたしの顔、なにか変かしら?」


 落ち着いた様子の彼女は、自覚せずに向けていた僕の視線に気づき、無表情のまま訊いてくる。


 ――こんな時、彼女はこういう反応をする性格だったかな。


 僕の脳裏を、今度ははっきりとした確かな疑問が駆け抜ける。


 ――いや、これまでは、こんな冷静な反応はしなかった。


 ただ純粋に、僕は彼女に助けられていることに感謝しようと思い、素直にその気持ちを伝えた。余計な感情は絡めずに、姉の功績を賞賛した。

 これまでにも何度か、姉を褒めたことはあったように思う。そんな時、彼女はどのような反応をしていたのだったか。

 すぐに思い出されるのは、謎の高揚感に溺れ、人格が崩壊したように冷静さを失って僕の発言に過剰すぎる反応を見せる姿だ。というより、じっくり思い返してみても、それ以外に蘇ってくる記憶はない。

 しかしここにいる彼女は、自身の冷静沈着な性格を維持したままで、自然な返答の範疇に収まる反応を示した。


「いや、特にどうかしたってわけでもないんだけど、姉ちゃんの性格も随分と安定してきたなって思ってね」

「言われてみると、そうかもしれないわね。優くんに褒められることに慣れちゃったのかもしれないわ」

「そんなに何度も褒めた覚えはないけど」

「そうだったかしら? けれど、さっきのは救われた気分になったわ。嬉しいというのも、偽りない本当の気持ちよ」

「そ、そう。それは、良かったね」

「ええ。きっと、生まれてからそれなりの時間が経ったから、人格が安定してきたのだと思うわ。優くんとずっと一緒にいることも影響しているのかもしれないわね」

「生まれてからってのはともかく、僕と一緒にいることがどうして人格の安定化に繋がるのかわからないんだけど」

「慣れよ、慣れ。優くんは、桐生くんと話す時にいちいち緊張したりしないし、気兼ねなく喋れるでしょう?」

「うん。まぁ、そうだけど」

「それって付き合いが長くて、相手に慣れたからよね? 相手がどういう思考をする生き物なのか知っているから、未知の存在よりも身構えずに話すことができるのよ」

「隼人の場合、未だによくわからない部分は多いけどね」

「それでも、彼という人間のことは、それなりに知っているつもりでしょう?」

「それなり、にはね」

「あたしも同じよ。優くんがどんな性格なのか分かってきたから、優くんにどういった反応をすれば伝わるのか、どの程度で伝わるのかが脳に刻まれたのだと思うわ」


 付き合いが長くなると気軽に話せるようになるのは、相手の考えがわかるようになるからなのだろうか。あまり自覚しているつもりはない。隼人もそうだけど、姉ちゃんにしたって、どんなことを考えているのかなんてほとんど想像したこともないし、相手の思考を把握できているなんて微塵も感じていない。

 それなのに、隼人とは気づいたら気負わずに話せるようになっていた。

 そして、姉ちゃんとも。

 もしかしたら僕は、どこかで彼や彼女のことを分かったつもりでいるのかもしれない。ここ最近の出来事を振り返ってみると、それが真実であるように思えてきた。

 完璧なお淑やかさを手に入れたはずの姉が、あまりにもわざとらしく、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべてみせる。


「それとも、優くん的には、時折感情が乱れてしまうあたしの方が好みだったかしら? もしそうなら、今から元の性格に戻れるよう努力してみるけれど」

「そんなことないから、絶対に戻らないでよ」

「そう。なんだか、少し残念な気持ちだわ」

「性格は変わっても、根幹にある考え方は変わってないみたいだね」

「胸の一番奥にある譲れない感情というのは、どれだけ月日が経っても変わらないものよ。あたしは神様なんだけど、その特性に、神様と人間の差はない。知性を得た生き物は皆、自我が芽生えた瞬間から死ぬまで、心の根幹に唯一無二の宝石を抱くものなのよ」

「ほ、宝石? なんか、突然難しい話になってない?」

「簡単な話よ。あたしがどれだけ成長したとしても、優くんを守りたいって思いだけは絶対に揺らがないし変わらないって言ってるだけなのだから」

「そんなこと言ってた?」

「言ったわよ。もうっ、お姉ちゃんの話はちゃんと聴いておきなさいよね」

「よくわからないけど……その、これからは気をつけるよ」

「ええ。そうしてくれると、あたしとしても嬉しいわ」


 彼女は僕をからかっているのかと訝ったけれど、そう口にする彼女の佇まいや表情は、真摯で固い純正の空気を取り巻いている。まるで、自分自身に宣誓しているようでもあった。

 僕は意外な彼女の姿に戸惑い、とりあえず適当な生返事をする。

 いい加減な返答を気にする様子もなく、彼女は少しだけ目を大きくして、頬を緩めて僕に手を差し出した。


「あんまり姿を消していると理奈が心配するわ。そろそろ戻りましょうか」

「あ、ああ……ええと、うん……そうだね」


 風呂を上がってそれほど時間が経過していないためか、肩にかかっている彼女の髪はまだ完全には乾ききっておらず、湿り気を残している。

 意識してしまうと、ほんのりと甘い香りが鼻孔をかすめ、慣れない刺激が脳を麻痺させようと猛威を振るう。


「どうかしたの優くん? なんだか元気がないわね?」

「い、いや、なんでもないから! 気にしないでいいよ、別に」

「そう? まぁ、優くんがそう言うなら、気にしないことにするわ。それじゃ、早く握ってちょうだい」


 痺れて思考速度が鈍くなっている僕は、彼女の言葉の意味を理解するまでに一秒以上の時間を要した。

 視線を落として彼女の小さな手に目をやる。

 この手を僕に握れと、彼女はそう指示しているだけだ。それはあちらの世界に戻るためで、それ以上の意味は込められていない。

 僕もまた、それ以外の意味を込める必要なんてない。

 それ以上の意味を期待することだって、価値のない妄想だ。


「あ、う、うん」


 鈍い動作で彼女の手を取ると、僕は彼女から目を背けて〝紅葉した大木〟見上げる。

 見上げるフリをして、横目で彼女の表情を覗き見る。


「行くわよ――」


 瞼を閉じて呟くと、紅葉は瞬く間に白色の霧に覆われていき、僕の視界もピントがずれたカメラのようにぼやけていく。

 見られていないことに安心して、僕は真っ直ぐに彼女の顔を見据える。

 鼓動を高鳴らせたまま、初めて彼女の姿を目にした時と寸分違わない感想を、改めて胸の中心に抱いていた。

 その感情を抱くことになった要因が前回とは異なっていると自覚した時、僕の身体と意識は無限の純白の檻に包まれ、その世界から彼女と共に姿を消した。

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