第12話
一度家に帰ったはずの僕達は、またもや晴天の冬空の下を歩いている。
昼食は、まだ済ませていない。
胃袋の不満を宥めつつ自宅に戻った時、今朝は玄関の前に停めてあった父さんの自動車が消えていた。
合鍵を使って中に入ると、母さんの姿もなかった。書き置きと思しきメモは見当たらなかったが、千円札が二枚、食卓の上に無造作に置かれていた。
姉の助言で携帯電話をチェックしてみると、いつの間にかホーム画面にあるメーラーのアイコンの右上に、〝1〟という数字が表示されている。未読メールを開くと、案の定それは母さんから送られてきたメッセージだった。
どうやら、母さんは父さんと一緒に親戚の所へ出かけているらしい。帰りが遅くなるから、昼食と夕食は自分達で適当に買って食べてほしいとのことだ。
状況を把握した僕達は、母さんの残していった昼食代を自分の財布にしまい、脱いだばかりの温かい靴を履いて近くの店へ昼食を買いにいくことにした。
「ごめん。僕が母さんからのメールに気づかなかったから、二度手間になっちゃったね」
「マナーモードになっていたのよね? だったら仕方がないわよ。それに、気づいていたとしても、昼食代を取りに戻る必要はあったわ」
「それもそうか……にしても、メールに気づかないなんて……」
「僅かな振動を認識できないくらい、とても集中していたのよ。森の中を探索したいって頼んだのはあたしなんだから、気づけなかったのは双方に原因があるわ」
「いや、でも、メールを受け取ったのは僕だから、僕が悪いよ。お金なら、自分の所持金で立て替えることだって出来ただろうし」
「それ以上は言わなくていいわ。大した問題ではないのだから、そんなに重く受け止めなくていいのよ」
「……うん、わかったよ」
姉は大袈裟にため息をついた。
「はぁ~。これじゃあ優くんが一方的に悪いみたいじゃない。優くん、あたしを叱りなさい。汚らしい単語を交えて、貴族が、奴隷を足蹴にする時みたいに!」
「はっ……?」
「鞭を乱れ打って家畜に痛みを与える調教師のように! 出来損ないの部下に辛辣な言葉を豪雨のごとく浴びせる上司のように!! 縋りつく信者達を絶望の底に叩き落すイカれた神父のように!!! さぁ! きなさいっ!! 来なさい優くん!!!」
「な、なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんだよ。無理だよ、そんなの」
「優くんに不可能なんてないわっ! 辞書に優くんに不可能はないって書いてあるもの!」
「なんの話をしてるんだよ!」
「あたしの辞書の話よっ!!」
「聞いてないよそんなこと!!」
「んっ? うーん……。確かに、それはそうね。優くんが正しいわ」
「もう、いきなり暴走しないでよ……。相手する身にもなってほしいな」
「悪かったわ。まだ感情によくわからない部分があって、たまにどうしたらいいのか混乱しちゃって、頭が真っ白になってしまうのよ」
「人格が不安定だから?」
「この半日で、人格の構築は概ね完了したように思ったのだけれど、まだ不十分なようね。もしまたおかしくなっちゃったら、その時は殴ってちょうだい」
「殴るって、そんなこと、できないよ」
「あたしが許可しているんだから、遠慮する必要なんてないのよ?」
「それでも、誰かに暴力を働くなんて、僕にはできない」
「うふふっ、やさしいのね、優くん」
「そういうんじゃなくて、ただ嫌なだけなんだ。……それだけだよ」
「ええ。わかったわ」
不鮮明な自論を話したことによって、空気の重さが増してしまった。
落ち着いて顧みると、彼女は深い意図のない冗談を口にしていただけだったように思う。本人は暴走したと説明しているけれど、乱れかけた雰囲気を正すため、僕を和ませようとしていたのかもしれない。
僕は、姉の気遣いを台無しにしてしまった。
不快な気分にさせてしまったはずなのに、彼女は穏やかに微笑んで隣を歩いていた。
どうしてそんな顔をしているのか不思議に思い、姉の横顔に目を奪われていると、突然彼女がこちらを向いた。
「優くん」
「えっ、な、なに?」
「昼食を買う最寄のコンビニエンスストアは、あそこに建っているお店で間違いないかしら?」
「あっ、う、うん。あれで合ってるよ」
「家から歩いて五分。都会ならもっと近いのかもしれないけれど、充分に便利な距離ね。なんでも買えるコンビニエンスストアが歩いていける場所にあると、生活も色々と楽でしょう?」
「どうだろう。あんまり意識しなかったけど、そうなのかな? 昔から足りない物はコンビニで揃えられる環境で育ったから、よくわからない」
「恵まれていると思うわよ。なにせ、コンビニエンスストアは現代のよろず屋と称しても過言ではないと、あたしの知識にはそう記憶されているもの」
「よろず屋って喩えられても、利用したことも見たこともないからいまいちピンとこないよ」
「簡単に言えば、なんでもしてくれる便利屋よ。役立つサービスや多様な商品を取り扱う店が至るところにあるなんて、世の中の生活も楽になったわねぇ」
「確かに、覚え切れないくらい様々なサービスを提供してるよね。そのほとんどは利用したことがないけど、使いこなせれば相当便利なのかもしれない。僕の友達も言ってたよ。『時給に合わない』って」
「そのお友達って、あそこのコンビニエンスストアでアルバイトをしている子のことかしら?」
「よくわかったね。今日シフトが入っているか知らないし、入っていたとしてもこの時間帯じゃないかもしれないけど、一応そこのコンビニで働いてる従業員の一人が、僕の友達だよ」
「〝|桐生隼人(きりゅうはやと)〟くんでしょう? 優くんの同級生で、茶色い短髪の、身長が高いちょっと不良っぽい子。彼なら、元日は午後から夜までの時間を担当しているらしいから、サボっていない限りいるはずよ」
「えっ? 偶然当てたんじゃなくて、知ってるの?」
「みたいね。あたしの友人の一人として、深く記憶に刻まれているわ。どうやら、あたしとも親しく接している間柄にあるみたい」
「家族だけでなく友達まで用意されてるなんて……しかも、僕と共通の友人だし……それってつまり、母さんや父さんと同様に、隼人も姉ちゃんを認知してるってことだよね? 友達の一人として」
「そうなるわね。ちなみに、あたしが彼と仲良くなった時期は、優くんより少し後よ。優くんを通じて、あたし達は知り合ったみたいね」
「細かいなぁ。だけど、そこまで知っておく必要はないよね? 僕が覚えておくべき情報としては、姉ちゃんと隼人が既に顔見知りどころか互いによく知っている関係ってことだけだ」
「ええ。事前にそれだけ理解しておけば、困惑することもないでしょう」
僕達は歩行者用信号機が青になるのを待ってから、横断歩道の向かい側にある、駐車場が敷地面積の大半を占めるコンビニに歩み寄った。
ガラス越しに、ストライプの制服に身を包んだ茶髪で背の高い精悍な体格の男を見つけた。
一箇所だけある出入口に近づくと、前を歩いていた姉に反応して両開きのガラス戸が自動で開く。
彼女に一歩遅れて、僕は友達が働いているコンビニに入店した。
「ッしゃぁせー! どうぞぉー!」
「おつかれさま、隼人」
「ん? おお、なんか知ってる顔だと思ったら優じゃねーか。んだよ、元日の昼からコンビニで買い物かよ。一年の始まりなんだからよ、こんなしけたとこになんざこねーで、隣町のショッピングモールにでも行って、うまいもんでもたけぇもんでもなんでもいいから買いに行けよ。貧乏くせぇな」
「元日だからわざわざ電車にまで乗って買い物に行く気になれなくて、近場に昼食と夕食を買いきたんじゃないか」
「ほーん。確かにそいつはちげぇねぇな。元日から面倒な真似なんざ、普通したくねーよな」
「そう言いながら、隼人はこんな日でも勤勉に働いてるんだね」
「まあな。なんせ給料がいいからな。年末年始は従業員の奴らがシフトに入りたがらねーから、なんとかして働かせようと時給が二割も増すんだぜ。こんな甘い汁が吸えるんなら、餌だって分かりきっていようが食いつかねー手はねぇだろ。おまけに、気が狂ってるみてぇな好条件をちらつかせられてんのに、あいつらは働きたくねーって口々に漏らして休む道を選んだんだ。そんなわけだからシフトもいれたい放題さ。アホだよな。ただでさえ上がってる休日の時給が、更に二割増しだぜ? ここで稼がなきゃ馬鹿だろ」
「みんな遊びたいんでしょ。隼人は違うかもしれないけどさ」
「遊ぶのはいつだってできんだろ。けどな、同じことして高い金を貰えんのは年末年始だけだ。俺は冬休みで一気に稼ぐぜ! マジでかっけぇ単車を見つけたからな。免許もとらねぇといけねぇし。こうしなきゃ金が稼げねぇんだから、しゃーねぇよ」
「結構貯まったの?」
「いや、まだ全然だ。まぁでも、卒業までにゃあ必要な額は揃う計算だ。なんか別の方法がありゃあいいんだが、高校生だとどこ行っても大して変わんねぇからな」
「そうだろうね。応援してるよ、隼人」
「ああ。ありがとよ、優」
隼人は売れている人気商品の補充をこなしつつ、棚に目を向けたまま会話を続ける。
レジでは、いつもいる店長のおじさんが客に応対していた。
「そういや、さっき昼飯を買いにきたっつってたな。夕食なら分かるけどよ、昼食にしてはちょっと遅すぎじゃねぇか? なんかに夢中になってて忘れちまってたのか?」
「う、うん。まぁ、色々と付き合わされてね」
「正月は親戚の付き合いとかあるもんなぁ。なんでそん時に昼飯食わなかったのか知らねぇけど、なるべく栄養のあるもんを食っとけよ。頭回らなくなって、昨日みてぇにわけわかんねぇこと言われても困っちまうからな。確か、〝十三月〟だったか?」
「あれは……なにかの見間違いだったみたいだよ。変なこと言って悪かったね」
「へっ! だと思ったぜ。ま、はっきりしたんならそれでいいだろ。新年早々気の毒だったな」
「だね。……ほんと、参っちゃうよ」
「――おしっ、終わったな。さて、次は――」
空になったコンテナを持ち上げて、隼人が振り返る。
ずっと黙って隣に立っていた僕の姉を視界に収めて、彼は足を一歩出したまま固まり、息を呑んだ。
「か、神奈ねぇさんっ!? い、いつからそこにいたんすか?」
「優くんが桐生くんに話かけた辺りからよ」
「ってことはずっとじゃないすか! いるならいるって言ってくださいよ~。びっくりするじゃないすか~」
「なんでいちいち報告しなきゃならないのよ。それより、一つ訊いていいかしら?」
「もちろんっすよ。神奈ねぇさんの頼みを訊くことが、俺のなによりの喜びっすから!」
「変わった趣味ねぇ。あたしには利点しかなさそうだから、特に咎めるつもりはないけれど。訊きたいことっていうのは至極簡単な話よ。単純なら、あなたにも理解できるでしょう? 桐生くん」
「大丈夫っすよ。俺、こう見えて結構頭いいんすから。優と同じ高校に通ってるくらいだし」
「そういえばそうだったわね。じゃ、訊くけれど、あたし達が何しにきたか分かるかしら?」
「飯を買いにきたんすよね? 昼と夜の、二食分。さっき優から聞いたっすよ」
「そう。つまり、あたしはご飯を買いに来たのよ。あたし、とてもお腹が減っててね、たくさん食べたいの。だけど、お母さんから渡されているのは並のお弁当をギリギリ二つ購入できるお金だけ。ねぇ、わかるでしょう? 桐生くん。足りないのよ」
「そ、そりゃ、事情はわかるっすけど……おっ! そういや、うちの人気ナンバーワンのから揚げ弁当が、いま五十円引きのセール中なんすよ! これとおにぎりかパンでも買ったらどうすか?」
「足りないわ」
「え、弁当とおにぎりかパンでも足りないんすか? 神奈ねぇさん結構食うんすね~」
「それもそうだけれど、値引き額が少ないって言ってるのよ」
「え、値引き?」
「当たり前じゃないの。たった五十円引いたくらいじゃ買わないわ。もう百円引きなさい。間違えては駄目よ? 五十円引いた額から、百円を引くのよ」
「無茶言わないでくださいよ神奈ねぇさ~ん。俺が店長だったらまだしも、俺はただのバイトなんすから、そんな権限ないっすよ」
「別に、全部を百五十円引きにしろって言ってるんじゃないわ。あたしと、優くんの買う分だけを追加で割り引いてくれればいいのよ」
「神奈ねぇさん、それたぶん、普通に犯罪っすから。法律を破るのは駄目ですって」
「なに言ってるのよ。あたしが罪を犯すわけがないじゃない。あたしは、このお弁当を百円安くしてほしいって要求しているのよ。お店じゃなくて、桐生くん自身に」
「まさかそれって、俺のポケットマネーから負担するってことすか!?」
「当たり前じゃない。お店に損害を与えたら恐喝になっちゃうじゃないのよ」
「そ、そんなァ! 勘弁してくださいよ神奈ねぇさん! 俺、節約までしてお金貯めてんすよー!」
「あたしの欲求不満は、桐生くんにとってはどうでもいいってこと?」
「そいつは違いますっ! 神奈ねぇさんの空腹は、俺が空腹なのと変わんないっすから!」
誰に対しても常に強い立場にいたはずの隼人が、姉を前にした途端に弱腰となった。口調も変わっている。親しい関係にあるとは聞いていたけれど、対等というよりは、主と下僕のそれに近いようだった。なぜそんなことになっているのかは、考えてみても一向に不明だが。
姉が唐突に始めた不穏な交渉に、隼人が困り果てた表情を見せていた。
「ちょっと姉ちゃん、言ってることが横暴すぎるよっ!」
「いいんだ優。止めてくれるな。俺は……神奈ねぇさんの食欲に給料を使いてぇんだ」
「無駄遣いしちゃ駄目だって。姉さんも、隼人をからかわないでよ」
「うふふっ、ごめんなさい。慌てている桐生くんを見るのはとても楽しいから、つい意地悪しちゃったわ」
「意地悪、っすか? ……じゃ、じゃあ、俺が百円負担するっつーのは……」
「冗談よ、冗談。たまにはいいでしょう?」
「はぁ……お願いっすから、もう少しわかりやすい冗談にしてくださいよ~」
「次回までに精進しておくわ。さ、桐生くんはそろそろバイトに戻りなさい。店長さんがさっきから渋い顔で見てるわよ?」
「おっと、りょーかいっす!」
コンテナを抱えて、隼人は店の奥にある扉を開けて入っていった。アルバイトをした経験がないので確かとはいえないけれど、おそらく倉庫に繋がっているのだろう。
「さて、買い物を始めましょうか」
「始めるって言ったって、二食分のご飯を買うだけだよね?」
「実際に代金を払って購入するのはそうだけど、せっかくコンビニエンスストアに来たのだから、ウインドウショッピングを楽しみたいわ」
「コンビニでウインドウショッピング? 聞いたこともないよ、そんな話」
「ちょっとくらいいいでしょう? もしかして優くん、付き合ってくれないの? お姉ちゃんがお願いしてるのに」
「お腹すいてるって言ってたじゃないか。だったら早く買って帰った方がいいんじゃないの?」
「そうだけど、ここには情報通り色々な物が置いてあるから、興味が湧いてきちゃったのよ。少しだけだから、構わないわよね?」
「まぁ、少しだけなら。僕だって何も食べてないんだから、ほんとに少しだけだよ。もうすぐ十五時も回るんだから」
「ええ、わかったわ。そうと決まれば、順番に見て行きましょう」
店の入口を向いた姉が、僕の着ている服の袖を強引に引っ張った。力の加えられた方向に、身体が傾く。
「ちょっ、僕も一緒に見るの?」
「当然よ。会話は理解を深めるわ。あたしは優くん以外に、いったい誰を話相手にすればいいのよ」
「たかがコンビニで売ってる物に対して、そんな深く考える必要はないと思うけど」
「優くんにとっては平凡で珍しくもない商品かもしれないけれど、あたしにとっては全部が初めて目にする物なのよ」
「そう言われても、大したものなんて特にないよ?」
「それはあたしが決めることだわ。お腹が空いているのは事実だし、素早く済ませましょう」
ぐいぐいと、しつこく僕を引き寄せようとする。僕が軟弱なせいもあるかもしれないが、女の子にしては力があるように感じた。
「わ、わかったよ。わかったから、袖を引っ張らないで」
「じゃ、一緒に見てくれる?」
「そうするから。……こんな問答で時間を潰す方が、よっぽどもったいないよ」
「その通りね。さ、手前にある雑誌コーナーから確認していきましょう」
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