第11話
足場の傾斜が不安定な道を、姉と二人で並びゆったりと歩いていく。
殺風景ではあるけれども、人の気配を感じない空間は、それだけで心を落ち着ける効果があるようだった。
左右に群生する木々は、大半が一糸まとわない姿を晒している。昆虫の奏でる自然の音色も、少なくとも僕の耳には届いていない。
「静かねぇ。夏なら折り重なった蝉の鳴き声を聞けそうなのに、冬はしっとりと落ち着いてるわねぇ」
「この遊歩道の一番の売りは、樹木の最盛期には頭上を覆う葉っぱの屋根ができて、猛暑日でも涼しさを感じられることなんだよ」
「流行のエコというやつかしら。是非とも夏に、ここで一日中のんびりと過ごしてみたいものだわ」
「姉ちゃんは結構自然が好きなのかな? だけど、今の時代には、姉ちゃんみたいに考える人は少ないだろうね」
「現代は空気調和の技術が進歩しているようだから、仕方がないわ。いくら日陰だからといって、外は夏なら夏の気温だし、冬なら冬の気温に変わりはない。夏に冬の気温、冬に夏の気温に室温を自在に調整できるのなら、わざわざ外出するのは相当な物好きくらいでしょう」
「僕もどちらかというと……というより、完全に現代の生活に慣れてしまっている派かな」
「いいのよ。それが普通なんだから。文明の発達によって生活や考え方が変わっていくのは当然よ。旧い思想にいつまでも囚われているのは、とても賢いとは言えないわ。ただ――」
一歩前を先行していた姉が、足を止めて視界の右側に広がる森を見る。
人間の個性と同じように、様々な模様や大きさをした木々が、果ての見えない奥地にまで所狭しと立ち並んでいる。
「ただ、この景色を忘れたりはしてほしくないわね。自分達が生きている土地が、どういう所なのか。どれだけ便利な世の中になっても、いずれ自然が消滅してしまったとしても、それだけは覚えていてほしいと思うわ」
「テレビでも度々環境問題は取り上げられているし、姉ちゃんと同じことを危惧している人はたくさんいるよ」
「誰か一人でも忘れずにいて、守るべき物を伝え続ければ、たとえ小さな灯火だとしても決して消えたりはしない。自分がどこに住んでいるのか誰も分からなくなってしまったら、それもまた世界の破滅と同義なのでしょうね」
「先代の神様も、同じように考えていたのかな?」
「あたしの中には、先代の思想に関する情報は存在していないから確証は持てないけれど、同種のあたしがこんな自論を思い付くのだから、可能性としては高いかもしれないわ」
「世界を破滅させようとするのも、自然の尊さを忘れかけている人類に憤怒したからかもしれない」
「優くんの言うとおりだとしたら、早計にも程があるわね。多くの人から神と敬われる存在が、短気で呆れた愚者だなんて、悪夢みたいな真実ね」
「そうじゃないことを僕は祈るよ」
「祈ったところで、もう亡くなってしまっているのだから意味がないわよ?」
「……そっか」
歩いてきた道を振り返る。落葉を雑に払っただけの細い道が伸びている。道の両脇には、除けられた葉が乱雑に積み重なっていた。
これから進む道に視線を戻す。来た道と同様に、少しだけ人の手が加えられて作られた道が、樹木の壁の間を縫うようにして続いている。
――音がない。
歩いていない時、姉が喋っていない時、僕が喋っていない時、ここには何も音がない。
他人もいない。姉がいなかったら、ここに立っているのは僕一人だ。
森は枯れている。言い換えれば、一時的ではあるが森は死んでいる。
死んでいる。
「こうして静かにしていると、世界が既に終わってしまったかのようにも感じるわね」
「……ねぇ、これが何かの手がかりだったりしないかな?」
「難しいわね。あたしにはパッと思いつかないわ。優くんはどう?」
「えっ、僕?」
「そうよ。優くんだって、あたし達がいる森林の静けさに、先代がもたらそうとしている世界の破滅に通ずる何かを感じたのでしょう?」
「だけど、ほんの一瞬だけだよ。だって、世界が終わったら誰もいなくなるでしょ? 破滅を想起させるような状況だけど、姉ちゃんがいるからちょっと違う気がする」
「なるほどね。生き物が生活を営んでこその世界と考えれば、単純に景色を見るだけじゃあ破滅したとは思わないわ。さっすが優くんっ!」
何故か背中を叩かれる。
「いたっ! 別に、大したことは言ってないよ」
「いいえ、やっぱり優くんを連れてきて正解だったわ。危うく、見当違いの推論を始めてしまうところだったもの。かなりの無駄が省けたはずよ」
「まだ間違いだと決まったわけじゃないと思うけど」
「そうかしら? とりあえず、頭の片隅には残しておくわ。そうと決めたら、探索を続けるわよ。まだ〝小さな枯れ木〟は見つかっていないのだから」
「うん、ついていくよ」
「駄目よ。今度は、あたしがついていくのだから」
「つまり、僕が前を歩くの?」
「そうよ。散々あたしの背中を見せてあげたんだから、今度はあたしにも優くんの後ろ姿を見せなさいよっ! 権利独占は許さないわっ!」
「誰も背中なんて見てないから! ちゃんと周りを観察してたから!」
「あら、そうなの? 優くん真面目ねぇ~。ありがたい限りだけれど、少しくらい息抜きしても良かったのよ? 人間の集中力は、基本的に長くは保てないんだから。お姉ちゃんの背中を見て、森林に負けないくらいのマイナスイオンを感じても良かったのよ~?」
「そんな効能ないでしょ! いいよ。そういうことなら先を歩くから。ほら、早く行くよ」
「はっ……! なんか、いまの優くんからはとてつもない包容力が溢れていたわ。まさか優くん、あなた、圧倒的な弟力だけでなく、母性まで兼ね備えていたの?」
「わけわかんないこと言わないでよ! 全然集中できないじゃないか! ていうか、〝弟力〟なんて単語初耳だけど、それなに!?」
「あたしが即席で生み出した造語よ。弟としての魅力を評価する指標となるもの。それが弟力よっ!」
「そ、そう。褒められているのか貶されているのか、よく分からないな」
「滅相もないわ! あたしが優くんに罵詈雑言を浴びせるわけがないじゃない! 褒めているのよっ! 最大の賛辞よっ!」
「あ、うん。そういうことなら、ありがとう」
「お礼なんていらないわ! あたしは、当然のことを言っただけですもの!」
「……先に進むよ」
また変なスイッチが入ってしまったようだ。これも、自我が完全に形成されていないことに起因するとでも弁明するのだろうか。
彼女のようなタイプの人は、これまで僕の周りにはいなかった。僕をおだてて遊ぶような人は、僕の知り合いには一人もいない。
慣れていなかった。たとえ冗談だとしても、褒められるという行為に免疫ができていなかった。
人格が未熟であるがため、というのなら、早いところ成熟してほしいと思う。このままでは、僕はきっと、いつまで経っても彼女への苦手意識は薄れないだろう。
「優くんの後ろ姿、とても勇ましいわね~! つい助けてあげたくなる弟力に、時に傷ついた心を支えてくれる母性。そして、頼りたくなる一人の男の子としての一面もある。優くん、あなたは平凡なんかじゃないわ! あなたは、あたしの最高の弟よっ!」
どう返したらいいのか分からず、僕は無言のまま歩き続ける。
しばらくすると、高揚した気分が落ち着いたのか、姉が静かになった。
集中して目的の植物を探しているのだと受け取ったが、またおかしな行動を起こしていないか心配にもなったので、確認のために僕は首を回して背後に目を向ける。
すると、目と鼻の先に、姉の端正な顔があった。
「う、うわっ! なんでこんな近くにいるんだよ!」
「うふふっ、驚いた優くんもかわいい~! まんまと引っかかったわね!」
「あ、あんまりふざけないでよ。僕は例の植物が生えていないか、しっかりと探しているんだよ?」
「あたしだって見落とさないよう集中してるわよ。その証拠に、優くんだって見つけていないでしょ?」
「なんかそれ、卑怯じゃない?」
「そうかしら? 前を歩いてる優くんが発見していないのだから、後ろのあたしが見つけているはずがないと思うのだけれど」
「それってつまり、後ろの人はサボってても、自分一人で責任を負うのは免れるってことだよね。もし見落としても、前を歩いていた人との連帯責任になるから」
「ええ。そういうことになるわ。でも、お姉ちゃんはサボってないわよ?」
「本当?」
「ええ、もちろん。あたしが優くんに嘘をつくわけないじゃない。優くんを愛する心に誓うわ!」
「……とりあえず、信じるよ。誤解を招くから、もう変なことはしないでよ」
「もともと変と指摘される行為をした覚えはないけれど、留意するわ」
「頼むよ、ほんとに」
「大丈夫よ。優くんに嫌われたくはないから、優くんの命令には必ず従うわ」
今朝から何度もしつこく繰り返されているせいか、姉の口にする〝優くんの〟という枕詞に対する信憑性が著しく低下していた。
訝しく思った僕は、探索を再開して少し経過してからもう一度振り返る。
姉は別人のように鋭い眼光を携えて、辺りに広がる林を睥睨している。
あまりの没頭ぶりに、僕自身の姿勢を叱責されたように感じた。彼女に疑念を抱いたことが、消し去りたいほどに恥ずかしくもなる。
踏み潰した落ち葉が砕ける音のみを奏でながら、僕と姉は遊歩道を先へ先へと進んでいく。〝小さな枯れ木〟に類似した植物だけでなく、些細な異変の機微をも見逃さないよう、緊張と集中を高めながら、折り返し地点を越えてなおも休まず歩いていく。
そして――。
「ふぅ~。とても疲れたわねぇ~。人間の身体は、脳を働かせた時に最も体力を消耗するように出来ているのだから、肉体的な疲労と精神的な疲労が相まって、間違いなく一日分のエネルギーを使い切ってしまったでしょうね」
「はぁ~。こんな疲れ方をしたのは初めてだよ。なんか、頭の回転がひどく遅いように感じる」
「それがエネルギー切れの証拠よ。それに、これを見てみなさい」
姉は淡紅色のコートのポケットに手を入れると、同じく淡紅色の外装に覆われた携帯電話を取り出した。スリープを解除すると、ロック画面を僕に向ける。
「もう十四時になるところよ。あたし達、お昼まだ食べていないじゃない。エネルギーが足りていないんだから、倦怠感に襲われるのも当然だわ」
「ていうか、姉ちゃん携帯もってたんだ」
「これも、先代が用意してくれたみたいね。あたしの部屋に最初から置いてあったわ。隣にあったパソコンで調べてみたら、どうやら大手メーカーの最新機種みたいね。ほんと、変なところで気を利かしてくれるんだから」
「パソコンも用意されてたの?」
「あら、気づかなかったかしら? さっき部屋で喋っていた時も、もう一つの机の上に置いてあったわよ? 抜かりなく、淡紅色をしたノート型のパソコンがね」
「言われてみると、あったような、なかったような……」
「見たかったら家に戻ってから好きなだけ見せてあげるし、使いたかったら貸してあげるわ。それよりも今はご飯よ! ご飯を食べましょ!」
「じゃあ、帰る?」
「そうしましょうか」
僕と姉は、遊歩道の反対側の出入口であるバーベキュー広場の付近から、施設自体の出入口に向かい進んでいく。
姉が途中で立ち止まり、バーベキュー広場の脇に建てられているコテージに目を留めた。
「素敵なコテージね。こういう自然に囲まれた環境で生活できたら、さぞかし楽しい日々が送れるんでしょうねぇ」
「そこ、宿泊場所として貸し出してるみたいだけど、利用料金がすごく高くてね。それでも夏になると予約が殺到して、日ごとに抽選で利用者を決めなきゃならない事態になるほどの、ここの施設の稼ぎ柱らしいよ」
「やっぱり、自然の魅力を忘れていない人はまだまだたくさんいるみたいね。優くんは、ここを使ったことあるの?」
「一回もないよ。だって、自分の家が近くにあるんだから、わざわざこんなところでお金払ってまで寝泊りしようだなんて思わないよ」
「ふぅん。そういうものなのかしら?」
「そういうものだよ。普通は」
答えると、姉は名残惜しそうにコテージを数秒間見つめた後、振り返って再び歩き始めた。
僕も彼女の隣に並び、自宅を目指して歩く。
身長がほとんど変わらないせいか、僕達の歩くペースはまったく同じだ。彼女に合わせようと意図しなくとも、同じ速度で先に進んでいく。
自然と触れ合うために作られた施設を後にして公道に出てからも僕達は、他愛のない話を時折しながら、並んでゆっくりと歩いた。
目的は果たせなかったけれど、今日初めて会ったばかりの姉との距離感が、少しだけ縮まったように思えた。
少なくとも、〝姉〟という呼び方に対して、僕はもう違和感を抱いていなかった。
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