第10話
自宅の玄関で姉の準備が終わるのを待ち始めて、十分が経過しようとしていた。
――遅い。
女の子が外出する時には男性の何倍もの時間がかかるなんて話を聞いた覚えはあったけれど、あれは本当だったみたいだ。
玄関と廊下の境にある段差に腰かけて更に五分経った頃、慌てて階段を駆け下りる音が家に響いた。
すかさず居間の扉が開き、母親が顔をのぞかせる。
「神奈っ! 階段は静かに下りなさい!」
「ごめんお母さん! 次から気をつけるから!」
「まったく、しょうがない子ねぇ……」
諦めにも似た調子で呟くと、母さんは居間に戻る。
扉が閉まる音と同時に、着替えを済ませた姉が玄関に現れた。僕が視線を向けると、彼女は座っている僕にウインクして、愛嬌のある顔で見下ろしてくる。
「ごめんね優くん。待たせちゃったわよね?」
「別にいいけど、どうしてこんなに時間がかかったの?」
「女の子には色々あるの。特に好きな男の子と出かける時は、身だしなみには普段より一層の気を遣わなければいけないから、余計時間がかかってしまうのよ」
「す、好きな、とか……それはもう言わなくていいから。というか、時間がかかるなら最初に言ってよ。準備に十五分くらい必要って言ってくれれば、僕も別のことをして暇を潰せたんだし」
「申し訳なかったわ。あたしも、外出の準備にこれほど手間取るとは思っていなかったの」
「着替えにかかる時間くらい、大体わかるでしょ」
「慣れればそうかもしれないけれど、初めてだったんだもの。あたしだって、適当な服を選んで髪を梳るだけで充分だと計算していたのだけれど、いざやってみると中々難しくてね」
「その割りには、髪型はさっきとそんなに変わっていないように見えるけど?」
「違うのよ。難しかったのは洋服選びの方なの。だから、遅れてしまったのは優くんにも原因の一端があるのよ? 優くんがあたしの着る服を選んでくれなかったら、あたしはあたしなりに優くんの好きそうな服装を考えるしかなくて、ずっとそれで迷っていたの」
「極端に変な服じゃなければなんでもいいって言ったじゃないか」
「それが一番困るのよ。深く思案せずに決めて、優くんに嫌な顔をされたらショックで立ち直れなくなってしまうわ。三日三晩寝込んで無駄な時間を過ごさないためにも、じっくりと考えなければいけなかったの」
「そんな気にしなくてもいいのに……」
「あたしが気にするのよっ! それで、どうかしら? この服なら、優くんの隣を歩いてもいい?」
白いブラウスの上に、彼女の部屋を一面染めている色と同じ、淡紅色のコートを羽織っている。下は灰色のチェック柄のスカートに、黒のタイツを履いていた。
よく似合っている。第一印象で、僕は素直にそう思った。もしかしたら、とてもじゃないが人前には出せないコーディネイトをしてくるかもしれないと僅かながら心配もしていたけれど、どうやら杞憂だったみたいだ。
「べ、別に、僕がどうとかは何だって構わないけど……見た感じあったかそうだし、それなら外に出ても大丈夫だと思うよ」
「ありがとう。優くんが褒めてくれるなら、長いこと悩んだ甲斐があったわ」
「それにしても、部屋を見た時にも思ったけど、その色、好きなの?」
「このコートのこと? うーん……正直、よくわからないわ。壁紙や調度品の色を決めたのも、用意する服の色を決めたのも、あたしの意思ではないから。部屋に置いてあった服も、淡紅色を基調とするデザインが多かったのよ。でも、なんとなく惹かれしまうあたり、あたしの好みなのかもしれないわ」
「好きな色まで決められているなんて、抜かりないなぁ」
「構わないわ。悪い気はしないし。優くんはこの色好き?」
「嫌いじゃないよ。なんというか……うん。嫌いじゃない」
「そう。なら、良かったわ」
「姉ちゃんに似合っていると思うよ」という感想が喉の手前まで上ってきたが、そんな恥ずかしい台詞を平気で吐けるはずがない。
ごまかしにしても苦しい言い方だと省みたが、特に言及もされず、姉は満足した様子で淡白な返事をするだけだった。
姉は僕の隣に座り込み、いつの間にか両親や僕の物と並んで置かれていた自分の靴を履いて、つま先で床を叩きながら立ち上がる。
彼女が外出用に選んだのは、有名メーカーの白いスニーカーだ。
他にもいくつか、昨日まではなかったはずの靴が置かれていた。確かめたわけではないけれど、まず間違いなく全て姉のために用意されたものだろう。中には、僕の通っている学校の女子生徒がよく履いている茶色のローファーと思しきものまであった。
これも十三月のカレンダーと同じ、あからさまな不自然だ。本来ならば、事情を最も知っているであろう姉に即座に尋ねているだろう。しかし、異変に巻き込まれて半日が経過した僕は、徐々に環境に適応してきているようだった。
僕は、十五分前に玄関へやってきた時、そこにあった見慣れない靴を目にして何の疑いも抱かずに姉の私物だと判断していた。
自己解決してしまった僕にとって、存在しないはずの履き物に対して質問をするのは、時間の浪費でしかない不毛な行為と化していた。
「ところで、これからどこに行こうとしてるの?」
「とりあえず、ここから南に向かった先にある森を見に行きましょう。自然の多い場所の方が、事態を解決するために必要な手がかりが隠されていると思うわ」
「根拠は?」
「女の勘よっ!」
「へぇー……」
「ちょっと。テキトーに流そうとしてるでしょ? ひどいわね。せっかくお姉ちゃんが汚名返上の意味を込めてビシッと決めたんだから、もっと喜んでる顔を見せなさい」
「いや、だってそれ、理由にならないでしょ」
「そうかしら? ヒントがないのだから、勘で動くのも悪くはないと思うのだけれど。ちなみに、あたしが森の探索を提案したのは、純白の空間にある例の植物がこっちにも存在していないか探したかったからよ。現状、あの〝小さな枯れ木〟くらいしか、解決に関係ありそうな情報がないからね」
「ちゃんとした理由があるじゃないか。初めからそうやって説明してよ」
「言ったわよ? あたしなりに短くまとめたら、女の勘って言葉になっただけよ」
「それじゃわからないよ!」
「あら、そうなのね。うーん……わかったわ。優くんがそう言うなら、これからは勘がどうとかというのは、使わないよう自粛するわ。少し残念だけどね」
姉が玄関の扉を手で押し開ける。
隙間から漏れてきた陽光を半身に浴びながら、彼女は微笑んで僕に振り向いた。
「それじゃ、行くわよ、優くん!」
僕の家のある住宅街から南方に歩いていくと、田舎と評される東條町を象徴するような、広大な森林地帯が景観を支配している。
住宅街から県道に沿って進んでいくと、山の頂上に続く急峻な道と、小さなキャンプ場に続く比較的緩やかな道に分かれる。
山を超えるとなると、あまりにも探索の範囲が広くなってしまうので、ひとまずキャンプ場の周辺を探してみることにした。
「知識としてはどんな場所か知っていたけれど、実際に来てみると違うわねぇ。想像より、ずっと素敵な所じゃない。清冽な川のせせらぎが聞こえるほど静かで、とても多くの自然に溢れている。おかげで空気も澄んでいるし、言う事なしじゃない。きっと、真夏だと輪をかけて素晴らしいのでしょうね」
「今は冬だから見ての通りほとんど人がいないけど、夏になると他県からわざわざ足を運ぶ人もいるくらいには活気づくよ」
「そうみたいね。こんなに良い所が歩いていける距離にあるのなら、優くんは年に何度も家族や友達と遊びに来ているのでしょう?」
「僕が小学生の頃は親に頻繁に連れてかれたけど、最近は全然だよ。前に来たのは、よく覚えていないけど、たぶん二年か三年前だ」
「ふぅん。もったいないわねぇ」
「近すぎても飽きるんだよ。おかげで、キャンプやバーベキュー、釣りといったこの施設の売り文句にあるような娯楽には、あんまり魅力を感じなくなったね」
「あたしはとても興味があるのだけれど、優くんがそう言うなら、今日は遠慮しておくわ。他にやらなきゃいけないこともあるしね」
「そうだよ。あの真っ白な場所にあった物と同じ植物を探すんでしょ? 遊びにきたんじゃないんだから、早く探そうよ」
「そうね。落ち着いたら、優くんと一緒に気の済むまで楽しみたいけれど、それはまた別の機会にしましょうか」
一組の親子が川沿いを歩いているのが見えた。草木の活気が無くなる冬の季節であれど、きらめく川や人工的な建造物が一切映り込まない純然な自然に包まれた空間は、散歩するのには理想的な場所である。
ここの管理、運用を任されている東條町の担当者もそういった利点を放っておくべきではないと判断したらしく、貴重な自然環境を人々の目に触れさせるために、施設一帯の外円を整備して遊歩道を作り上げた。
姉は付近にあった案内図を見上げて、蛇行しながら大きく円を描く細い道の、出入口の一つを指差した。
「木の葉を隠すなら森の中。うっかり踏んじゃったら折れちゃいそうな貧弱な樹木だったけど、あれが植物であるなら、隠すべきは自然に溢れている所じゃないかしら。ヒントも用意していないのだから、先代だって、そう簡単に見つけさせるつもりはないはずよ」
「探してみる価値はありそうだけど、どうやって隈なくチェックしていく?」
「なにも時間をかけてじっくりと気を張りながら、精神をすり減らして見落とさないよう力を入れる必要はないと思うわ」
「だけど、遊歩道を一周して何も見つからなかったのに、実は気づけなかっただけなんて事態になったら大変じゃないかな?」
「そうだけど、あらゆる行動を完璧にこなすことが許されるほど、あたし達には時間の猶予がないのだから仕方がないわ。悠長に構えられない状況下では、いかに完全である選択を切り捨てて、良い按配の判断ができるかが肝なのよ」
「じゃあ、立ち止まったりまではせずにゆっくりと一周だけして、その間に見つかればラッキー程度にしておくって感じ?」
「ええ。それに、あの植物と類似した物を探し出せば正解なのかすらも判然としていないのだから、その一点にだけ囚われず、広い視野で探索するべきかもしれないわね」
「そうなると、あまり期待はしないでいた方が良さそうだ」
「今日が初日なんだから、もとから期待なんてしていないわよ。良い意味で裏切ってくれるなら、それに越したことはないけれどね」
視線を戻した姉は、僕の顔を軽く一瞥すると、キャンプ場のある方向に歩き始めた。彼女の後ろを、彼女の歩くペースに合わせてついていく。
夏場はカラフルなテントが乱立するキャンプ場も、冬場は変哲もない芝生の敷き詰められた広場でしかない。球技をするにはもってこいの環境ではあるが、いまは誰も遊んでいる人はいない。
「ここが入口ね」
「うん。まぁ、正確には出口と入口とかはなくて、どっちから入ってもいいし、どちらから出ても問題ないんだけどね」
「優くん、結構細かいことを知っているのね」
「飽きるほど訪れた場所だから、それほど興味がなくても色々と覚えちゃっただけだよ」
「あたしも、目を閉じると、優くんや優くんの両親と一緒に山道を散歩している記憶が湧きあがってくるわ」
「えっ? それ、どういうこと?」
「合成写真みたいなものね、きっと。記憶を失っている状態で、物的証拠である写真を突きつけられたら、その写真がたとえ偽物だったとしても、自分はそこにいたかもしれないと思うでしょう?」
「記憶喪失になった経験なんてないから、よくわからないよ」
「あたしにもよくわからないわ。ただ、あたしの場合は記憶自体が偽物で、それも自覚してる。数多の思い出の引き出しがあるけれど、収納されている記憶の断片は、その全てが紛い物というわけね」
「父さんや母さんと過ごした時間が思い出として残っていて、身に覚えがあるってこと?」
「そうね。桜庭神奈と呼ばれる少女が、これまでにどういう人生を歩んできたのか。その全てが、実体験をもとに生成された記憶としてあたしの中に納められているわ」
「なんというか、それって……寂しくないの?」
「寂しい、かしら?」
「僕だったら耐えられないかもしれない。覚えていることは全て嘘で、正しいことは何一つ覚えていない。そんなの、もう別の人間じゃないか」
「優くんがそうやって考えるのは、たぶん、優くんに本物の思い出があるからよ」
「姉ちゃんは、経験から得られた本当の記憶がまだ少ないから、特に何も感じないの?」
「断言はできないけれど、おそらくそうなんでしょうね。あたしは、生まれてからようやく半日が経過したくらいの、赤子みたいな存在よ。あたしの記憶はこれから始まるのだから、植えつけられた情報は便利な道具程度にしか捉えていないわ」
「達観してるね。僕には同じ立場でも、姉ちゃんみたいに冷静でいられる自信がないよ。偽物の記憶に振り回されて、ひたすら混乱してそうだ」
「あたしはまだ感情が良く分かっていないから、単に無関心なだけかもしれないわ。人間というよりはロボットみたいなものよ」
「もしも姉ちゃんが機械だとしたら、きっと、人間と区別する方法はないと思う」
「ふふっ、そう真剣に答えなくていいわよ。あたしは人間でも機械でもないんだから。さ、続きは歩きながらにしましょ」
枯れ落ちた紅葉の絨毯を踏み鳴らしながら、姉が遊歩道の入口に進む。
――そうだった。
僕は、早くも大事なことを一つ忘れかけていた。
彼女は、世界の破滅を救済するために現れた神様だったんだ。
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