第9話

 淡紅色を基調とした、昨晩までは物置だった部屋の座卓の前で、僕は胡坐をかいて座っていた。

 壁にかけられている時計に目をやる。あの白い空間に移動した時刻から、一時間ほど経過していた。あちらにいる間も、現実の時間は平常運転をしているようだ。


「それじゃ、とりあえず脱ぎましょうか」

「はっ……? えっ、えっ?」


 戻ってくるなり早々に、姉は突拍子もない言葉を発して着ているパジャマの裾に手をのばす。


「ま、待って待って! 何してるんだよ!? 僕がここにいるでしょ!」

「ええ。それは、そこにいるわよね。部屋を出て行っていないんだから」

「そうじゃなくて、そうじゃなくてさ! なんていうか、わかるでしょっ?」

「無茶言わないでちょうだい。あたしには、相手の心を覗いたりなんてできないのよ。伝えたいことがあるなら、声にして言葉にして教えてくれないと分からないわ」

「そんな……じゃ、じゃあ言うけどさ、ぼ、僕は男なんだよ?」

「それくらい分かっているわよ。優くんは、あたしのかわいい弟よね。弟と呼ばれるくらいなんだから、それは男の子でしょう」

「姉ちゃんは、いま何をしようとしてる?」

「見ての通り、着替えるために服を脱ごうとしているのよ。これから探査を目的に外出するのに、寝間着のままでいるわけにはいかないでしょう? そういったモラルを守るための最低限度の知識は、抜かりなく備わっているわ」

「いや、断言してるけどさ、姉ちゃんのモラルについての認識には、欠落してる部分があると思うよ」

「そうかしら? それが、優くんが焦っている理由?」

「そうだよ。だって、男性がいるところで女性が着替えるのっておかしいでしょ。それを知らないんだとしたら、与えられてる知識には抜けがあると思う」

「優くん、貴方勘違いしているわよ。あたしだって着替えを異性に見られるのは嫌だし、それが一般的な考え方だってことくらい、ちゃんと知っているわ」

「だったら矛盾しているじゃないか。ここで着替えようとしてるんだよね?」

「それとこれは無関係でしょう。優くんは男性である前に弟なのよ? あたしの家族なの。家族なんだから、性別の垣根は取っ払っていいはずよ。裸体を晒すのは流石に好ましくないだろうけど、家族の前で着替えをするくらい、何の問題もないでしょ?」

「そ、それは……それはさっ!」

「どうしたのよ。優くん、なんだか顔が赤いわよ? もしかして、お姉ちゃんの身体を見て発情してるの?」


 元々は異性の兄弟がいない僕にとっては、姉の言う道理がよくわからない。わからないけれど、長い時間を共に暮らしてきたからこそ、性別の垣根を超えられるようになるのだと思う。異性だと認識しなくなった相手に、情欲を抱いたりはしないだろう。

 けれども、姉を名乗る彼女とは、ほんの数時間前に出会ったばかり。戸籍上で実姉だとしても、僕にとって見れば初対面の女の子だ。目の前で同年代の異性、それも、容姿端麗な彼女が服を脱ごうとしているのだから、本心はどうあれ止めて然るべきなのだと僕は思う。

 僕は、絶対に間違っていない。

 そうだ。僕は、絶対に間違っていないんだ。


「そ、そそ、そんなわけないじゃないかっ! 変なこと言わないでよっ! これは、僕の話を中々理解してくれない姉ちゃんに対して怒ってるから紅潮しちゃってるんだよ! よくわからないけど、普通の姉は弟がいる目の前で着替えたりはしないと思うし、僕はそうであってほしいっ!」

「そうなのね。それは申し訳なかったわ。謝るから、そんなに怒らないで優くん」

「ま、まぁ、わかってくれたならいいよ」

「ええ、わかったわ。優くんがそう考えているなら、優くんの意向に留意するわ」


 パジャマから手を離した姉は、近くにあった衣装ケースを開く。

 そこには女物の洋服がぎっしりと詰め込んであり、姉はそれらを一枚一枚手にとっては、広げて部屋の床に並べ始めた。

 僕はその風景を、呆然としながら眺める。


「でも、着替えはしなくちゃいけないわよね。色々用意してくれたみたいだけど、どれにしようかしら? うーん、あたしくらいの年頃の女性が好みそうな服装は……」

「……」

「んー…………あっ! そうだわ! ねぇ優くん、ちょっといいかしら?」


 衣服に落としていた視線を上げて、彼女が僕を見る。

 嫌な予感がした。

 彼女と出会って間もないが、確かに理解したことが幾つかある。その一つが、彼女がわざとらしい仕草を見せた時、それは、ろくでもないことを思いついた証拠であるということだ。


「なんか目がキラキラしてるけど……ど、どうかしたの?」

「ねぇ、優くんがあたしに似合う服を選んでくれないかしら? 客観的にコーディネイトを考えた方が、世間的な評価を得られると思うのよ」

「そんなこと急に言われても、女の子の服なんて選んだ経験ないし、自信ないよ」

「大丈夫。たとえ大衆から酷評される服装でも、それが優くんの選んでくれたコーディネイトであれば喜んで着てあげるから! だけど、あんまり露出が多いのは極力避けてほしいわね。寒くて外に出られないんじゃ、本末転倒だもの」

「本気で僕に選ばせようとしてるの?」

「もちろん。どんなリクエストにだって応えてあげるわ。たとえ布地が少なくとも、それが優くんの好みなら、体温の低下を抑制する必要性なんて些細なものよ。我慢してみせるわ」

「べ、別に、そういった服は好みなんかじゃないから! 変なデザインの物さえ避けてくれれば、なんだっていいよ!」

「変な、と言っているのは、例えばこの胸元に大きな穴が空いた服かしら?」

「そ、そうだよ。そういうやつだよ!」

「うーん……確かにこれは、あたしの体型じゃあ似合わないわね。おそらく、穴から下着が見えてしまうだろうし、みっともないわ。モラル的にも、それはまずいわよね。的確な助言をありがとう。そこまで考えて、教えてくれたのね」

「そ、そういうわけじゃないけど……と、とにかく! そんな感じの基準で、適切な服装を姉ちゃん自身で選べばいいよ!」

「もうっ、分かったわよ。自分で考えてみることにするわ」


 僕をじっとりとした目で見たまま、彼女は頬を膨らませた。


「それじゃ、あたしはあたしで着替えるから、優くんも早く着替えてきてよね」

「えっ、僕も着替えるの? なんで僕も着替えなきゃいけないの?」


 僕はいま、学校の冬季連休の真っ只中だ。今日は精神的にも疲れたし、これから自分の部屋でゆっくりしようと考えていた。二度寝も視野に入っている。


「説明するまでもないでしょう。当然、あたしと一緒に出かけるためよ」

「例の、探査をするために? あれって姉ちゃんが一人で行くんじゃなかったの?」

「違うわよ。あたしはこの町を知ってはいるけれど、歩いた経験はないわ。優くんが蓄えている情報も参考にしたいし、優くんがいなきゃ気がつかない点だってあるかもしれない。だから、現在の東條町を熟知していて、なおかつあたしと共に十三月を過ごす唯一の存在、優くんの同行は必須なのよ」


 知っているけれど、覚えはない。彼女の記憶は、押し付けられた情報であるがため、それが正しいものである確証はない。記憶喪失と似ているように思うけれど、失くしたわけではない。

 脳に埋め込まれた知識の正否を見極めるためにも、実際にこの町に住んでいる僕の知識との整合性を確かめる必要がある。そういうことなのだろう。


「なんとなく、わかった。仕方ないから、僕もついていってあげるよ」

「ふふふっ、ありがと、優くんっ!」

「うわっ、ちょっ、ちょっとっ! 抱きつこうとしないでっ!」

「照れちゃって~。もうっ、かわいいわね!」


 うまく言いくるめられた気がしないでもない。けれど、僕が必要とされているなら、姉の行動に付き合うのも悪くはない。

 今年の冬休みは、寝てばかりもいられなくなりそうだ。

 感情としては、迷惑に思う気持ちも介在している。けれどもそれ以上に、ここにいる彼女への興味が僕の行動を後押しした。

 僕は、この不思議な姉のことをもっと詳しく知りたい。

 淡紅色の部屋を後にして、僕は自室に戻って外出用の服に着替え始めた。

 着替えをしている最中、自分がうわついていることに気がついた。

 雑念を振り払い、余計な感情を心の奥の方へとしまい込む。

 気持ちを落ち着けてから自分の部屋を出て、彼女と待ち合わせをした玄関に、一足先に移動した。

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