第13話

 雑誌コーナーに移動した。入口のすぐ横にあるATMの隣から奥にあるお手洗いの手前まで、窓に沿って売り場が設けられている。それぞれの数は少ないが、種類だけはやたらと多く取り揃えているようだ。普段雑誌を読まない僕でも名前を知っている本に関しては、他よりも在庫が多いように見えた。


「ふぅん。インターネットが普及した世界でも、本当にこんなにたくさんの雑誌が残っているのね」

「買ってる人なんか殆ど見かけないけど、ちゃんと売れてるのかな、これ」

「置いてあるのだから、それなりに売れてはいるんでしょう。ねぇ、誰もが電子機器で目的の情報を得られる時代なのに、雑誌が無くならないのはなぜだと思う?」

「わからないけど、読み物は紙媒体じゃないと駄目って声はたまに聞くね」

「へぇ。旧い文化に慣れすぎてしまったのか、それとも、時代の進化についていけないのかしらねぇ」

「あとは、端末にはバッテリーの問題が絡んでくるからね。電力消費を抑えるために、購入時のコスト以外が必要ないっていう理由から紙の本を選んでる人もいるとは思うよ」

「合理的な理由ね。雑誌を読む人口としては、そちらの方が比率が高そうね」


 姉は雑誌コーナーに背を向けて、反対側の日用雑貨の並ぶスペースに視線を移した。


「こっちは雑貨をまとめているのね。数は多くないけれど、様々な状況で役立つ物を最低限の種類だけ取り扱っているようね。これは便利だわ」

「専門店に比べると、ちょっと値段が張ってるけどね」

「仕入れる品数が少ないのだから、それは仕方がないわ」


 さっと視線を左右に巡らせた際、赤色の壁紙が張ってある販売スペースに置かれている商品に、姉が目を留めた。


「美容用品も置いてあるわね。売れるから置いているのだろうけれど、どんな状況で必要になるのかしら? 想像がつかないわ」

「旅先で化粧をする時とか、どうしてもすぐに要る時じゃないの?」

「うーん……いまいち理解できないわね。身なりを整えるのは大事だと思うけれど、わざわざコンビニで道具を購入してまで、見た目をよくする必要なんてあるのかしら?」

「実際に需要があるから、こうしてコンビニで扱っているんじゃない?」

「それは、そうなんでしょうけど……。うーん、人々の美に対する意識は、あたしが考えている以上に高いのかもしれないわね。とても興味深いわ」


 親指と人差し指の間に顎をのせて、腰を屈めて姉がじっくりと美容用品を観察する。

 僕は化粧品には関心が薄いので、なんとなく目の前にあった雑貨品を眺めていた。


「まぁ、詳しくは帰ってからインターネットで調べてみるわ。次にいきましょう」


 そう言うと、姉は棚の裏側に回った。

 裏側にあった文房具や缶詰の山をひとしきり確認してから、姉は次の棚を振り返る。

 同時に、別段めずらしくもない物を視界に収め、大袈裟に息を呑んで目を輝かせた。


「っ!! これっ! これ、一つ買い物かごに入れるわよ!」

「カップラーメン? 姉ちゃん、もしかしてそれを昼飯にするつもり?」

「いえ、夕食用よ。カップラーメンは、あたしの一番の好物と認識しているわ」

「随分と不健康なんだね。神様の考えはよくわからないなぁ」

「分かったら苦労しないわよ。でも、好物であるのなら、あたしの味覚はカップラーメンをおいしいと感じるように調整されているはずよ」

「おいしいのは間違いないけど、僕はそんな気分じゃないなぁ」

「別に、優くんがあたしに合わせる必要はないわ。あたしも、昼食にはお弁当を買うつもりだから」

「そうさせてもらうよ」


 姉がカップラーメンの陳列されている棚の反対に回る。そこでは菓子類がスペースを貸しきって並べられていたが、意外にも姉は観察に時間をかけずに、次の棚に移った。

 間食はしない主義なのかと思ったけれど、入口から最も離れた売り場にあるボックス型の冷凍庫には興味を示した。

 彼女が注目したのは、冷凍食品ではなく、アイスの方だ。


「食後のデザートとして、一つ買っていこうかしら」

「こんな寒い日にアイスを食べるの? そっちにあるケーキとか、シュークリームにしといた方がいいんじゃない?」

「寒いのは外だけよ。家には暖房器具があるじゃないの」

「わざわざ暖房の効いた部屋で冷たい物を食べるの? なんかおかしくない?」

「論理的には破綻した行動だと思うわ。でも、感覚が教えてくれるのよ。冬に暖かい場所で食べるアイスは、真夏に外で口にするのと同じくらいおいしいとね」

「アイスも、記憶にある姉ちゃんの好物なの?」

「いいえ。これは、あたしが今、この冷凍庫を目にした瞬間に生まれた嗜好よ。与えられた記憶には、あたしの味覚が冷たい乳製品をおいしく感じるなんて情報は見つからなかったわ」

「なんかよくわからないけど、買うならどれにするか決めないと。姉ちゃんみたいに考える人が多いのか、冬に並んでるアイスの量は、夏とほとんど変わらなくて種類や味も多いし、そう簡単に決められないんじゃない?」

「うーん、そうねぇ……どれも記憶にある商品だけれど、こういうのって、自分の味覚との相性が大事だから、難しいわねぇ……」

「別に、他のやつを食べたくなったらまた買えばいいじゃないか。迷うなら、無難にそのバニラ味のカップアイスにしたらどう?」

「それって、どっちのことよ? バニラ味のカップアイスは二種類あるじゃないの」

「どっちでも変わらないよ。どっちもバニラ味なんだし、値段も一緒じゃないか」

「そんなわけがないわ。競合商品に負けないよう、メーカーが趣向を凝らして開発したはずだもの。味の濃さや、内容量の多さ、口当たりの滑らかさとかに、何かしらの差があるはずだわ」

「まぁそれは、多少はあるかもしれないね。僕は気にしたことないけど、そういうのって容器のラベルに書かれている成分表から分かるものなのかな?」

「ええ。知識さえあれば、ある程度は掴めるはずよ。自分の味覚との折り合いは、食べてみないと確証は持てないけれど。とりあえず、確認してみるわ」


 食品に含まれる成分が何を示すのかまでも、姉は知識として与えられているようだった。どうしてそんな専門的な知識まで持っているのかと疑問に思わないでもないけれど、首を傾げたところで明確な答えは用意されていないのだろうから、考えても意味がない。

 姉は冷凍庫から二種類のバニラアイスを手に取り、双方の容器のラベルに目を落として、小難しい顔で見比べている。

 時間がかかりそうだったので、隼人がどこにいるのかと視線を巡らせると、彼はレジの前でおでんの仕込みをしている最中だった。蓋を開けた容器から立ち上る湯気を浴びながら、おたまを使って不足しているネタを補充している。


「うーん……うーん……あまり差がないように思えるわね。判断が容易ではないわ……」


 冷凍庫の縁に肘をあてて、前のめりにもたれかかっている姉は、心底困った様子で依然として二種類のカップアイスを繰り返し交互に見ている。

 このままでは埒が明かないので、僕が片方を買うことで問題を解決させようと考えついた時、入口の自動ドアに怪しげな雰囲気をまとった男が映り、店内に入ってきた。


「ッしゃぁせぇぇ! どうぞぉー! あつあつのおでんはいかがですかァァ!?」

「……おい」

「はいっ、なんでしょうか! おたばこですか? どれになさいます? 番号で教えてください!」

「うっせぇな! そうじゃねぇよ!!」


 店内に響き渡った溌剌とした隼人の挨拶に頬を緩めかけた僕は、続いて聞こえてきた客と思しき男の発した怒号に驚き、咄嗟にその場でしゃがみ込む。

 姉も流石に気づいたらしく、怒鳴り声の聞こえた方向を一瞥してから、僕の隣で屈んだ。両手にバニラアイスを持ったまま、声を潜める。


「優くん、あれはたぶん、強盗よ」

「そんなあっさり言わないでよ。かなりヤバい状況でしょ」

「かもしれないわね。ちらっとしか見えなかったけれど、刃物を持っているようだったわ」

「嘘でしょ。本気なの?」

「強盗なんだから、武器くらい持っているでしょう。拳銃じゃないだけマシよ」

「そういう問題じゃないでしょ。隼人が危ないじゃないか」

「そうね。隙があれば捕まえたいけれど……ここからじゃ何も見えないわね」


 棚より低い位置に目線がある。この状態では、レジの前がどのような状況になっているのか全く確認できない。

 店内放送のように響く二人の大きな話し声は、身を潜めている僕達の耳にも届いている。隼人はともかく、犯人も声を張って喋ってくれるのは幸いだった。


「金を寄越せ。あるだけ全部、いますぐにだ!」

「申し訳ございません。両替サービスは本部より応じないよう注意されておりますので」

「ふざけてんじゃねーぞてめー! こいつが見えねーのか! これ以上ふざけたこと抜かしたら刺すぞ! 言っとくが、嘘じゃねーからな! わかったらさっさとレジを開けて金を寄越せ!!」

「申し訳ございません。ただいま五千円札を切らしておりまして」

「誰が五千円でくれと言った! そこに入ってる紙幣を全部出せって言ってんだよ! 出したらこの鞄に詰めろ!」

「少々お待ちください」


 聞いてるだけで冷や汗が溢れ出てくる会話だ。

 相手は武装してるのに、なんで真面目に応対しないんだ。素直に金を渡しても、店の防犯カメラにばっちり映っているだろうから、すぐに犯人は捕まって取り戻せるじゃないか。ここは要求に応じるべきだ。

 僕は彼にそう耳打ちしたかったけれど、これだけ離れていてはどうにもできない。


「桐生くん、もしかしたら時間を稼いでいるのかも」

「なんのために?」

「あたし達に助けてもらうためよ。犯人は、おそらくまだあたし達が店内にいることに気づいていないわ」

「だとしたら、危険すぎるよ」

「そもそも今の状況が危険なのよ。彼は、犯人に屈せずここで捕らえたいと思っているのかも」

「無茶だ。相手は武器を持ってるんだよ」

「だったらこちらも武器を用意すればいいわ。例えば、優くんの右側に並んでるワインボトルとかね」


 指示された辺りを見ると、十本ほどのワインボトルが寝かされた状態で陳列されている。

 姉の言うとおり、武器とするには充分な強度があると思った。

 悠長に行動の正当性や値段まで気にしている余裕はない。僕は手近なワインボトルのネックを右手で握り、音を立てないよう慎重に持ち上げる。


「優くん、それ、一番高い商品よ?」

「そんなこと気にしてられないよ。一秒でも早く隼人を助けないと」


 武器は用意した。相手がどこにいるのかも分かっている。

 隼人は僕達に頼ろうとしている。

 相手は僕達には気づいていない。間違いなく、レジにしか意識が向いていない。

 後ろから這い寄って、犯人の手にしている刃物を叩き落せば、それで解決だ。

 ……そこまで考えて、僕の思考は崩壊した。


 ――だけど、うまくいかなかったらどうなる?


 殺される可能性がある。

 彼が刃物を手にしているのは、未だに隼人を傷つけていない点から考えて、穏便に事を済ませるための威嚇を目的としているのだろう。振り下ろせば、罪が重くなることくらい知っているはずだ。実際に刺すつもりは、いまのところはないのだと思う。

 しかし、下手に刺激すれば抑制されていた感情が破裂して、理性を失い襲い掛かってくるかもしれない。逮捕された際に言い渡される罪状なんてどうでもよくなり、捕まらないために目撃者の抹殺を図ろうとするかもしれない。

 そうなれば終わりだ。武装している僕は真っ先に狙われる。

 立ち上がりかけて、硬直する。


 ――じゃあ、何もしなかったらどうなる?


 殺される対象が僕から隼人に変わるだけだ。

 根本の原因を絶たなければ、事態は解決しない。

 隼人は助けを求めている。隙を作るために、危険を冒してまで時間稼ぎをしてくれている。


 ――僕がやらなきゃ。


 僕がやらなきゃ、隼人の命が危ない。

 彼は大切な友達だ。僕にとって、一番大切な、かけがえのない友人だ。返しきれないほどの恩もある。昔、窮地を救ってもらったことだってある。

 今度は僕の番だ。僕が、彼を助けるんだ。

 もう一度立ち上がろうと、脳から身体に命令を下す。


 ――怖い。


 僕の命令は、僕の身体に拒絶された。余計な感情に阻まれて、脚が思い通りに動かない。


 ――違う。これは、僕の思っている通りの結果だ。


 このまま隠れていたいという、心の大部分を占める僕の本音が、一歩踏み出す勇気を拒んでいる。自分の安全を最優先で守ろうとする僕の弱い心が、危険を顧みずに他人を助けようとする行いを否定している。

 守るべきもの。

 それはなんだ?

 目の前で命の危機に瀕している友人だろうか。

 隣にいる今日知り合ったばかりの女の子だろうか。

 両方とも正解で、両方とも違う。

 自分よりも他人が大事というのは、とても魅力的な響きでかっこいい。多くの人から評価される考え方でもある。自己犠牲の精神は、世の大勢の人から賞賛される誰もが理想とする思想だ。

 為し遂げた人間は、過去に英雄の名を冠して讃えられた。

 為し遂げられる人間が少なかったから、彼らは稀有な存在として祭り上げられた。

 しかし、僕は英雄なんて立派な存在じゃない。

 誰よりも普通と評された僕にとっての、命を張るだけの価値があるもの。


 ――守るべきもの。


 それは……。

 ……それは、自分自身だ。

 なによりも大事なのは、自分の命だ。自分の命がなければ、他人を救っても意味がない。救った後にどうなるのかを己の目で見届けられなければ、救うという行為には意味がない。

 普通はそうだ。

 普通は、そうなんだ。

 僕は普通だ。普通なんだ。

 だから許される。自分が一番大切だって考えも、許されるはずなんだ。

 ギリギリと歯を擦り合わせる。顔を俯かせて、高熱を帯び出した脳内の熱さに耐えながら、必死に目を瞑って友人に懺悔する。


 ――ごめん。


 隼人。なんとか乗り切って。僕には、君を助けられそうにない。

 僕は、僕が最も大切なものを守るだけで精一杯なんだ。

 僕には、これが限界なんだ。

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