第14話

「優くん、落ち着いて」

「……えっ?」

「手、震えてるわよ。ボトルが床にぶつかったら、強盗犯にあたし達の存在がバレちゃうわ。それはまずいでしょう?」

「う、うん」

「危ないから、そのボトルをお姉ちゃんに渡してくれるかしら?」

「ね、姉ちゃんに? だけど……」

「大丈夫よ。渡すだけでいいから。ゆっくりでいいわよ。音を鳴らさないように、慎重にね」


 姉の意図は分からないけれど、僕が持っていると危なそうなのは確かだ。僕は手にしているワインボトルのネックとボディを両手で支えて、彼女に細心の注意を払って手渡した。

 彼女がワインボトルで奇襲するのかと少しばかり予想したけれど、そんな心配をする必要はなかった。

 姉はボトルを受け取ると、それを床に置いて、沈んでいる僕の顔をうかがった。


「すごい絶望的な表情をしてるわよ? どうかしたの、優くん?」

「い、いや。その、どうしても背後からの攻撃が成功するイメージができなくて、困ってたんだよ」

「ふぅん。なるほどね。……ふふっ」

「な、なんでこんな時に笑うんだよ」

「ごめんなさい。でも、おそらく、桐生くんは一人でなんとかできそうよ?」

「……どういうこと?」

「桐生くんと強盗犯が交わしている会話に、耳を傾けてみなさい」


 彼女と話したことで、多少は冷静さを取り戻せたような気がする。

 立ち上がりかけの中腰状態から床に片膝を立てると、僕は聴覚を隼人がいる方向に集中した。


「オラッ! 早く詰めろよ! 刺されてーのかてめぇッ!」

「…………」

「なんだてめぇ! ふざけた態度を見せたかと思えば、今度はだんまりかよ。喋りたくねーんなら、手だけでも動かせや!」

「…………」

「て、てめぇ……! 舐めやがって……! 俺が本気だっつーことが、まだわかんねぇみてぇだな!」

「……めぇの方だ」

「あぁッ!? 聞こえねーぞ。言いてぇことがあんならもっとでけぇ声で言えや!」

「……ざけてんのは……めぇの方だ……」

「あぁッ!? 聞こえねーなー!」

「ふざけてんのはてめぇの方だろうがッ!!!」


 隼人が怒鳴った声に反応して、僕と姉はその場で反射的に立ち上がった。

 レジの奥にいた隼人が、仕切り板を開けて商品の販売スペースに移動する。犯人は刃を隼人の胸元に向けたまま、刃先で彼の軌跡をたどる。


「こっちが折れ曲がるほど腰を低くしてお客様に応対してやってんのに、要求が金を寄越せだァ? てめぇ、頼めばなんでもやってくれると思ったら大間違いだからなッ!」

「は、はぁ? 何言ってんだてめぇ。ざけんじゃねぇ! 刺すぞ!」

「頭わりぃなぁてめぇ! 脅すんなら『刺す』じゃなくて、『殺す』って言葉を使うんだよ!」

「俺は本気だッ! それ以上言うんじゃねぇ!!」

「はっ、呆れたぜ。びびってんだろ? こいよ。オラッ、本気だってんなら口じゃなくて行動で証明してみろやッ! このクソ野郎がッ!!」


 両手を広げて無防備な体勢をとる隼人。

 包丁を握る強盗犯の虹彩が、眼球内を忙しなく動き回る。


「は、はは、いい、やってやる。やってやるぞ……」

「早くしやがれ。それとも、やっぱりできねぇのか?」

「やってやる……殺す……」

「ならさっさとしろや。待たせていいのは客の方だけなんだぜ。俺は店員だ」

「……殺してやる……殺す……殺す……殺してやるッ!!」


 強盗犯が我を失い、血走った目で叫びながら刃を振り上げる。


「アァァァァァァァアァッッ!!」


 頭上で自らの姿を反射させる包丁を目で追いながら、隼人は左手をレジカウンターへ伸ばす。

 刃が振り下ろされる。

 甲高い金属の衝突音が鳴り響く。

 咄嗟に背けてしまった視線を戻してみると、おでんの調理用に用意されているおたまを逆手に持った隼人が、犯人の包丁を受け流している瞬間だった。

 相手が怯む。隼人は素早く相手の背後に回りこみ、犯人の左腕を背中で極めて、包丁を握る手首を背後から掴み拘束した。


「度胸はあったみてぇだが、相手が悪かったな」

「ぐっ、離せ!」

「離すわけねぇだろ。さぁて、どうしようかな。……そうだ。いいこと思いついたぜ」


 押さえ込む力を緩めないまま、隼人は店内を見回した。


「お、いたいた。神奈ねぇさーん! 確か、お腹空いてるんでしたよねぇ?」

「ええ。おまけに変なトラブルに巻き込まれたから拍車がかかっている状態よ」

「よかったら無料で肉を売るっすよ。挽肉にして、お昼にハンバーグとか作ったらどうすか?」


 隼人は背後から掴んでいた右腕を、力任せに犯人の首元に移動させる。犯人の手に握られたままの包丁の刃先が、触れるか触れないかの距離にまで迫った。


「ぁ……ぁぁ……」

「悪いけど、カニバリズムの趣味はないわ。牛肉なら歓迎だけど」

「カ、カニバ……ひぃっ!」

「申し訳ないっす。このコンビニは牛肉は取り扱ってないんすよ」

「あら残念。だったら、あそこにあるお弁当を適当に十個買うことにするわ。無論、その人の奢りでね」

「へっ……?」

「なるほど。さすが神奈ねぇさん! 天才っす! すげぇ発想っすよ!!」

「うふふっ、でしょう? もっと褒めていいわよ」

「ただもんじゃねぇっす! やっぱ神奈ねぇさんは最高っす!!」

「当然よ。さ、桐生くん、その人のポケットから財布を出してちょうだい」

「りょーかいっす! おいてめぇ、下手な真似すんじゃねぇぞ。動いたら殺すからな」


 急展開に唖然としている間に、話はとんでもない方向に進んでいく。

 隼人は腕関節を極めていた左手を解放して、代わりに犯人のズボンにあるポケットに手を入れる。抵抗できる状態になってはいるが、刃物を突きつけられているために犯人は動けない。瞳に涙を浮かべながら、されるがままにされている。

 ポケットから薄っぺらい茶色の財布を取り出すと、隼人はそれを姉に放り投げた。

 姉はキャッチした財布を躊躇なく開けて、中身をレジカウンターに並べ始める。


「千円札が一枚、二枚……硬貨は五百円玉が一つ、百円玉が二つ、十円玉が二つ、一円玉が六つ……二七二六円しかないわ」

「てめぇッ! いい年こいてなんだよその所持金は。情けなくねぇのか!」

「だ、だから強盗しようと思ったんだろ」

「チッ、クソが。申し訳ないっす神奈ねぇさん。それだとたぶん、弁当十個は買えないっす」

「その問題を解決する方法があるかもしれないわ。財布の中に、こんなものが入っていたの」


 今度は姉が、手にしていた何かのカードを隼人に投げつける。

 隼人が不思議そうな表情を浮かべつつ左手の人差し指と中指で挟んで受け取ったのは、どこからどう見ても銀行のキャッシュカードだった。


「コンビニエンスストアには、そのカードからお金を引き出すサービスがあるのでしょう? せっかくだから、〝お客様〟にやり方を教えてあげなさい」

「……そういうことか! すげぇぜ神奈ねぇさん! コンビニのサービスをフルに活用してるぜ!! さすがだぜ!!!」

「当然よ。あたしを誰だと思っているのよ」

「それは勘弁してくださいぃ!!」

「うっせぇッ! さっさとカードの暗証番号を教えろやッ!」

「やめてくれ! それは俺の全財産なんだぁ!」

「だったら全部渡して死ねッ! さっさと吐けやコラァッ!!」

「いやだぁぁぁ!」

「チッ。すみません神奈ねぇさん、おでんの蓋を開けて、玉子を三つ、持ち帰り用の容器に入れてもってきてくれないっすか? 箸と一緒に」

「ええ。いいわよ」


 姉は状況に動じず、あたかも自分で購入するように淡々とおでん容器の蓋を開けて、隼人の指示通りに玉子を三つ取り出す。

 律儀に蓋をしめてから、おでん販売スペースの脇に置かれていた長い菜箸と一緒に、隼人に玉子の入った器を差し出す。

 隼人は箸と器を左手で受け取ると、レジカウンターに器を置いてから、玉子の一つに豪快に箸を突き刺した。それを持ち上げて、犯人の口元に近づける。

 箸の先が貫通している玉子からは、犯人の顔を覆い隠すほどの白い湯気が立ち上っていた。


「もう一度訊くぜ? 暗証番号はなんだ? 四桁の暗証番号はなんなんだよッ!」

「い、いやだ。いやだぁぁぁぁ!」

「黙れッ!」

「ッ! ……ぶほッ! あっつ、あ、あ、あぁぁぁぁ!」


 叫んだ際に開いた口へ、隼人が玉子を押し込んだ。言葉にならない悲鳴を上げた刹那、犯人の口から玉子が射出されて、店内の虚空に放物線を描いた後、床に転がった。

 バラエティー番組で見たことがある滑稽な情景だが、とても能天気に笑える余裕はなかった。


「ふ、ふふっ、ちょ、ちょっと。なに、それ。おかしすぎるわよ。ふふ、ふふふっ」


 姉は心底楽しそうに笑っている。

 隼人はつまらなそうに再び玉子を箸に刺して、犯人の口に運ぶ。


「さぁ吐け。従わなかったらどうなるか、もうわかんだろ?」


 犯人は同じ手を使われないよう、口を閉ざしたまま首を横に振って返答する。


「動くんじゃねぇッ! こっちには刃物があることも忘れんじゃねぇぞッ!」

「ッ! ……か、勘弁してくれ。自首するから、自首するからさ――ッ!」

「おっと、こちとら同じ手は使わせねぇぜ」


 玉子を押し込んだ後、すぐさま箸を投げ捨てて、犯人の口を無理矢理閉じて左手で蓋をする。


「ッッ! ――ッ! !!!!」

「暗証番号を吐くってんなら手をどけてやる。はいかいいえで答えろっつーのは無理だから、はいなら首を縦に振れ。いいえでも首を縦に振れ」


 涙目になりながら首を必死に縦に振る強盗犯。


「おしッ! そんじゃ手をどけてやる。ただし、口の中にあるもんを吐き出したら、次は包丁を喉から飲ませてやる。ATMまで移動すんぞ。キャッシュカードは俺が入れてやるから、暗証番号はてめぇが押せ。いいな?」

「ッ! ッ! ッ!」

「なに言ってるかわかんねぇ!!」


 隼人が率直な感想を叫んだ瞬間、コンビニの入口が久方ぶりに開いた。

 窓の方に目をやると、店の前の駐車場に一台の警察車両が停まっている。どうやら、異変に気づいた誰かが通報してくれたようだ。

 乗り込んできた二名の警察官は、包丁を持っている男がいることに気づいて身構えた。


「武器を捨ててその人を解放しろッ! …………解放しろ?」

「チッ、サツか。潮時だな」


 突きつけていた包丁をレジカウンターに置くと、拘束されていた犯人が玉子を吐き出しながら警察官の胸に飛び込んだ。


「おまわりさぁぁん! 俺がやりましたぁ! 俺が全部悪いんですぅぅ! だから早く逮捕してくださいぃぃ! ここから逃がしてくださいぃぃ!」

「は、はぁ? 君はなんだ? 自分がやったとは、どういうことかね?」

「俺が強盗しようとしたんですぅ! 俺が犯人なんですぅ!」

「いや……しかし、君は脅されていたのだろう? なぜそれで君が犯人になるんだ?」

「返り討ちにあったんですぅ! 助けて、助けておまわりさんっ! 俺、殺されるっ!」

「さっきから何を言っているんだ君は! おい、そこの君。何があったのか事情を説明してくれ」

「お――私、ですか? わかりました。このコンビニの店員として、細かく丁寧に説明いたします」


 妙に丁寧な口調に切り替わった隼人が、警察の要請に応じる意向を示す。彼は警察車両へ向かう前に、申し訳なさそうに眉尻を下げて後ろを振り向いた。


「申し訳ないっす、神奈ねぇさん。その、弁当は自腹で買ってもらうことになっちゃいそうっす……」

「まぁ、仕方がないわ。もともとそのつもりだったのだから、そう気に病まなくてもいいわ」

「あざっす。以後は気をつけますんで」

「ええ。でも、玉子は桐生くんのお願いで取ったのだから、それは桐生くんが払いなさいよ?」

「もちろんそのつもりっすよ。あ、一個余ったんで、良かったら食べてください」

「うふふっ、それじゃあ、ありがたく頂戴するわ。代金は来月の給料から天引きしておくよう、あそこにいる店長さんに伝えておくわね」

「……あ、店長っ! バックヤードにいたんすね! つーことは、警察を呼んでくれたのも店長っすか? いやー、マジ助かったっすよ~。だけど、もうちょーっと遅く呼んで欲しかったっすねぇ!」


 店長のおじさんは、倉庫に続く扉の近くで、額に手を当てて呆れ果てた様子で佇んでいた。


「優、おめぇもせっかく俺のバイト先に来てくれたのに、面倒に巻き込んで悪かったな。まぁ、親友のよしみで許してくれよな!」

「あ、えっと、うん」

「なんだよ。浮かない顔してんな」

「そ、そうかな?」

「そうだぜ。なんだかよくわかんねぇけど、とりあえず飯を腹いっぱいに食って元気だせよ! つっても、どんだけ食おうが自腹なんだけどな! ふははは!」

「君、早くきてもらえるかね? 我々も暇ではないんだぞ!」

「はい、かしこまりました。すぐに向かいます」


 態度をころころと変化させた後、店を出た隼人は駐車場で警官の一人と話を始めた。

 心配ではあるけれど、犯人は一応罪を認めている。バイトをしている時の彼の謙虚な姿勢で応対すれば、すぐに疑惑は晴れるだろう。

 ようやく予定外のトラブルから解放されるのかと思い、肩の力を抜くことができた。

 だけど……。

 僕は今日、現実を知ってしまった。

 自分がいかに小さく情けなく、恥ずかしい存在なのか、よく分かった。

 僕は強くない。

 僕は、弱い。

 隼人が僕の思っている以上に強かったのと、もう一人、強い人がそばにいてくれたから大事にならずに済んだんだ。


 ――もう一人の、強い人――。


 姉に目を向けると、彼女も僕の方に顔を向けていて、二つの視線が交錯する。

 隼人いわく浮かない顔をしている僕に対して、彼女は柔らかく微笑み、僕の顔を優しく見つめていた。

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