第42話

「教室の机か」

「せいかい。理奈がほんとに消えちゃってたら、あの机だってなくならなきゃおかしいでしょ?」

「そうだけど、じゃあ、理奈はまだどこかで生活してるってこと? もしかして、父さんや母さんも」

「残念だけど、それは違うよ。理奈はもう、こうしておにいちゃんの夢にお邪魔することでしかおにいちゃんには逢えない。おとうさんとおかあさんはそれすらも無理で、理奈もこれが最初で最後だよ。ほんとはね、こうやって逢ったりする予定はなかったんだけど、どうしても心配になっちゃってね」

「理奈はもう、やっぱり現実の世界にはいないってこと? 父さんも、母さんも」

「うん。もうわかってるかもしれないけど、それが十三月のもたらす破滅の序章だよ。すべての崩壊は、まず選ばれたおにいちゃんの周りから始まって、世界に広がっていくようになってる」

「『十三月』って、理奈も十三月の存在を知ってたの!?」

「どうかな? おにいちゃんと暮らしていた時の理奈はわからないけど、夢の中にいる理奈は〝全部〟わかってるよ」

「自分が、僕の妹でもなんでもないことも?」

「もちろんだよ。家族じゃなくなったのに愛称で呼び続けてるのは、理奈がそうしたいからだよ。もしかして、妹でもない理奈にそう呼ばれるのは嫌?」

「べ、べつに、僕はどっちでもいいけど。好きにすればいいよ」

「うん。じゃあ、これからもおにいちゃんって呼ばせてもらうね。えへへっ、うれしいなー!」

「そんなに嬉しい?」

「あたりまえだよっ! おにいちゃんは、理奈のおにいちゃんなんだからっ!」

「そ、そう」


 異様に落ち着いていた妹が、ようやく僕の知っている明るい表情を見せてくれた。その仕草は、既にいなくなったと思い込んでいた彼女と目の前の少女をより強く結び付ける。僕は更に困惑した。


「それはそうとして、だったらどうして机が残ってるの? あれだけが残ってる意味がわからない。理奈に訊いてもわからないかもしれないけどさ」

「あれはね、残ってるんじゃなくて、残したんだよ。籍がなくなっても、あの空間は理奈がいたいと願った場所だからね」

「ごめん、どういうことか、もう少し詳しく教えてくれないかな?」

「それはちょっと無理かな? どちらにしても、十三月が終わればなくなっちゃう運命だし。はっきり言って、そんなに気にかける必要はないよ」

「理奈の机が僕のクラスに残っているのは、破滅からの救済とは何も関係ないってことなんだね」

「そのとーりだよ。んー、でも、あえて言うなら、理奈のわがままってところかな? つまりね、大した理由なんて特にないってことだよ」

「そうか……」


 なんとも曖昧な説明ではあるけれど、当事者ではないのだから仕方がない。

 ただ、こうして妹に直接教えてもらうことで、重荷を下ろしたように心が軽くなった。


「わからない点もあるけど、とりあえず良かったよ」

「んー? 良かったって、今の話におにいちゃんがそんな風に思うとこあった?」

「いや、話自体はわからない箇所の方が多かったけど、要はさ、学校に理奈の机が残ってるのは、理奈がまだ生きているからでしょ? これが僕の夢なら、ここにいる理奈も僕が生み出した幻かもしれないけど、そうじゃないんだよね? どこにいるのか知らないけど、無事みたいで安心したよ」


 僕が自分なりの解釈をまとめて声にしてみると、それを聞いた彼女は口を半開きにさせたまま硬直してしまった。瞳は斜め上にある僕の顔を見据えており、呆気に取られて時折瞬きを繰り返す。


「理奈? どうしたの急に。大丈夫?」

「……え? う、うん、大丈夫だよ。ちょっと驚いちゃったんだ。まさか、そんなに心配してくれたって思わなかったから」

「心配するに決まってるよ。本当の妹じゃないにしても、一緒に暮らしていたし、学校でも付き合ってた仲なんだから」

「えへへ……そうなんだ。これは……ちょっと間違えちゃったかな……?」

「間違えるって、いったい何を?」

「そもそもね、理奈がこうしておにいちゃんの夢にお邪魔したのは、二つ目的があったからなんだよ。物的証拠を残したって話をしてたけど、あれはそのどっちでもなくて、もっと重要な話を伝えるために理奈はおにいちゃんのところに来たんだよ」

「それって?」

「一つ目は、謝るため。理奈がおにいちゃんにした酷い仕打ちの数々を、おにいちゃんに許してもらうために、もう一度だけ逢いたかったんだよ。理奈が何を言ってるかわかるよね?」

「わかるよ。だけど、あれは理奈だけが悪いんじゃない。僕だって理奈の信頼を裏切ったんだから、お互い様だよ」

「ふふ、ほんとに優しいね。でもね、おにいちゃんは正しかったんだよ。いくら信頼を置いてる関係でも、相手の悪事に加担するのは正しくないよね? おにいちゃんは、正しいことをちゃんと正しいって理奈に言ってくれたんだよ。それなのに理奈は、おにいちゃんにたくさん酷いことをした。だから、ごめんなさい」


 慇懃に頭を下げて、妹は素直に謝罪する。


 『――ごめんなさい』。


 その姿が、その声が、姉の姿と重なった。

 弁明もなく、ただただ謝るだけの彼女からは、真摯に罪と向き合っている印象を受ける。しかしそれでいて悲痛さに欠ける声色からは、間違いを犯したという後悔が一切感じられない。

 それは、誠実さが足りないわけでもなく、いい加減に相手を諫めるために頭を下げているわけでもなく、達成しなければならない目的のために相手を傷つけることに対し、了承を得ようとしているように見えた。


「なにか、目的があったんだね?」

「そんなの関係ないよ。理奈は、身勝手な理由でおにいちゃんを巻き込んだの。おにいちゃんが優しいから、その優しさを利用したんだよ」

「そうなんだ」


 顔を隠したまま罪を語る彼女を前にして、僕は空を仰ぐ。

 夢の中に広がるのは、あの日と同じ曇り空。覆い尽くす灰色の雲海の奥からは、白い光の粒が無数に降りてきている。

 妹は僕のことを『優しい』というけれど、いったい僕のどこが優しいのだろうか。

 自分に起こった不幸を理由に一番信頼してくれた人に八つ当たりして、それを自覚しても自分は悪くないと意地を張り、相手を慮ることは一切しない。

 こんな僕が、優しいと呼ばれていいはずがない。


「だけど、僕は理奈が思ってるほど優しくないよ」


 自虐する一言は恥ずかしく、自然と声も小さくなってしまう。

 呟くような微かな音を耳にして、妹は顔をあげた。ちょっとだけ頬を弛緩させた、やさしい表情をしている。


「そうかな? 理奈は、そうは思わないけどなー」

「理奈は知らないから。僕が、姉ちゃんにどんなに酷いことを言ったか」

「でもでも、それがひどかったって、おにいちゃんは自覚があるんだよね?」

「そうだけど……」

「だったら、やっぱりおにいちゃんは優しいって、理奈は思うな」

「口にしたのは事実なんだ。単に自覚してるだけで優しくなったりはしないよ」

「ううん。悪いことする人は、自分が悪いことしてるって自覚しないものだよ。それに、おにいちゃん、悔やんでるんだよね?」

「あたりまえだよ。姉ちゃんのことを深く考えず、自分勝手な主張ばかりして傷つけてしまったんだからさ」

「でしょー? ほら、おにいちゃんはやっぱり優しいんだよ」

「……まぁ、優しいとか優しくないとか、それはどっちでもいいんだけどさ」


 こう、しつこいくらいに褒められては、反論しても仕方がない。そもそも暴言を吐かれているわけでもないのだから、別に悪い気はしない。代わりに背中がなんだかむず痒く、これが酷くなるくらいなら、おとなしく受け入れた方がマシだと思った。


「えへへ、理奈の勝ちだねー。そんな優しいおにいちゃんに、理奈から一つお願いがあるんだ。実は、これを伝えることが、理奈が今日おにいちゃんに逢いにきた二つ目の理由なんだけどね」

「お願いって、僕と暮らすっていう?」

「違うよ。実はね、あれは嘘だったんだ。理奈の本当の願いは、一番の願望は、おにいちゃんと二人で暮らすことじゃないよ。その生活も、楽しそうでいいなーとは思うんだけどね」

「とても嘘を言っているようには見えなかったんだけど」

「えへへ、理奈の演技力に驚いた?」

「驚くっていうか、なんというか。あれが嘘なら、どれが本当かわからないくらいだ」

「心配しなくても、今度は正真正銘の理奈の願いだよ。このお願いは理奈には叶えられないから、おにいちゃんに叶えてほしいんだ。でね、そのお願いなんだけど――」


 一旦言葉を切って、彼女は微笑みながらも真っ直ぐに僕を見つめた。


「おねえちゃんをね、挫けないように支えてほしいんだ」

「姉ちゃんを支える? 僕が?」

「うん。こんなの、理奈が言うまでもないかもしれないし、理不尽な事象の中心になってるおにいちゃんに頼むのもおかしいと思ってるけど、どうしても言っておきたかったんだ」

「あの強い性格の姉ちゃんに、僕なんかの支えが必要なのかな?」

「強そうに見えてるかもしれないけどね、おねえちゃんだって、おにいちゃんと同じなんだよ? 何かに耐えられなくて、屈してしまうことがあるかもしれない。そんな時、おにいちゃんに支えてほしいんだよ。おねえちゃんは、理奈にとってすごく大切な存在だから」


 隼人の話してくれた、僕の知らない姉の一面を思い出す。

 ずっと、姉は完璧な超人をも凌駕する肩書きどおりの神様みたいな存在だと思っていた。彼女のことについて深く考えず、最初に受けた説明から、自分とは全く別の生き物なのだと、疑問も持たずに思い込んでいた。

 それは、間違いだったんだ。

 元はどうだったか知らない。

 けれど、少なくとも現在の彼女は、僕と同じ脆い心を抱える弱い人間なんだ。

 性格に強弱なんて概念はない。あるとすれば、他人が自身を都合よく立たせるために与える一方的な評価だ。

 同じ種族である以上、誰もが弱く、誰もが強い。

 誰でも弱くなる時があって、誰でも強くなれる時がある。

 僕がそうであるように、姉もそうなんだ。

 僕の間違いは、十三月の初日から始まって、今日、ようやく終わりを告げた。


「僕は、姉ちゃんに救われた。自分が、自分の思ってる以上に情けない性格だと自覚して落ち込んだ時、力強く否定してくれた姉ちゃんの言葉が嬉しかったんだ。姉ちゃんはどんな事柄にも答えを持っていて、だから誰よりも頼りになる人だって思ってた。姉ちゃんを頼っていれば、すべてうまくいく。相談をするのではなく、解答を乞う。そして失敗すれば全部相手の責任。そんな酷いことを、恥ずかしげもなくやっていた」

「でも、それは違うよね?」

「教えてくれたから。理奈と、隼人が。僕だけではたぶん、ずっと気づけなかった。ずっと、姉ちゃんを手の届かない存在だと、違う世界の住民だと捉えていたと思う。なんというか、本当に情けないな……」

「仕方ないよ。視界に死角があるように、物事にも視えない部分はあるからね。視えない所は、周りの目を使って補う。人は、他人の力を借りて初めて完成されるんだよ」

「だけど首を回せば、どの角度だって視ることはできるじゃないか。僕はそれができていなかった」

「首を回しても、死角の位置が変わるだけだよ」

「それでも、何でも視えているかのように視野の広い人は、実際にたくさんいる――」


 羨望する能力を持つ人々のことを思い、口にしたことで理解した。


「――違う。世の中で活躍している人達も、良い面だけ見せられているから完全だと解釈しているだけだ。欠点が微塵もないなんて勝手に断言すべきじゃない」

「うん。おにいちゃんが思い浮かべた人達も、みんなおにいちゃんと同じだからね」

「やっとわかったよ。だけど、誰かに称賛される行為を成せるだけの自信は、僕にはない」

「誰かに褒められなくたっていいんだよ。自分が納得できれば、間違いだったって悔やんだりしなければ、それは正解なんだって理奈は思うよ。理奈はね、ずっと正解を選んできたつもりだから。理奈にできるんだから、おにいちゃんにだってできるよ!」

「僕が、僕にとって後悔のない道を選ぶこと……」

「理奈はね、大切なものを守ってきたよ。おにいちゃんにだって、守りたいものがあるはずだよね?」

「あるけど、僕が守りたいものは……」

「何よりも、誰よりも守りたいものは、自分自身だって言いたいの?」

「え……どうして、それを……」

「これは夢の中だからね。おにいちゃんのことなら、いまの理奈はなんでもわかっちゃうんだよ。でもね、そんなことはどうでもよくて、おにいちゃんの守りたいものって、ほんとにそれで合ってるのかな?」

「どういう意味? 僕は、隼人の命に危険が迫っている状況で、自分の安全を優先したんだ。それでわかったんだ。僕は、誰よりも自分自身が大切なんだって」

「理奈はそうじゃないって思うな」


 矜持を捨てて受け入れた真実を、妹は平然と否定する。まるで、僕ですら知らない事実を手の内に隠しているように。

 問い質そうと僕が口を開きかけると、拒むように彼女は僕に背を向けた。

 小さく、しかし大きく見える背中が、触れられるはずの距離なのに届かないほど遠くにあると錯覚する。

 それは錯覚ではなかった。

 けれども手が届かないわけではない。

 手が動かなかった。足も動かせず、身体があることさえも曖昧で、重力というものが感覚から欠落している。

 宙に浮いている感想を抱きながら、地に足をつけて景色を眺めている。

 僕は、ここへ飛ばされてきた時と同様に、またもや金縛りにあっているようだった。


「それじゃ、理奈の出番はここまでだから」


 唐突に姿を見せてくれた彼女は、現れた時と同じように、急に別れの言葉を告げる。


「おにいちゃん、最後に、もう一度だけ言っておくね」


 純白の空間に移動する時のように、視界の端から白色が押し寄せてくる。

 振り払おうにも手は動かず、瞼も畳まれた状態で張り付いてしまっており、瞬きすら思い通りに行えない。

 徐々に視野は絞られ狭まり、妹の後ろ姿だけがギリギリ収まる範囲にまで縮小される。彼女のお気に入りの白色のコートが外側から順に、より深い白色に溶けていく。

 今後こそ、これが彼女との別れなのだと、考えられずとも感じとった。

 伝えられなかった選別の言葉を、ここで言っておかなければならないと思った。

 けれども……。

 僕の脳はどうしても働いてくれない。唯一の存在意義である思考を放棄しているため、妹に対する自分の感情を教えてあげることができない。

 わざわざ僕の夢にまで出てきて、無意識に逃げていた真実と向き合わせてくれた。

 現実で共に暮らしていた時間でも、無邪気にはしゃいで僕を励ましてくれた。

 僕はまだ、彼女に伝えていない。伝えるべき言葉を、欠片も声にできていない。

 なのに――。


「ありがとう。おねえちゃんを、よろしくお願いします」


 無限とも形容できるほど厚く塗り潰された白色の闇は、その音を遺して完全に僕の意識を覆い尽くした。

 夢の世界で過ごした記憶を胸に抱えたまま、僕の電源が強制的に落とされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る