第43話

 妙な夢を見た翌朝、僕は姉と二人で東條高校への通学路を歩いていた。

 天気は曇り。重く沈んだ空模様は、僕の内面を映し出しているかのように暗く、見上げれば気分が悪くなってしまう気さえする。

 悪くなってしまう、と思うのだから、正面だけを見据えている今の僕は、決して悪い気分というわけでもない。

 交差点の角に設置されているカーブミラーに、僕の後ろを淡々と歩いている姉の姿が映り込む。制服の上から淡紅色のコートを羽織った彼女は、歩幅に換算すると5歩分くらい空けて黙々とついてきていた。

 別に、僕が命令したわけじゃない。目的地が一致しているから、自然と同じ経路を辿っているだけだ。

 それならそれで、隣に並ぶなりして会話でも楽しむのが普通かもしれないけれど、どうにも僕は彼女に近づけずにいる。

 他人のせいにするのなら、彼女が僕に近づいてこないから。中途半端な距離ではなく適切な距離を空けている彼女の行動からは、僕を避けている意思が強く感じられる。すべて僕の責任ではあるのだけれど、こう守備を固められると、迂闊に話しかけることができない。

 けれどもそれは甘えで、結局は因果応報なのだから、僕から彼女に言葉をかけるべきなんだろう。

 もう一度、別の交差点でミラーを覗いて彼女の表情をうかがってみる。

 口を真一文字に結び、瞳は見開くわけでもなく、細めるわけでもなく、瞬きを挟みつつ正面だけに向けられている。考え事に耽っているようであり、何も考えていないようでもある。つまりは無表情だ。


「気にしていないなら、謝る必要なんて……」


 万が一にも聞かれないように小さく、僕は弱い感情を吐き出してみる。

 それはかっこ悪いと、最初に浮かんだのはそんな感想だ。

 勝手に勘違いして、ありもしない罪をなすりつけ、それを素直に謝ることもできない。間違えたと自覚できているのに、かっこ悪い真似はしたくないと、僕はまだそんなプライドを捨てきれずにいる。

 こんなものは守らなくたっていいもので、むしろ壊した方が物事が良い方向に進むと知りながら、広げた両手で庇おうとしている。

 夢の世界では、妹の前では罪を認められた僕だったけれど、姉の前では未だに過ちを受け入れる覚悟ができていなかった。


「駄目だ。やっぱり、ひとりじゃ厳しいな……」


 自身に言い聞かせるように弱音を吐いてみて、せめて嫌悪感だけでも得ようとする。

 弱さを受け入れられた僕は、昨日隼人が提案してくれた通り、彼の手を借りてみようと思った。

 僕だけでは一歩を踏み出せない。その僕に、彼は背中を押して一歩を踏み出させてくれると言った。

 その言葉だけでも嬉しかった。

 本当に力を借りるのは情けなくてちょっとばかり気が引けるけど、無価値な矜持なんかより姉に謝る方が今は大事だ。


 ――もう学校来てるかな? いたら仲裁役を頼もう。


 どことなく卑怯な考えな気もしているけれど、行動を起こさないよりはずっといい。これが、僕の限界だ。他人の力を借りるのに自分の限界と呼ぶのは些か違和感を感じるけれども、解決できるのなら細かいことはどうでもいい。多少の汚名も仕方がない。

 暗雲を振り払う方策を決めた僕は、数十分後に遭遇するであろう彼にどんな反応を返されるのか不安に思い怯えつつ、それでも歩みは止めずに前だけを向いて学校との距離を縮めていった。

 


 とうとう姉と言葉を交わすこともなく校門まで辿り着いてしまう。吸い込まれるように通り過ぎていく生徒達は殆どが数人のグループを組んで、笑みをこぼして雑談に興じながら全学年共用の玄関へ進んでゆく。

 玄関で靴を室内用に履き替え、自分の教室へ続く廊下を歩む。

 左側に中庭、右側に校庭の見える連絡通路を通過して、玄関のある建屋から一つ移動した先に、僕が籍を置いている教室がある。

 ここに辿り着くには僕が選んだ道が最も近いルートであって、当然のごとく、同じ教室に籍を置く姉も玄関から引き続き僕の後ろを歩いている。ついてきたのではなく、単に目的地が一致しているだけだ。

 別段僕を気にかけて軌跡を辿っているわけではない。僕は、僕にそれほど感心を持っていないであろう彼女を無視したまま、入口の扉が開きっぱなしになっている自分の属する教室に足を踏み入れた。

 瞬間、妙な感覚に襲われる。

 教室に入ったところで立ち止まり、クラスメイト達の奏でる喧騒が渦巻く中、息を殺して室内をゆっくりと見回した。


「――ない」


 ――ない。


 あるべきものがない。

 あるはずのものが、ない。

 世の終わりでも見ているかのように絶望に震える僕だったけれど、どうしてこんなに恐ろしく思うのかが自分でも理解が及ばない。

 ただ、直感が僕に告げている。

 この事実は、お前にとって最悪の結果に起因しているのだと。


「どうした桜庭、そんなとこで突っ立って。気分でも悪いのか? 顔色がよくないぞ?」


 入口付近で談笑していたクラスメイトの男子が、僕の異様な雰囲気に気づいて心配するような声をかけてきた。


「……大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」

「お前って真面目そうなのに、意外と夜更かしとかもするんだな。まぁ、ガキでもないんだし、普通するか」

「そんなことより、世羅くん。知ってたら教えてほしいんだけど――」


 名前と顔が一致しており、互いに気を遣わず喋れる程度には交流のあるクラスメイトに、僕は疑問の答えを訊いてみる。


「この教室、昨日とレイアウトが変わってると思うんだけど、そんな告知、一言も聞いてないよね? 見たところ席が一つ減ってるみたいだけど」


 真っ先に妹の机が浮かんだけれども、予想に反して宿主が不在の彼女の机は、依然として僕の席の隣から微動だにしていない。

 廊下側の教室の入口では、姉が遠くから覗くように室内の様子を観察していた。彼女の浮かべている表情は久々に険しい。

 僕の真剣な質問とは対照的に、質問を受けた世羅は素っ頓狂な声をあげる。


「はぁ~? なに言ってんだ桜庭。席替えをしたのは新学期最初の一回だけだろ? そう一ヵ月に何度も席替えをするわけないって。お前、そんなに今の席が嫌なのか?」

「そうか……してない、のか……」

「ん? 俺に何か言ったか?」

「いや、世羅くんに話したんじゃなくて、その、ちょっとした独り言みたいなものだよ」

「桜庭って、そんな危ない奴みたいなマネする人だったか?」

「ま、まぁ、たまには……ね?」

「ふーん」


 興味が失せたのか、喋りかけてきた世羅という名のクラスメイトは、それまで話をしていた別の男子との会話を再開する。

 僕はもう一度クラスの中を見回して、〝彼〟の姿がまだ見えないことを再確認した。

 遅刻でもしているのだろうか。案外時間には厳しい彼の性格から考えると、普段ならば自席で居眠りしている時間帯に教室に不在なのは、それだけで異常に感じた。

 嫌な予感は段々膨らんでいき、名状できない恐怖が背中を這い上がってくる。

 そして、僕は聞いてしまった。

 僕に話しかけてきた世羅くんと、クラスメイトの女子の話し声を。


「ねぇ、世羅くん。知ってたら教えてほしいのだけれど」

「おいおい、兄妹揃ってそんなに俺が好きかよ。参るなぁ、まったく。で、桜庭姉の訊きたいことはなんだ?」

「簡単な話よ。とある人物を、知っているか教えてもらいたいの」

「人捜しでもしてるのか? そいつ、俺とそんなに関わりがありそうな奴なのか?」

「ええ。関係があってもおかしくはないって、あたしは思っているわ」

「ふーん。で、そいつの名前は?」

「桐生隼人」


 その名前を耳にしても、僕は振り返ることができなかった。

 考えるという行為自体が機能していなくて、音を言葉に変換するだけで脳の処理能力が悲鳴をあげている。

 だから今は、彼女の暴いた真実を受け入れるだけで精一杯だった。

 その真実は、少し考えれば可能性のひとつとして覚悟できたはずの事柄で、想定できていなかったということは、僕の思考はもっと前から機能が麻痺していたのかもしれない。

 半年以上を共にしたクラスメイトの名前に、聞き覚えがないわけがない。

 常識で考えればそうなのだろうけれど、僕はもう、常識だけでは物事を考えられなくなってしまった。

 そして……。


「きりゅう、はやと? 悪いけど、俺は知らないな」


 何気ない口調で答えられた真実に、何よりも僕の心は深く抉られた。

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