第44話

 昨日まで生きていた人間の痕跡が、世界から切り取られている。

 そこで生活していた証は欠片も残っておらず、まるで最初からいなかったように、何もかもが消え去ってしまっている。

 携帯電話を開いてみれば、自分の家族がそうなってしまったように、桐生隼人という親友の連絡先もいつの間にか抹消されていた。

 桐生隼人の机がクラスから無くなり、後方の机が詰められる形で別のクラスメイトの席が僕の後ろに設けられている。そのクラスメイトの女子に話を聞いてみたが、彼女いわく、新学期の初めから自分はこの席にいたという。

 僕の親友のことを覚えているか、なんて質問はしなかった。そんなもの、聞くまでもなく自明の理だからだ。

 それに、訊いてしまって「知らない」と即答されても、僕はつらい。クラスの全員と親しいわけでもなかったけれど、嫌われているわけでもなかった彼が、好き嫌いの感情すら向けられない存在しない者として認知されている真実を、何度も突きつけられたくなかった。

 そんな暗いことばかり考えている間に、学校は昼休みに突入した。

 妹がいなくなり、隼人が消えて、僕は誰とお昼の時間を過ごせばいいのだろう。隼人とは違い、何故か依然として机だけは残っている妹のいた場所を眺めて、僕はこの時間の過ごし方について考えてみた。


『おねえちゃんを、よろしくおねがいします』


 昨夜の夢に出てきた妹の幻が、僕の頭の中で語りかける。

 意識していることがバレないように、目を眇めて反対側にある隣席の様子を窺うと、姉は椅子に深く腰かけて直角に背筋を伸ばしたまま両方の瞼を閉じていた。手を机の上において、小さく開けた口で音の聞こえない呼吸を静かに繰り返している。

 ひとまず、彼女とふたりで食事を摂ろうか。他のふたりがいなくなってしまった以上、そうすることが最も自然なのかもしれない。

 ……と、暢気に昼食のことを考えている自分に、急に苛立った。

 親友が亡くなったに等しいのに、僕はもう別のことを考えている。自分の目で彼の死体を見たわけでもないし、死んだという事実を聞かされたわけでもないのだから、実際のところどうなっているのかは不明瞭だ。

 しかし、いなくなったんだ。僕の親友は、もうこの世界にはいない。

 今日一日くらい、彼のことだけを思って粛々と過ごすべきではないだろうか。

 けれども、それこそ誰かに向けたポーズだ。


 ――だけど、誰に?


 この世界に、彼のことを覚えている人間は二人しかいない。ひとりは僕なのだから、となれば、僕はもうひとりに隼人のことを悲しんでいると主張しようとしているのか。

 彼女は、変わらず瞳を閉ざしている。何を思考しているのかなんて、それだけでは察することもできない。

 彼女に、隼人がいなくなって悲しんでいると、わざわざ明確な形をもって伝える必要があるのだろうか。僕と同じように彼と交流していた彼女なら、言うまでもなく僕の気持ちが理解できるだろうし、そもそも、そんな目的で態度を変えるのは間違いだ。

 考えれば考えるほど、自分という人間が嫌いになっていく。

 これも全て先代の神様とやらのもたらした十三月の結果だとするなら、僕は誰を憎めばいい。自分を憎んでも、何も変えられない。ならば僕は、いったい誰を憎めば救われるのだろう。

 自らの思考に当惑する僕は、無意識のうちに姉の横顔を見つめていた。唯一の救いに縋るように、情けなく、散々暴言を叩きつけた彼女に助けを請っていた。

 視線を感じたのか、昼休み直後からずっと閉ざされていた瞼が開かれる。緩慢に僕の方を向くと、瞳と瞳が、久方ぶりに交錯した。


「優くん」

「……」


 返事もすることができず、僕は黙ったまま逃げるように目を逸らす。

 かまわず、姉は続けた。


「放課後、話したいことがあるの。だから、ちょっと残っていてくれるかしら?」

「……うん。わかったよ」


 先に切り出したのは姉の方だった。僕はただ、彼女に身を委ねるように受け身の姿勢で了承の意思だけを返す。


「ありがとう。…………じゃ、また放課後に」


 大仰に感謝を述べて、少し間を置いてから彼女は席を立って教室を出ていった。

 彼女は本当に僕を助けてくれた。

 関係を崩したのは僕の方なのに、僕は彼女との軋轢を解決したいと願っていた。けれども素直に謝る行為が嫌で、謝罪以外の手段がないか探して、代替案が見つからずに足踏みをしていたんだ。

 そんな僕に、拒絶の姿勢を崩さなかった僕に、姉はきっかけを与えてくれた。

 同じ悲劇に遭っているはずなのに、僕は弱音を吐いてばかりで、彼女は前に進もうと――――。


 ――前に、進む……?


 穿った視点からではなく、真っ直ぐに彼女を想ったところで、僕は愕然とした。


 ――なんて……ことだ……。

 ……僕は…………。


 最低だ。

 頭を下げなければならない理由があることに、僕はまったく気づいていなかった。

 自分だけに不幸が降りかかっていると決め付けて、他のことになんて目もくれていなかった。

 この世界で自分だけ。

 周りは自分ほどではない。

 自分だけが悲しみの中心にいて、他は比べるまでもない。

 視界に入っていたはずなのに、そこが死角だと思い込んでいた。

 僕は、最低なことをした。


 ――だけど。


 きっかけを与えてくれたから、まだやり直せるかもしれない。

 いますぐに会いに行きたい気持ちもあった。けれども彼女は『放課後』と言っていた。そこには単なる時間指定以外の意味もあるのかもしれない。

 ならば、放課後まで待って、そして必ず伝えよう。

 心を決めた僕は席を立ち、ピークの時間を過ぎて余り物しかないであろう購買へと向かう。

 他人との軋轢を生じさせた経験のない僕にとって、他人に対して本心から真摯に謝罪するという行為は、シミュレーションなしではできないくらいに恐れを抱く選択だ。

 だから僕は、誰もいないところで昼食を摂ることで気持ちを落ち着けて、数時間後に訪れる放課後に備えることにした。

 


 午後の授業は、内容がほとんど頭に入ってこなかった。

 僕が聞かずとも流れていく時間は、やがて放課後を迎え、クラスメイト達は次々と部活やら帰宅のために教室を出て行く。

 数人でグループになって去っていく者。形式的に簡素な挨拶を済ましてひとりで去っていく者。誰とも話さず、無言のまま去っていく者。それぞれ思惑は異なっているのだろうけれど、授業が終われば教室に用はなくなるという意識だけは一致しているようだ。

 その場所にいるのは、そこに目的があるからだ。達成してしまえば居座ることに意味はない。目的もなく居続けるのは自宅くらいだろう。

 こんな大勢の人間の意志が混ざり合う場所を、自宅のように落ち着く場所と考えている者はきっといない。実際に、十五分も過ぎれば教室からは二人の生徒を除き、誰もいなくなった。

 僕にとってみても、学校とは到底帰る場所と呼べるような所じゃない。日中は活気のある生徒で騒がしく、日が落ちれば誰もいなくなる広すぎる空間は、とにかく落ち着かない。僕にとって自宅は自分の家だけで、今は色々あって少し気が重いけれど、それでも学校よりは気の休まる場所だという意識は変わらない。

 僕がこうして放課後の深閑とした寂しい教室に残っているのは、ここで果たすべき目的がまだ果たせていないからだ。

 それはきっと、残っているもうひとりの彼女も同じ。

 全てのクラスメイトが姿を消して数分後、隣り合わせの席に座りながら一言も交わさなかった二人のうち、彼女の方が先に立ち上がって教室の後方へ歩いていく。

 その移動にどんな意味があるのかわからないけれども、このタイミングで言わなければ駄目だと思った。

 昼休みから繰り返してきたシミュレーションで得た経験が、本番の緊張を前にして一瞬で忘却される。

 せっかく推敲した口上を忘れ、自信という暗示も解けてしまい、武装した心の身包みが容赦なく剥がされる。

 もはや、どう伝えればうまくいくのかなんて、まったくもってわからない。

 これから自分が口にしようとしている言葉も、空白の頭では考えられない。

 ただ、何を喋らないといけないかについては、曇りなくはっきりとしていた。

 脳で考えられなくても、心が張り詰めて破裂しそうでも、これだけは言わなければならない。

 言わないと、僕はもう、一生自分を嫌いなままになってしまう。

 それだけじゃない。

 姉を傷つけるだけ傷つけて、それで終わってしまうかもしれない。

 その両方が……いや、前者はどうだっていい。伝えたとしても、僕はもう自分を好きにはなれないだろうから。

 だけど、姉を傷つけたままにするのは駄目だ。僕を助けてくれた姉に、そんなひどい事実を残しておくことだけは絶対に嫌だ。

 感謝することはあれども、非難するような事実はないのだから。

 何もかも、全部僕の勘違いだったから。

 僕は立ち上がり、彼女の背中に目を向ける。

 決して逃げない堅い意志を固めて、いつもより小さく見えるその後ろ姿を敢然と見据えた。


「姉ちゃんッ!」

「えっ? どうしたの、優くん」

「いや、その、えーと……」

「うん」

「なんていうか、その、なんだろうな……」

「いいわよ。焦らないで」

「その、さ――」


 女々しく何度も濁そうとした後、ようやく気持ちが声になって、僕は反射的に頭を下げた。


「僕、姉ちゃんにひどいことをたくさん言ってしまった。自分だけが不幸な目に遭っていると思い込んで、姉ちゃんのことが全然わかっていなかった。母さんや父さんを失って悲しいのは僕だけだと思ってて、姉ちゃんにとっては本物の家族でもないのだから、どこか知らない世界の出来事のように悲しくもなんともないんだって、勝手にそう解釈してた」

「……ええ」

「でも、そうじゃないんだよね。母さんや父さんを失った後、なんでもないように振舞っていたのは、他人事だからってわけじゃない。表に出していないだけで、内心では泣き出したいくらいに傷ついてたんだよね。いくら本物じゃなくても、短い間だとしても、そこにあった感情だけは偽物じゃないから。姉ちゃんが母さんや父さんに向けた想いも、姉ちゃんが受け取った想いも、僕と何も変わらない。だから、僕が感じた虚しさや悲しさや怒りは、姉ちゃんだって抱いていたんだよね。だって、元はどうだったのか知らないけど、僕と姉ちゃんは同じ生き物なんだから」

「……」

「マイナスの感情を表に出していなかったから。ただそれだけの理由で、僕は姉ちゃんの心を決め付けた。悲痛な気持ちを周囲に主張する必要なんてないのに、そんな無駄な行為をしていなかったというだけで、姉ちゃんは自分とは違うのだと評価してしまった。隼人が教えてくれたんだ。隼人がいなくなって、僕は親友を失った悲劇を姉ちゃんに披露しようとした。それで気がついたんだ。そんな行動に、意味なんてものはないんだって」

「……」

「なんとなくわかったんだ。姉ちゃんが降りかかる理不尽に動じなかったのは、前だけを向いて後ろを振り返らなかったからなんだよね。下を向いて立ち止まっていても状況は好転しない。これ以上犠牲者を増やさないためには、一刻も早く十三月を終わらせる必要がある。そのために、姉ちゃんは独りでもなんとかしようと考えてくれていたんだよね」

「……」

「……だけど、さ。僕は寂しいよ。だって、僕が姉ちゃんに悲しみを主張したのは、姉ちゃんに支えてほしかったからなんだ。助けて欲しかったから、弱みを曝け出したんだ。けれど、姉ちゃんは僕に対して同じことをしなかった。それって、姉ちゃんにとってみれば僕は支えにもならないって、そういうことなんだよね?」

「それは……。優くんを傷つけてしまったのは、本当に申し訳ないと思っているわ。ごめんなさい。それに、独りでなんとかしようとしたのに結局何も有用な策が思いつかなくて、桐生くんまで犠牲にしてしまった。あたしこそ、頼りにならなくて情けないわ」

「違う。そうじゃないよ、姉ちゃん」

「違わないわ。あたしは、事が起こる前に防がなければならなかった。それが、あたしの役割だったのに」

「それが間違ってるんだよ。僕と姉ちゃんは同じだ。どっちが優れていて、劣っているかなんて考えてほしくない。共通の目的を持っているのだから、対等な関係でいたいんだ」

「でも、あたしは特別な存在で、知識と情報量も膨大なのよ? 常識から外れた事象に巻き込まれているのだから、常識から外れた存在であるあたしが解決しなくちゃ駄目なのよ」

「だからさ、それが寂しいんだよ」

「わからないわ。優くんは、あたしにどうすればいいって言うの?」


 僕の意見に理解が及んでいない彼女は、意味不明の言葉に少しばかり眉を寄せる。

 聡明な雰囲気をまとっているのに、こういうことには鈍感なようだ。

 それが意外で、僕はおかしく思った。

 緊迫した会話の最中に頬を緩める僕を見て、彼女は眉尻を下げて唖然とする。


「え? どうして笑っているの、優くん」

「いや、なんだかおかしく思ってさ。これだけ言ってるのに、微塵も伝わってないみたいだからね。姉ちゃんはもっと勘が良いと思ってたけど、案外鈍感な時もあるんだね」

「……申し訳ないことに、まったくわからないわ。繰り返しになるけれど、あたしはどうしたらいいのかしら?」

「難しいことじゃないんだよ。とても単純なことで、つまりさ、僕が姉ちゃんを頼ってるように、姉ちゃんにも僕を頼ってほしいんだ。僕なんかじゃ支えにもならないし、頼れるほど立派でもないと自覚もしてるよ。だけど、姉ちゃんと肩を並べられるように、これからは頑張るから。もう、どんなことが起きたって僕も動じない。姉ちゃんが僕を守ろうとしてくれるように、僕も、姉ちゃんを守ってみせるよ。弱音はもう吐かない」

「……っ!」

「姉ちゃんと一緒なら、僕も強くなれる気がするんだ。きっと、どんなことだって乗り越えられる。それがたとえ、十三月なんていう存在しない季節だとしても」


 両親がいなくなり、隼人もいなくなって、僕にとっての世界の価値は暴落してしまった。

 けれども、まだ破滅を止めたいと願うだけの理由が残っている。絶望に打ちのめされてしまえば、それさえも失ってしまいかねない。


「姉ちゃん。今度は、僕からお願いするよ」


 最も大切な譲れないものを守るためには、諦めるわけにはいかず、守り抜くためには彼女の協力が必要なんだ。

 僕が、強くあるために。

 僕が、世界を救えるように。


「十三月を終わらせるために、僕に協力してほしい」


 脆い心の内側に芽生えた光には、どこか異物感があった。正しいはずなのに、しかし間違いでもあるような、靄がかかっているような感覚。

 不慣れな勇ましい感情が顔を出しているからなのかもしれない。

 世界なんていうスケールが段違いの事柄に対して、僕は真面目に、冗談など一切含まないで本気で救済しようと考えている。


「……寂しかったわ」

「え――?」

「とても、寂しかったのよ。優くんがあたしとまともに話してくれなかった時間は、昨日の朝から今日の夕方までの二日にも満たない期間だった。でも、あたしにとってそれは、あたしが生まれてから最も時の流れが遅く感じた時間だった。記録としては二日に満たずとも、体感では一週間くらいに感じたわ。耐え難い寂しさが、あたしに流れる時間を遅くした」

「……ごめん」

「謝らなくたっていいのよ。だって、そう思われても仕方がないって、最初から覚悟していたもの。優くんを怒らせる結果になっても、あたしは受け止めるつもりでいたわ。たとえ優くんとの関係が終わってしまっても、あたしが優くんを救いたい気持ちは変わらない。相手に嫌われているからって、自分も嫌いになる必要はないでしょう? だから、自己満足と評されようとも、ひとりきりになったとしても、十三月を必ず解決させると決心したの。……そのつもりだったのに、いざ優くんに相手されなくなってしまったら、あたしはあたしでいることだけで精一杯になってしまった」

「姉ちゃんが、姉ちゃんとしているだけで……?」

「ええ。優くんに気を遣わせないように、〝桜庭神奈〟として在るよう意識するだけで、あたしの精神には許容量ギリギリの負荷がかかった。両親がいなくなって、理奈がいなくなって、桐生くんがいなくなって、優くんにも見放されたあたしにとって、この世界はあまりに広すぎたの。立っているだけで、呼吸をしているだけで、孤独であることの寂しさに精神が磨り減っていった。知らなかったわ。周りに誰もいなくなるだけで、世界の観え方がこんなにも変化するなんて」

「僕は逆だったよ。姉ちゃんにひどいことを言ってから、僕は姉ちゃんのことばかり考えるようになって、世界が狭く感じた。その問題だけが目の前にあって、それを解決することが、あらゆる物事を良い方向に導くんじゃないかって思うくらいにね。そのおかげか、解決の過程で理奈と再会することができたよ」

「優くん、理奈に会ったの!?」

「夢の中で、だけどね。昨夜の夢に出てきたんだ。姉ちゃんのことを心配してたよ。ついでに、僕を騙したことも謝罪してくれた」

「……それ、本当に夢だったのかしら?」

「わからない。なんか、夢を見ているんじゃなくて、夢を見せているって言われたけど、どっちにしろ夢の中の出来事なんだから曖昧だよね」

「どうかしら。彼女も特殊な存在であるはずだから、自分の意志で優くんに逢いに来たのかもしれないわよ?」

「だとしたら、どうしてだろう」

「伝えなければならないことがあったんでしょう。何か重要なことを言ってなかった? 例えば、十三月に関する貴重な情報とか」


 現実にはなかった、二度目の川原で喋った内容を思い出してみる。

 しかし、彼女が話してくれた言葉も、話している時の表情や口調もぼんやりとしか復元できず、結局確かに覚えているのは姉に教えた二つだけ。

 姉への配慮と、罪の清算。

 いくら捻ってもそれだけしか出てこなかったけれど、一度消えた妹が逢いに来る理由としては、それだけで充分に感じられた。


「直接的に十三月と関わる情報は喋ってなかった気がするけど、間接的にならあったかも」

「どんな内容かしら?」

「もう話したよ」

「話した? ……ごめんなさい、聞き逃したみたいだわ」

「なんか齟齬があるみたいだけど、間接的に関係があると思ったのは、理奈が姉ちゃんを心配してたことだよ」

「わからないわ。何故、理奈があたしの心配をすることと十三月が関係あるのかしら? それに、あたしの心配っていわれても何のことか察しがつかないわ」

「だから間接的なんだよ。十三月を解決するためにはさ、僕達は協力しなくちゃいけなかったんだ。なのに、僕達は離れかけていた。それが誤っていると、妹に警告されたんだよ。『おねえちゃんを、よろしくお願いします』ってね。隼人の助言が僕に間違いを気づかせて、理奈が謝る勇気を与えてくれたんだ。理奈の助けがなかったら、僕はまだ姉ちゃんと向き合えずに殻に閉じこもっていたかもしれない。そう考えると、理奈は十三月を解決するために必要なことを諭してくれたんだって思うよ」

「そうだったのね。うふふっ、あたしの元にも逢いに来てくれたら、感謝を伝えないといけないわね」

「姉ちゃんの笑ってるとこ、久しぶりに見たよ」

「――本当ね。随分と長い間、本心から笑ったりしていなかった気がするわ。これも理奈のおかげなら、なおさらお礼を言わなければいけないわね」


 夕焼けの名残のある空を、窓越しに見つめながら彼女は呟く。


「それで、さ。不安だからちゃんと確認しておきたいんだけど、姉ちゃん、十三月を解決するために、僕に協力してくれる?」


 遠くの空を眺める姉は、即答はしないで間を置いた。

 迷っているわけではないのは、彼女の横顔を見ればすぐにわかった。

 彼女は、心底嬉しそうに微笑んでいたからだ。


「優くん、変わったわね」

「え? そ、そうかな?」

「変わったわ。誰よりも〝普通〟だから選ばれたはずなのに、今の優くんは絶望的な状況にもめげず、誰よりも強く生きようとしている。世にいる大多数の人々は諦めて逃げ出しそうな試練を前にして、敢然と立ち向かおうとしているもの。それは、とても〝普通〟ではないわ。あたしの評価は間違っていなかった。優くんは、あたしの弟は、世間に誇れる立派な男よ」

「いや、その、突然そんなこと言われても、返答に困るんだけど……」

「それに、あたしのことばかり考えてただなんて、随分と大胆な発言をするようになったじゃない」

「いや、いやいや! それは、そういう意味じゃなくて! いや、そういう意味かもしれないんけど!」

「嬉しかったわ、全部」


 視線は外の世界に向けたまま、悪戯っぽく笑うわけでもなく、姉らしい言葉を口にした。

 燃えるような陽光に照らされて笑みを浮かべる彼女は、恥も忘れて見惚れてしまうほどに綺麗だった。

 停止したかのように錯覚した時間が動き出して、彼女はウェーブのかかった髪を揺らして僕に振り向く。


「優くん。改めて、よろしくね」


 その優しい微笑みに、僕はようやく真正面から向き合うことができた。

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