第45話

 十三月が始まって二十二日目を迎えた日の夜、僕と姉は自宅の食卓で栄養価の少なそうなコンビニ弁当を夕食にしていた。

 対面する席に座り、電子レンジで温め直した弁当は、どう味わっても美味と評価できるような出来ではなかった。

 それなのに、質素なものを口にしているにも関わらず、僕はなんだか妙に幸せを感じていた。


「優くんとこうしてご飯を食べるのも久しぶりね」

「そうでもないはずだけど、僕もそう感じるよ。前は、母さんが作ってくれた晩ご飯を三人、いや、四人で食べたんだっけ」

「そうね。たった数日で、こんなに状況が変わるなんてね。本当にごめ――」

「待って待って! 別に、姉ちゃんを責めるつもりで言ったわけじゃないから!」

「わかったわ。なら、ひとつ提案させてもらってもいいかしら?」

「なに?」

「十三月が終わるまでは、お互いに謝るのは無しにしましょう。あたし達は、どちらかがどうとかではなくて、二人でひとつ。悪い出来事は一緒に負担することで軽減して、良い出来事は分かち合って増幅させる。失敗は二人の責任で、成功は二人の成果。これ、どうかしら?」

「何があっても絶対に謝るのは禁止っていうのは、ちょっと自信がないよ。だけど、口が滑っても罰ゲームとかはないんでしょ?」

「遊びじゃないんだから、そんなものはないわよ。でも、あたしが悲しい顔をするわ」

「そ、そう。それは、困るね?」

「困るわよ。約束を破られるんだから、落ち込むのは当たり前じゃない」

「そう言われると、そうかもしれないね」

「優くん、まさか約束を破る気なのかしら? そこまで変わってしまったというのなら、お姉ちゃん、少なくとも今晩は枕を濡らすわよ」

「いやいや、早とちりすぎだよ。というか、まだ約束もしてないし」

「駄目、かしら?」

「ううん、問題ないよ。弱気になった拍子に禁句を口にしてしまいそうだけど、極力抑えるようにする。姉ちゃんこそ、言い出した当人なんだからちゃんと守ってよ?」

「深く留意するわ。優くんに悲しい顔をさせないためにもね」

「僕は、謝られたくらいじゃ悲しくならないけど」

「なら、あたし自身が後悔しないように気をつけるわ」


 もしかしてこれは、僕だけがリスクを負っているのではないだろうか。失敗して罰を科せられるのは僕だけで、姉の失敗は手落ち以上の意味を持たない。

 これもまた理不尽だと抗議しようと思ったけれど、姉は弁当の具である焼き魚をほぐすのに夢中で、既に先程の話には興味を失っている様子だ。その姿を目にして、無意味な反抗は止めることにした。

 姉は丁寧な箸使いで魚を頬張り、じっくり味を堪能するように咀嚼する。


「コンビニのお弁当も味は悪くないのだけれど、どこか物足りなく感じてしまうわ」

「おまけに様々な加工がされていて栄養は少ないだろうし、余計なものがたくさん含まれていて身体に悪いだろうしね。僕も姉ちゃんと同意見だ。自分が知らない間に、結構舌が肥えていたんだろうね」

「お母さん、料理が上手だったわよね。初日に食べたお雑煮の衝撃は、今でも思い出せるくらいよ」

「そういえば大絶賛してたよね。僕も昔ははしゃぐほど美味しく感じてたけど――そうか、十数年も食べてきた母の料理だから、それが普通に感じるようになったのかも。やっぱり、舌が肥えてたってわけかな?」

「調理風景を初めから終わりまで見たことはなかったけれど、相当な手間がかかっていたはずよ。でないとたぶん、あんな美味しい料理は作れないと思うわ」

「毎朝早くから起きて、家族全員分の朝食だけじゃなく弁当まで作ってくれて、大変なのに愚痴を聞いたことは一度だってなかった」

「お母さんにとっては、あたし達のご飯を作るのは疑問を持つまでもない当たり前だと捉えていたのかもしれない。でも、親に料理を作ってもらえない子供なんて世界には溢れているわ。だからそれは当然とは呼べない。紛れもない幸福なのよ」

「……そうだったんだね。自分がいかに恵まれた環境で育ってきたか、痛いくらいに思い知ったよ」

「理奈にだけじゃなくて、世話をしてくれるお母さんや、食い扶持を稼いでくれるお父さんにも、もしも再会できたら感謝を伝えないといけないわね。それと、仲良くしてくれた桐生くんにも」

「そうだね。再会できたら、だけど」


 期待のできない理想を語る口調は、自然と暗い声色になってしまう。


「ご――」


 何かを言いかけて、姉は咄嗟に口を閉じた。バレバレだったけれども、平然を装って言い直す。


「――なんでもないわ」

「とても明るい話題ばかりになるような状況じゃないから、仕方ないよ」

「それもそうね。ねぇ優くん、これ食べ終わったら、樹木の様子を見に行ってみない?」

「前に確認したのは一昨日だっけ? あれから変化したことといったら、隼人が消えてしまったことくらいだから、あんまり成長には期待はできないけど」

「でも、条件が優くんの心の動きに関係しているとすると、可能性はあると思えないかしら?」

「確かに。あの時に比べれば、十三月の問題に対する気の持ちようは変わってるから、姉ちゃんの推測が正しければ可能性はあるかもしれないね」

「行ってみる?」

「念のため、確認しておこうか。そんな時間がかかるわけでもないし」


 次にやるべきことを立てて、僕はさっきまでより夕食に対するモチベーションを上げる。

 味覚が伝える味は相変わらずだったけれど、一口運んでは咀嚼するという行為が、かつて当然と信じて疑わなかった家庭でのいくつもの食事風景を思い起こしてくれた。



 姉と和解して一夜が明けて、僕達の世界は十三月二十三日を迎えた。

 いくら狂っていても平日の水曜日であるのは正常な世界と変わらないため、今日もまた学校には生徒が集まっていくのだろう。

 義務ではあるけれど、別に強制されているわけではない。僕達には比べ物にならないほど大きな使命があるのだから、暢気に授業なんて受けず、別の行動に時間を割くこともできる。

 もっと自由に時間を使えると理解していながらも、僕達はいつも通りの時刻に家を出て、いつも通りの荷物を持って、いつも通りに通学路を歩いていた。

 理由は単純明快だ。

 昨日クラスメイトが消えてしまった学校に、新たな異変が生じている可能性があると推測したからである。


「純白の空間には変化がなかったけれど、現実では人が消えたりと、破滅の片鱗を漂わせる異常が次々に発生しているのよね」

「となると、樹木の状態と現実に起こる事象は、もしかしたら関係ないのかも。僕の心情との連動っていう説も、怪しくなってきたんじゃない?」

「それはそうだけれど、他の仮説は思いつかないし、困ったわね。優くんは、新しい可能性とか何か浮かんだ?」

「いや、何も。もう、わけがわからないよ。人が次々消えて、樹木は突然成長を止めて枯れてしまうし。ただ、僕の心を反映するのなら、昨日時点で新緑の葉を蓄えた元の姿に戻っていてもおかしくないと思うんだよね。自分のことだからよくわかるけど、精神面は充分に回復できたからさ」

「即座に反映されるとは限らないし、まだ沈んでた気分が平常に戻っただけで、足りないのかもしれないわ。言わば、ゼロの状態ね。樹木は今マイナスの域に落ちているから、引き上げるためにはプラスの状態を維持しなければならないと考えられないかしら?」

「相変わらず説得力のある説明をするね、姉ちゃんは」

「お姉ちゃんですもの。威厳を保つためには、必要な能力よ」

「それに、すごい自信家だ。ある意味尊敬するよ」

「ある意味だけではなくて、純粋に尊敬してしまってもいいのよ?」


 昨日までの軋轢が嘘のように、僕達は〝日常〟の会話を交わしている。

 商店街を抜けて、最寄の駅の前を通る。電車はホームに到着しておらず、他校の制服やスーツを着た人達が乗車する列車を寒空の下で待っている。

 姉が携帯電話をコートのポケットから取り出し、目を落とす。


「普段なら電車の到着時刻にここを通るのに、今日はちょっと張り切ってしまったみたいね。東條高校の生徒が降りてくる電車の到着まで、あと三分もあるわ」

「この道はうちの生徒がいないと閑散としてるね。家を出てからここまで、同じ制服の学生は一人も見かけてないし」

「部活動に所属していればもっと早い時間に家を出るでしょうし、そうでなければまだ余裕があるのだから無理もないわ」

「それにしても、誰とも遭遇しないっていうのは珍しいよね。うちの学校、それなりに生徒数いるのに」

「まだ学校までは距離があるわ。次の大きな交差点辺りまで行けば、嫌でも群れの一部になるわよ」


 電車の到着を見届けぬまま、僕達は肩を並べて駅の前を通り過ぎた。


「優くん、さっき人が次々消えてるって言ってたじゃない」

「ああ、うん。妹と両親が順番で消えたのか、同時に消えたのかは知る由もないけど、隼人は後からいなくなったじゃないか。だから、〝次々〟って表現で合ってるかなって」

「あたしもそれが適切な表現だと思う。順番に人が消えたのだからね。そして、悔しいけれど、桐生くんで抹消の連鎖に歯止めがかかったとは考えられないわ。悲しいことに、また今日も誰かがいなくなっている確率は非常に高いはずよ」

「うん……一日でも早く解決しないと、犠牲者は増えるばかりだ」

「こんなこと訊くのも酷い話だけれど、優くんは、今日は誰が消えていると思うかしら?」

「これまで確認できてるのは、僕の両親と、理奈、隼人の四人だ。理奈は先代の神様が用意した特殊な存在だから除外するとして、残り三人にある共通点といえば……思い当たるのは、ひとつだけだ」

「優くんと関係がある、という点ね」

「うん。それも、単に知り合いってだけじゃない。両親は僕が生まれてから一緒に生活してきた人達だし、隼人も高校の入学式以来、一番よく遊んでいた」

「逆に言えば、彼ら以外は消えていないわけよね。記憶だけは操作されているようだけれど。そうなると、次にいなくなるのも、優くんと関わりを持っている人になるのかしら。優くん、次の標的になりそうな人物に心当たりはない?」

「同じクラスの男友達とか? もしくはクラスメイト全員だったり、その一部かも」

「怪しいラインではあるわね。他は?」

「他と言われても、僕は他校にも顔見知りだったり友達がいるほど交友関係は広くないし、危ないと推測できるのはクラスメイトくらいだよ」

「そうなのね。そうなると、クラスメイトの子達は……その……」

「覚悟しておけって話だよね」

「え、ええ。そう、だけれど」

「大丈夫だよ。僕はもう、挫けたりしない。なんとしてでも、十三月を絶対に終わらせる」

「――うふふっ。ええ。必ず、解決しないとね」


 決意に燃える心を携えて、僕は異変が起こっているであろう渦中へと進む。

 いつの間にか大きな交差点は通過しており、なのに周囲を歩いている学生は自分と姉だけだった。

 訝しげな瞳で四方を見渡す姉。僕も彼女の視線を追ってみるが、車や近所の老人、逆方向に歩いて駅へ向かう他校の生徒の姿は見えても、自分達と目的地を共にする生徒は一人として見当たらない。


「さすがに、これはおかしいわね」

「明らかに静かすぎる。ここまで来れば、集団で登校する生徒達の喋り声が聞こえてくるのが常なのに、今日は声どころか姿も見えない。誰一人として、歩いていない」

「次の角を曲がれば校舎が見えるはずだけれど、心の準備をしておくべきかもしれないわ」

「まさか、校舎ごと無くなってたり……?」

「先代の目論む世界の破滅は、どうやら人類だけを対象にしているようだから、建物が消えたりはしていないと思うわ。建物だけ無くならないと保証されても、あたし達には価値のない確約かもしれないけれどね」

「それじゃあ、いったい……」


 お互いに沈黙して、最後の角の前で立ち止まる。

 目と鼻の先の距離まで来ても、登校する生徒の喧騒も、校庭から響き渡る運動部の掛け声も、無数に吸い込まれていく足音さえも、僕の耳には届いてこない。

 僕達二人が黙り込むだけで、世界は純白の空間を彷彿とさせる静寂に包まれてしまった。


「校舎は無くなっていないと思うわ。だけど、勉学に勤しむ者が消えてしまった学校が迎える結末はただひとつ」

「……そういうことか。ようやく、察しがついたよ」

「こんなこと、本気で考えたくなんてないわ。もしそうだとしたら、展開が急すぎるもの」

「だけど、この静かな雰囲気の原因として思い当たるのは、もはやそれしかない」

「……ええ。優くん、現実と向き合う覚悟はできた?」

「大丈夫。何度でも言うけど、僕はもう、大丈夫だから」

「そう。なら、まずは受け入れることから始めましょうか」


 先に一歩を踏み出したのは姉。遅れないように、僕もまた地面と接合されてしまいそうに重い足を踏み出す。

 そして、二人で校舎がある方角を向き、目線をそのままに一直線に建物を見据えた。

 事前に推測しておいたためか、絶望に打ちのめされることはなかった。

 しかし、眼前に広がっている圧倒的な現実に、僕と、おそらくは姉も硬直してしまう。即座には受け入れられそうにない。

 僕達の通っていた高校は、平日なのに黒色の厚く頑丈な校門が閉められており、人の気配というものが微塵も感じられなかった。

 死に絶えた建造物を前にして、僕の頭には〝廃校〟という二文字の単語が反射的に浮かんでしまった。

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