第41話
「…………おに…………て…………」
見慣れた一面が真っ白の空間とは真逆の、漆黒の世界で僕は浮遊している。
全身の神経が麻痺しているのか、手足が指先まで動かない。
瞼を開けているのか、閉じているのかさえも不明瞭な状態で、耳のすぐそばから誰かの音だけが響いている。
これが金縛りと呼ばれている現象なのだろうか。体験するのは初めてだ。信じていなかったけれど、自らの身に起きているのであれば手のひらを返すしかない。
「…………にい…………おき…………」
またも声が聞こえてくる。ノイズが入っているわけでもないのに、音の一部が掠れていて鮮明に聞き取れない。
だけど、ちょっと幼い色を残した高めの声色は、つい最近、どこかで耳にした覚えがあった。
闇に包まれる空間の奥から届く少女の声は、僕に話しかけているのだろうか。
彼女はなんと言っているのだろう。それさえわかれば、声の主の正体もわかるかもしれない。
「…………ちゃん…………きて…………」
耳を澄まそうとしても、麻痺している身体は聴覚すらも鈍くなっている。
何かを伝えようとしていると思しき声は、三度目も僕の脳髄に意思を届けられない。
僕は働かない脳を使い、思考することで音の正体を突き止めようとする。
数回に渡って断片的に与えられた音を繋ぎ合わせて、正体不明の誰かが喋っている言葉を推測する。
意識を自分の内に宿しながらも空中から俯瞰している感覚は、自らのことですら他人事のように感じさせている。
けれども、目の届かない場所から聞こえてくる言葉を繋ぎ合わせた瞬間、僕の思考は自らの身体に引き戻された。
――おにいちゃん、おきて……?
その台詞は……。
走馬灯のごとく、暗い世界の先から無数の映像が通り過ぎていく。
自宅の風景、登校時の風景、学校の風景、放課後の風景、住み慣れた町の風景、隣町の風景、ショッピングモールの風景。
その全てに僕の姿はなく、その全てに〝彼女〟の姿があった。
彼女――。
そうだ。僕が知っている、ひとりの少女。
一時期とはいえども、家族と呼び合った大切な存在。
彼女と過ごした数々の時間の記憶が、黒色のスクリーンに浮かんでは消えていく。
眺めているうちに、それらは時系列通りに映っていることに気がついて――。
最後に、ショッピングモールで願望を叶えられないと告白した翌日の、山奥にある川原の景観が暗闇の世界を塗り替えた。
しかしそれはおかしな矛盾だ。
あの日、心まで凍える寒い川原で立っていたのは僕ひとりで、彼女は――。
「おにいちゃん」
声がもう一度聞こえた時、僕は自分の身体が束縛から解放されたことに気がついた。
動くようになった目で周囲を見回してみる。
清冽で穏やかな川と、大小さまざまな大きさの丸々とした砂利が敷き詰められた地面。川の奥には冬眠した木々の森が広がっていて、異物である人間の姿が一切なく、純粋な自然の世界が景色を支配している。
いつの間にか僕は、自らの記憶を映像として観ているのではなく、過去の記憶の中に未来の自分として立ち尽くしていた。
「それは違うよ、おにいちゃん」
「…………そうだね。確かに、そうだ」
耳元の声に、僕は冬の曇り空を見上げながら返答する。
こんな現実離れした状況では、心の声を聴かれる行為を指摘するのも野暮な話だ。
「これが過去の記憶なら、ここに君がいるはずがない」
「うん。そのとおりだよ。ここにいたのは、おにいちゃんと、おねえちゃんだけだからね」
「だけど、それならこれは何? 夢にしては意識がはっきりとしすぎてる。夢っていうのは、自覚できないまま見るものでしょ?」
「基本的にはね。正確には夢にも種類があるんだけど、それはどうでもいっか。いまは関係ないからね」
「じゃあ、これは夢?」
「夢だよ。でも、おにいちゃんが見てる夢じゃない。これはね、おにいちゃんに見せている夢なんだよ」
それはつまり、なんらかの力によって催眠術をかけられているということだろうか。
「催眠術かぁ。そっちの方が近いかもしれないけど、おにいちゃんが寝てる状態なのも事実だから、夢でも意味としては間違ってないと思うな」
「君は、そこにいるの?」
「答える必要なんてないよ。おにいちゃんの身体は眠ってるけど、ここでは起きてるから、思うままに動かせるはずだよ。自分の目で確認してみて」
答えず、促されるままに振り返った。
すると、あの日息を切らして姉が立っていた位置と同じ場所に、彼女はいた。
僕が似合っていると褒めた白いダッフルコートと黒いスカート、黒色のブーツに、首元には白色のマフラーが巻かれている。
暖かそうだと感想を抱いた時、自分自身もまた、あの日と同じ外出用の服装をしていることを今更ながら認知した。
風のない世界でストレートの髪を揺らし、透き通るような両方の瞳には、それぞれに僕の姿が小さく映し出されている。
目の前に立っている少女は間違いなく、僕の知っている彼女だった。
「理奈……」
十三月の途中に現れ、そして消えた、存在しないはずの妹――桜庭理奈が、確かに僕の前で微笑んでいる。
「久しぶりだね、おにいちゃん」
「久しぶりって言われるほど長い時間は経ってないと思うけど、どうしてだろう。とても長い間、会えてなかった感じがする」
「理奈も同じだよ。だからね、『久しぶり』で合ってるんだよ。おにいちゃんに会えない時間は、一緒に過ごしていた時間の何十倍にも遅く感じられたよ。ううん、それは逆かも。一緒に過ごしていた時間の方が、何十倍も早かっただけなのかな?」
「君は、いったいどこにいるの? 桜庭理奈って少女がいた痕跡が、周りにはどこにも残ってないんだ。最初からいなかったように、生きていた証が全部消えてるんだよ」
「それは間違いだよ。偶然かもしれないけど、物的証拠として残っているものが一つだけあるはずだよ?」
指摘されて思い返してみる。
少なくとも、自宅には何も残っていない。姉妹の共用部屋は姉専用の造りに戻っていたし、日用品も妹の使っていた物は消えてしまっている。住民票に名前は載っていないし、僕と姉以外には、彼女が桜庭家の一員だったどころか彼女の存在自体を覚えている者がいない。
家族としての彼女の存在は、間違いなく抹消されている。他にどういった場所に痕跡が残っているのか思考を巡らせると、小学生のような風貌の彼女が自分と同じ教室で勉学に励んでいる風景が脳内に具現した。
しかし、学校の人々だって同じだ。他クラスの生徒はともかく、クラスメイトにすら彼女の存在を覚えている者はいない。親密に接していた隼人ですら、自分と仲の良かった女生徒を記憶から欠片も残さず消去させてしまっている。教師にいたっても、いつの間にか生徒数が減少している事実を気にしている様子もなかった。おまけに、持ち主が不明な机を違和感も抱かずに教室のど真ん中に放置していたり――。
――持ち主のいない机?
反芻してみて、その言葉が示す意味を再確認する。
あった。
妹に指摘された通り、誰の記憶からも消された少女の生きていた痕跡が、たったひとつだけ残されていた。
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