第40話

 放課後、彼女は誰よりも早く席を立って教室を出て行った。

 ここでも視線を感じたけれど、僕は気づかないフリをする。


「神奈姉さん、随分と急がしそうにしてるよな」

「……そうだね」

「優、おめぇはなんか予定があんのか?」

「僕は、特にないけど」

「おっしゃ、そんじゃ帰ろうぜ」


 中身が空なんじゃないかと疑うくらい薄っぺらい鞄を肩にかけ、僕の返事を待たずに教室から出て行こうとする隼人。

 断るつもりはなかったけれど、肯定の言葉も出ず、僕は黙ったまま彼の背中を追って廊下に出る。

 立ち止まることもなく玄関まで歩いていき、靴を履き替えてからも颯爽と帰路を進む彼と歩調を合わせ、話題もなく静かな時間を過ごしていく。

 僕はどこか気まずさを感じていたけれど、ちょっとでも喋ってしまうと核心を突かれそうで怖くて、重いと感じる空気に耐えることしかできない。

 駅前を通りすぎようとした頃になって、隣を歩く彼はようやく口を開いた。


「優、今日の夜、話せるか?」

「話すって、電話できるかってこと?」

「いや、そんな金のかかる手段を選ぶ必要なんざねぇさ。いつもみたくチャットでかまわねぇよ」

「だったら多分、九時くらいからなら空いてると思うけど。だけど、隼人がバイト終わって帰ってくるのはもっと遅い時間だよね?」

「そうだけどよ、今日はバイト休みにしといたから何時でも問題ねぇぜ」

「あれ、そうなの? 月曜日って、いつもバイトいれてなかったっけ?」

「だから休みにしたって言ってんだろ。おっし、九時からなら空いてんだな? 俺もその時間にはパソコンの前に座っていられるようにしとくから、よろしく頼むぜ」

「え、ああ、うん。わかったよ」


 唐突に申し込まれた誘いを了承すると、目的については一切触れず、用件は済んだと言わんばかりに足早に先を歩いていく。

 相変わらず僕は疑問の答えを求めることもできず、結局僕と彼はネット上で数時間後に再会する約束だけを結ぶと、それぞれの家路が分岐する交差点で乾いた挨拶を交わして別れた。



 真っ暗な冬の空と凍える風から逃れるように自宅へ辿り着いた僕は、明かりが灯っている自分の家を確認して、一瞬だけ踵を返したくなった。

 この家の電灯が動作しているのは、家族の誰かが帰ってきている証であり、いまの僕にとって、家族と呼べるであろう人物はひとりしかいない。

 寒空と、彼女と二人だけの空間。どちらが僕にとって優しい場所なのだろうと、たった一瞬ではあるけれど本気でわからなくなった。


「違う。ここは、僕の家だ」


 確かめるように呟いた一言で、迷いを振り切る。

 この家の本当の持ち主は、いまでは僕ひとりだけなんだと、それを彼女に譲っていいはずがないと、子供のような価値のない矜持に後押しされる。


 ――よし。


 気持ちが暴走しないよう心を鎮めてから、玄関先の扉に手を伸ばす。

 中に入ると、姉が登校用に使っているローファーも、休日に履く靴のいくつかも、全て玄関に揃っていた。

 覚悟しても緊張で早鐘を打つ胸を可能な限り抑えつつ、居間へ続く廊下を歩く。

 暖房を使っているためか、廊下と居間を仕切る扉は閉められていた。


 ――大丈夫だ。


 もう一度自分に暗示をかけて、一呼吸置いてからドアノブを回す。

 部屋に入ると、昨日は妹が寝転がっていたソファーに、姉は行儀よく腰かけて僕の方を見ていた。

 学校では交わらなかった視線が、久しぶりに重なる。

 どう反応すべきか考えるより早く、僕は反射的に彼女から視線を逸らしていた。


「おかえり、優くん」

「う、うん。ただいま……」


 いつも通りの声色、いつも通りの挨拶。いつも通りの声。

 普段とは違う反応をしていた僕に対して、彼女は普段と同じ彼女でいてくれた。

 僕はまた、そんな日常のやりとりに腹が立った。

 今度は、彼女に対してじゃない。

 僕は、姉の言ってくれた簡素な挨拶を聞けただけで、ひどく安心してしまっていた。

 さすがの彼女も、あからさまに避けられれれば平常通りではいられないだろうと思っていた。原因を作ったのは他ならぬ僕なのに、偉そうにそんなことを考えていた。

 けれど、彼女はいつもと変わらない態度で、表情で、僕を出迎えてくれた。

 今朝は動じぬ彼女に憤りを覚えたのに、いまは日常の反応を示す彼女に安堵している。

 その自分勝手さに、ほとほと嫌気がさした。


「優くん、晩ごはんはどうする?」

「なんでもいいよ」

「そう。なら、あたしがコンビニで適当に買ってくればいいかしら?」

「……あ、そうか……。夜も、自分で買わなくちゃいけないんだ」

「ええ。そうよ」

「……だけど、僕の分は自分で買ってくるからいいよ」

「わかったわ。あたしは、あたしの分だけ買ってくる」


 最低限の会話を済ませると、居心地の悪さから逃げ出すように居間に背を向ける。


「優くん」


 抜け出すより早く、少しばかり感情の込められた声が僕を呼び止める。

 一呼吸置いて、彼女は短く告げた。


「ご飯、ちゃんと食べてね」

「……大丈夫」


 振り向かず、こんな声が出せるのかってくらい冷たい声色で答えてしまうと、後ろ手で扉を閉めて強引に会話に幕を下ろす。

 心底子供っぽい自分をより憎らしく思いながら、そんな風に振舞ってしまう原因は彼女にあるのだと繰り返し、なんとか気持ちを落ちつけようとする。

 しかし、その選択はより強く僕の首を絞めるだけだった。

 


 午後九時の五分前。姉と鉢合わせしないよう気を配りつつコンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、自室のパソコンの前で目的もなく呆然と、隼人がログインしてくるのを待っていた。

 余計な考えをしてしまわないように、口にしている質素な食事への感想さえ浮かべないよう注意しながら、無心で作業的にカロリーを摂取する。

 最後のおにぎりの包装紙を丁寧に開けた時、ディスプレイの右下に彼がログインしたことを知らせる通知が表示された。チャットアプリのウインドウをクリックすると、彼からの発言を受信した。

 時刻は九時〇〇分。ぴったりの時間だ。


《隼人:よう。いるか?》

《優:うん》

《隼人:急に呼び出してすまない》

《優:気にしなくていいよ。別に予定もなかったから》

《隼人:そうか。それなら良かった》

《隼人:優を呼び出したのは、雑談がしたかったからじゃない。お前に言っておきたいことがあったからだ》

《隼人:その前にひとつ教えてくれ。神奈姉さんはそこにいないよな?》

《優:そこってどこ? 家にはいるけど》

《隼人:優の部屋にいるのかって意味だよ。いないんだよな?》

《優:うん。この部屋にはいないよ》

《隼人:そうか》


 意図を伝えない不明瞭な質問をされて、発言が一旦止まる。

 先を促そうとキーボードに手を伸ばした時、相手が入力中であることを示すシステムメッセージが表示された。キーボードから手を離す。


《隼人:それで、本題なんだが》

《隼人:お前、神奈姉さんと何かあったろ?》


 ――やっぱり、そのことか。


 突拍子もない現象に幾度も巻き込まれた僕は、彼もまた僕では想像も及ばない事柄を運んでくるのかと思っていた。

 けれどもそれは飛躍しすぎた推測で、実際には、彼は彼らしい理由で僕を呼び出したようだ。


《優:わかってたんだね》

《隼人:わからない方がおかしい。明らかに神奈姉さんを避けてただろ?》

《優:うん。まぁ、色々あったんだよ》

《隼人:色々か。それは、俺が聞いても仕方ないだろうな》

《隼人:いや、話さなくていい》

《隼人:それは、お前と神奈姉さんの問題だ。お前と神奈姉さんが、2人で解決する問題だ》

《優:それを言うために僕を呼んだんじゃないの?》

《隼人:俺がそんなお節介を焼くお人よしに見えるか?》

《優:悪いけど、僕は隼人のこと、結構なお人よしだと思ってるよ》

《隼人:そうか。まぁ、こんな風に首を突っ込むんだから、そうかもしれん》

《隼人:ただ、俺は別に、友人の関係のもつれに無神経に首を突っ込む趣味があるわけじゃない》

《隼人:さっきも言ったが、俺はこの件に関して、お前に伝えておきたいことがあったから、こうして連絡をとってるんだ》


 どう返信したら正解なのか迷い、僕は手を止める。

 彼は僕の相槌を待たず、引き続き発言する。


《隼人:お前は、神奈姉さんが普段、お前をどういう目で見ているか知ってるか?》

《優:別に、特別な目で見てたりはしてないでしょ》

《隼人:じゃあ、お前はどうだ? 神奈姉さんに対して、特別な想いを持ってないのか?》

《優:なにもないよ。いまは》

《隼人:今ないのは、何かが起きたからだろ? それより前は、特別な感情を持ってなかったのか?》

《隼人:たとえば、》

《隼人:失いたくない、とか》


 彼の送ってきた文章を目にした瞬間、脳裏に記憶が蘇る。

 彼女に出会って、一緒にいることが当然のようになって、彼女がいつか僕の前からいなくなる可能性を知りながら、あまり考えなくなっていた。

 しかし妹の本当の願いを聞いた時、僕は別れる未来を認めながら、あっさりと離れるのだけは嫌だと感じた。

 それが、彼の言う〝失くしたくない〟という意味にもなるのだろうか。

 けれど――。


 ――そう感じたことも、過去にはあったよ。


 軽薄な言葉が胸に浮かぶ。それが僕の本音なのか。だとしても、これを隼人に伝えるのは、あまりにも僕が冷たい人間だと思われそうで嫌だった。

 それに、失ってもいいのかと問われたら、素直に縦に頷く気にもなれない。

 理奈の時と同じで、このまま別れたくないという気持ちだけが、最も根強く僕の心に存在しているからだ。

 またもや手を止めていると、再び隼人が文字の入力を始めた。


《隼人:少し踏み込みすぎた。すまん。忘れてくれ》

《優:いいよ。白状すると、昔はそんな風に思ったこともあった気がする。でも、今はどうなのか、僕自身にもはっきりと言葉にできない》


 またも静寂。

 隼人は、僕のことを軽蔑しただろうか。

 血が繋がってもいないのに『姉さん』と呼ぶくらい彼女を慕っているんだから、軽視するような発言を聞いたら許せないと思うかもしれない。

 彼からどんな罵倒を受けるのかと恐怖しつつも、正直に気持ちを吐露したことで妙に心が軽くなったような感覚があった。

 僕はいま、嘘をついていない。

 真実を暴かれる心配のない状況が、僕の気持ちを軽くしてくれている。

 あとは受け入れるだけだ。彼が僕に浴びせる言葉があるとすれば、それは僕が聞かなければならない、大切な助言なのだから。

 パソコンの前で、キーボードから手を離してディスプレイに集中する。

 上昇した心拍数を落ち着けようと頑張ってみても、鎮まるどころか全身が震えだす。暖房が効いた部屋は寒いわけでもないのに、手と足の指先の振動が治まらない。

 相手の表情が見えれば、どれくらい憤慨しているのかも察せられるだろうけれど、ネットでの会話はそれがまったくわからない。

 見えない相手がどれほどの強い感情を持っているのか、言葉以外では知る術がない。

 そういった不可視の恐怖が僕を震わせていた。

 ようやく彼が文字の入力を始める。

 相手が入力中を示すシステムメッセージが表示された時、僕の全身に伝染した震えは更に激しさを増した。

 そして、彼の声が回線を介して、文字となって僕のディスプレイに映し出される。


《隼人:そうか。話してくれてありがとな》

 彼は、別段僕を責めるような内容でもなく、ただ嘘をつかなかったことに感謝した。

《隼人:話の続きになるが、神奈姉さんがお前をどういう目で見ているかって話だが》

《隼人:今日、お前、神奈姉さんと顔を合わせないようにしてただろ?》

《優:うん》

《隼人:お前に無視された時の神奈姉さんの顔が、俺にはよく見えてたんだ》


 あからさまに僕が無視していた瞬間の彼女の表情は、僕には知る由もない。

 だけど、今日帰ってきた時は普通だった。部屋に入った瞬間の一度しか目を合わさなかったけれど、声色も、一瞬だけ見れた表情も、全部がいつも通りだった。

 だから、学校の時だって――。


《隼人:あの時の神奈姉さん、泣き出しそうな悲しい顔をしてた》


 ――えっ?


 それは、どういう……。


《隼人:それと、神奈姉さんはお前と喋っていない時でも、よくお前の姿を気にしているんだ。たとえば、お前が俺と話してる最中とかな》

《隼人:そういう時、どういう顔をしてると思う?》


 そんなの――。

 見ていないんだから、知るはずがないじゃないか。


《隼人:お前と同じだよ》

《優:僕と同じ?》

《隼人:ああ。お前を見てる時、神奈姉さんはお前と同じ顔をしてるんだ》

《隼人:お前が笑ってるなら、神奈姉さんも笑ってる。お前がつまらなそうなら、神奈姉さんもおもしろくなさそうにしてる。お前が悲しんでいれば、神奈姉さんも悲しそうにしてる》

《隼人:どうしてか。わかるだろ?》


 そんなの――。

 わからないわけじゃないけれど、それを聞いて、僕はどうすればいいんだ。

 その彼女を非難していた僕に、何かを言う資格があるのだろうか。


《隼人:すまん。また余計なことを言ったな》

《隼人:俺が伝えたかったのはそれだけだ》

《優:教えてくれてありがとう》

《隼人:ああ。それにしても、これはマジでお節介だな》

《隼人:もう二度と、こんな恥ずかしいこと言わせるなよ!》


 感嘆符付きで送られてきたメッセージが、この場にいない彼の声で再生される。

 それは、それが彼自身の言葉であるなによりの証だった。


《隼人:話はこれで終わりだ。用がないなら俺は落ちる》

《優:まって》


 このまま彼に去られては、自分の信用を取り戻せないと思い必死に呼び止める。


《隼人:どうした?》

《優:明日、姉ちゃんとしっかり話してみる》

《隼人:そうか》

《優:だけど、2人だけだと、また変なことになっちゃうかも》

《優:だから、隼人にも協力してほしい。僕が姉ちゃんと話をする時、一緒にいてくれるだけでいいから》

《優:駄目かな? 自分ひとりでやるべきかな?》

《隼人:ああ。そう思うぜ》


 同じ轍を踏まないために協力を要請したわけだけれど、即座に断られた。


《隼人:だが、見てるだけでいいなら同席してやる》

《優:いいの?》

《隼人:見てるだけだぞ? 口出しは一切しない》

《優:充分だよ。隼人がいてくれれば、馬鹿みたいに自分を見失ったりしないと思う》

《隼人:そうか。過大評価するのはいいが、期待に沿えなくて俺を叩いたりするなよ?》


 断られたというのは僕の早とちりだったようで、彼は依頼を快く引き受けてくれた。

 僕と姉の共通の友人である彼がいてくれれば、彼女との話し合いもきっと穏やかに行えるだろう。


《優:ありがとう。申し訳ないけど、明日はよろしくお願いするよ》

《隼人:そう構えるな。神奈姉さんなら、すぐにわかってくれる》

《隼人:まぁ、そうやって礼を言うのもお前らしいか》

《隼人:おし。それじゃ、俺は落ちる》

《優:うん。おつかれさま》

《隼人:おつかれ》


 乾いた挨拶を互いに送り合い、僕達のネットを介した夜の会合は終わりを迎える。

 一見すると意味のない形式だけの挨拶に見えるけれど、そうじゃない。

 ディスプレイ上に表示される感情を伴わない文字から、まるで音を奏でて伝えているように、鮮明に彼の心境を知ることができた。

 いつか必ず、隼人には何らかの形で恩返しをしなければいけないなと誓い、僕もまたパソコンの電源を落とす。

 時刻は、既に二十二時を迎えようとしていた。

 姉はもう自室にいるのだろうか。それとも、まだ居間にいるのだろうか。

 いずれにせよ、今日はまだ自信がない。素直に感情を伝えるためには、気持ちに余裕が足りていない。

 焦る必要もないだろう。協力してくれる心強い味方も得たことだし、明日、ごまかさずにしっかり謝罪して、もう一度やり直そう。

 決意を固めた僕は、普段の生活に比べると大幅に早い時間ではあったけれど、部屋の明かりを消して布団に潜り込んだ。

 仰向けになった瞳に映るのは、瞼の裏側と大差のない暗闇。

 思考をゆっくりと停止させる過程で脳裏をよぎるのは、姉と共に過ごしたいくつもの時間の記憶。映像となって、光速で脳内を走り去っていく。

 眠気が領土を広げていく最中、ぼんやりと自分自身を顧みる。

 僕は、彼女に姉としての相応しい反応を望み、期待通りにならず勝手に幻滅した。

 1度は完全に失望したはずなのに、いまはその行為自体を恥じて、後悔までしてしまっている。

 間違いに気づけたから、悔やむことができている。

 そもそも、他人に言われるまでもない自明の理だったんだ。

 彼女はいつだって本気だった。十三月という異空間から抜け出すために、いつだって全力を尽くしてくれていたんだ。

 その姿を見ていたのは僕ひとりだったのに、唯一の理解者が僕だったのに、ただ表面上に見えないことを理由に、彼女の力添えを認識できていなかった。

 それは、どれだけの孤独だったのだろう。

 それは、どれだけ嬉しいことだろう。

 僕は、目を背けていた自分の気持ちに、初めて正面から向き合った。


 ――僕は。


 ――僕のために尽くしてくれる彼女が――――。


 閉ざした瞳で見据えた思考は、最後まで見届けることも叶わず、真の暗闇の底へと落ちていった。

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