第39話
「しっかしまぁー、真面目に足が生えて歩いているようなおめぇが遅刻するたぁな。それも一時間目の授業を丸々サボるとは驚いたぜ。どれくらい驚いたかっていうと、この俺が授業抜け出して様子を見に行こうかと思ったくれぇだ。なのに純粋な遅刻だってんだから、こいつは校庭に真冬の桜が咲き誇るんじゃねぇか」
「ちょっと体調が悪かっただけだから。病院に行ってから登校しようと思ったけど、休みの連絡を入れようか迷ってる時に回復したから、二時間目から急遽出ることにしただけだよ。サボったわけじゃない」
「俺の常識ではなぁ、病院に行かなかった体調不良は例外なく仮病、つまりはサボりだ。おっと、だが別におめぇを責めてるわけじゃねぇぜ? むしろ嬉しいくらいさ。あの規範的な生徒の桜庭優がよ、初めて反抗的な行動をしたんだからよ」
「なんで僕がサボると隼人が喜ぶんだよ」
「決まってんだろ。それが、そいつが魂を持ってるっつー証になるからだ。ルールは破りません、人は傷つけません、どんな悪い人でも救いを与えますってのはありえねぇ理想さ。なんでも完璧に正解を行える奴がいるとしたら、そいつは機械と変わらねぇ。魂を持ってりゃ悪いことだってしちまうもんさ。だからよ、おめぇが遅刻したってのは、おめぇが自我を持ってる証拠ってわけだ。おめぇの|友達(ダチ)として、俺は素直に嬉しいのさ」
「へぇ……なんか、隼人にしては、やけに深いことを言うね」
「おめぇが言わせてんだよ。おめぇが遅刻なんざしなきゃ、俺だってこんなくだらねぇ自論を他人に話したりしねぇよ」
昼休み、僕は後ろの席にいる隼人と向かい合い、彼の机を共用して雑談しながら昼食を摂っていた。
四種類のパンを机に積み上げて、隼人はもしゃもしゃと大口で食いちぎり、咀嚼も不十分なままで飲み込んでいく。
普段は弁当を食べている僕も、今日は彼に頼んで買ってきてもらったパンを食べていた。食欲はあまりないけれど、食べなければ更に体調が悪化するような気がしたので、義務感から栄養を補給しようと思った。実際に食事をしてみると、賞賛するほど美味しくはなくとも、気分が多少リラックスしていくような感覚があった。
そのおかげか、今朝あんなことがあったのに、僕は普段通りの僕を演じられている。
「そんでよ、おめぇが体調不良だったってのはわかった。だが神奈ねぇさんも遅れたのはなんでだ? 看病が必要なほど重症だったわけでもねぇんだろ? 二人して晩飯に腐ったもんでも食ったのか?」
「い、いや、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「じゃあなんだ? 調子が悪いおめぇのために、神奈姉さんが学校サボって付き合ってくれたのか? まったく、いくら姉さんが優しいからって、甘えてばかりじゃ情けないぜ。おめぇも男なんだからよ」
「姉ちゃんは、僕に付き合ってくれたわけじゃない」
「なんだそりゃ。そうなるとマジでわかんねぇなぁ。いったい何があったんだよ」
「何って、それは……」
「いつも一緒に昼飯を食べてる神奈ねぇさんが、今日は用事があって不在ってのと関係してんのか?」
学校での昼食は、最近は隼人と男二人きりで楽しんでいるわけではない。
そこには姉ちゃんも同席していて、彼は覚えていないだろうけれど、もうひとり飛び級でもしたかのように幼い少女も席を囲んでいた。
冬休みを迎える前は同姓二人だけの寂しい昼食の時間も、新学期からは僕以外に認知されずに転入してきたクラスメイトが加わり、つい先週までは騒々しくも活気のある時間に昇華していた。
けれども、今日は場を盛り上げていた二人の少女が欠席しており、僕と隼人は久しぶりにサシで昼の時間を過ごしている。
「……さぁ。僕はなにも聞いてないから答えようがないよ。なんか野暮用でもあるんじゃないの?」
「なんだ、野暮用って。高一なんだから受験の話でもねぇだろうし、神奈ねぇさんみてぇな優等生が教師に呼び出しくらうとも思えねぇし、学校の昼休みの短い時間でできることなんざ限られてるだろ? どっか外の店にランチでも食いに行ってんのか?」
「僕に訊かれても知らないよ。気になるなら、姉ちゃん本人に確認したらいいんじゃない?」
「おめぇは気にならねぇのか? 何も知らねぇんだろ?」
「姉ちゃんが何をしようと、姉ちゃんの勝手だよ。僕には無関係だ」
「自分の姉なのに、興味がないのか?」
「姉ちゃんと僕は考え方も生き方も違うんだから、いちいち全部に興味を持っても仕方ないって」
「そういうもんかね?」
「そういうもの、だと思うよ」
「ほーん……」
真摯で濁っていない、悲しみとも怒りともとれない無表情のまま、相槌を打ってから食べかけのパンを齧る隼人。
僕にとっては都合の悪い話題だったので、次は何を質問されるのだろうかと内心で怯えていた。けれど、彼はそれ以上喋らず、手に持ったパンを食べ終えると次のパンを掴み、両手で包装紙を開けて齧りつく。
ひとまず、姉が昼食の場にいない理由についてはなんとなく理解してくれたようだ。これで、彼の疑問は解けたことだろう。
今度は、僕の疑問を解決する手がかりを探る番だ。
「ねぇ隼人、すごく当たり前のことを聞いてしまうようで悪いんだけど、ひとつ教えてもらっていいかな?」
「ん、急に改まってどうした。遠慮するこたぁねぇぜ。俺が知ってることなら包み隠さず教えてやるからよ」
「いや、そんな仰々しく言われても、ほんとに大したことじゃないかもしれないんだけど――」
僕は、姉の席ではない方の隣席を指差して、隼人の顔をうかがう。
そこは教室の真ん中に位置しているにも関わらず、在籍している誰の指定席でもない、主が不在の空席だ。
「これ、誰の席か知ってる?」
「はぁ? おめぇの質問自体が間違ってるぜ? そいつは誰の席でもねぇ、ただの空席だろ?」
「よく考えてみなよ。こんなど真ん中に空席なんて普通出来る? 空き机をしまっておく倉庫なんて学校にはいくらでもあるんだから、使わないなら片付けるのが道理だと思わない?」
「まぁ、言われてみりゃあ確かにそうだな。しっかし、そもそもなんで空席なんざ出来たんだろうな? まったく思い当たる節がねぇし、いつからこいつがあったのかも覚えてねぇ。今おめぇに指摘されるまで、全然気にしていなかったからよ」
「いつからかも覚えてないの?」
「ああ。昨日からだった気もするし、入学した当初からだったような気もする。どっちが正しいかもわからねぇし、どっちも正しいような感じもする。むかつくぜ、この感じ。こいつが記憶喪失ってやつなのか?」
「……どうだろうね。僕にはわからないけど」
「おいおい、そこは即座に否定するとこだろ? 『んなわけねーだろ』ってよ。どうしちまったんだ、優。おめぇ、なんか今日――――――ちげぇな。なんでもねぇ」
喋りの勢いを殺して、隼人は喉元まで出かかった言葉を飲み込みはぐらかした。
何を言おうとしたのかわからないけれど、彼が伝えるべきでないと判断したのなら追及すべきではない。僕はなんとなく彼の気持ちを察しながらも、彼の迷いに鈍感なフリをした。
「そんで、おめぇは隣の空席について何か知ってんのか?」
「ううん、僕も隼人と同じだよ。先週まで違和感なんて皆無だったのに、今朝登校した時から急に気になってね。隼人が事情を知ってるかもって思って訊いたんだけど、まったく同じ認識だとは思わなかったよ」
「ああ。こいつは驚きだぜ。俺も優も知らねぇってなると、それより校内の情報に詳しそうなのは神奈ねぇさんくらいか? 神奈ねぇさんにも訊いてみたのか、優?」
「訊いたよ。姉ちゃんも知らないってさ」
一応、僕は嘘をついていない。
先週まで違和感がなかったのは、席にあるべき主が存在していたからで、姉ちゃんが知らないのは自宅で交わした会話から明らかだ。
集団的な記憶喪失とも受け取られかねない事象だけれど、彼は暢気に相槌を打つだけで、次のパンの包装紙を開けた。これで四つ目だ。
「へぇ。まぁ、どうせ学校側の怠慢か、なんかの前準備だろ。近々転校してくる奴でもいるんじゃねぇか? どちにしろ、俺にはカンケーねぇ話だ」
「さっぱりしてるね。その、気にならないの?」
「これまで気にしてなかったんだから、これからだって気にしなくても問題ねぇよ。気にする必要だって感じねぇしな。そうだろ?」
「そう、かな?」
「そうだよ。優、おめぇはなんでも真面目に考えすぎだ。無関係なとこまで真剣に考えちまう。もっと肩の力を抜いて生きることを覚えた方がいいぜ? でないと、いつか背負う物の重さに耐え切れなくなって壊れちまうかもしれねぇ」
「……だけどさ、隼人。無関係じゃなくて関係があったら、真剣に考えなくちゃ駄目だと思うんだ」
「あたりめぇだ。俺が言いてぇのは、空席の話なんてどうでもよくて、おめぇが気にかけるべき事柄は他にあるんじゃねぇのかって話だ」
「僕にとっては、その机だって無関係じゃないんだ。そこに座ってた人は、僕にとっては大切な人のひとりだったんだから」
「……どういうことだ? 空席に関しては、俺と同じで今日気づいたんじゃなかったのか?」
「あっ……いや、それは……そうなんだけど、そうじゃなくて……」
核心に迫ってくるようで、しかし少し的外れな隼人の意見に、僕は今朝のように熱くなりかけた。
墓穴を掘ったついでに洗いざらい吐き出したくなる衝動を堪えて、言い訳をする余裕もなく状況を悪化させないために口を閉ざす。
僕と隼人の間に重い沈黙が流れる。周りの生徒達の雑談は途絶えていないのに、教室内が妙に静かで寂しい空間に思えた。
しばらくして、隼人は張り詰めた雰囲気を弛緩させるように、軽く笑って鼻を鳴らす。
「なんか変なこと言っちまったみてぇだな。悪い、俺が柄にもなく意味のねぇことを垂れ流したからだ。今日の優は調子がわりぃと思っていたんだが、どうやら不調だったのは俺の方みてぇだ。忘れてくれ」
「違うよ。隼人は悪くなんてない」
「いいっていいって! んなことはさっさと忘れて、昼飯片付けちまおうぜ? ほら、俺の食ってるクリームパン食うか? 二つだけじゃ足りねぇだろ? 俺あめぇもん苦手だからよ、半分貰ってくれよ」
「え。そんな、別にいらないって」
「んなこと言うなよ! おめぇが食わなかったら捨てるしかなくなるじゃねぇか。食べ物は粗末にするもんじゃねぇぜ? ありがたく頂戴しとくのが正しい選択だ」
「ていうか、どうして甘党じゃないくせにクリームパン買ってるんだよ!」
「うまそうだと思ったからに決まってんじゃねぇか! 辛党でもよぉ、甘いもんがうまそうに見えることはあんだよ。嫌いなもんでも、それを心底幸せそうに食う奴を見てたら嫌いなはずなのにうまそうに見えるのと同じだ」
「そこまで理解してるなら、買う前に食べられないって気づいてよ」
「わりぃわりぃ。実はな、口に合わなかったら優にあげればいいかとか考えてたんだ。なんだ、おめぇも辛党だったのか、優?」
「そうじゃないけど、ただじゃないんだし、一方的に貰うのも悪いかなって」
「おいおい、そいつはもう真面目通り越して堅物だぜ? いいんだよ、こういういのは。相手の好意は素直に受け取るのがちょうどいいんだ。はいよ。嫌いじゃねぇんなら、さっさと食ってくれ。そろそろ昼休み終わっちまうぜ?」
「う、うん。じゃあ、ありがたく貰うよ」
「ああ。俺の分まで充分に味わってくれ」
食べかけのパンを包まれていた袋に戻し、無造作に僕の胸に投げつける。正確なコントロールで飛んできたそれを、僕は両手でキャッチした。
隼人から貰ったクリームパンは、ほどよい甘さで僕の味覚に合う味だった。
一旦パンに落としていた視線を対面の彼に戻すと、彼は僕ではなく、主がまだ存在している方の空席をジッと見つめていた。
目を細めて口元を僅かに歪める彼の表情は、そこにいない彼女に同情しているかのようだった。
邪推かもしれないけれど、それはつまり、たぶん、僕を非難していることと同義で……。
原因を作った僕を、軽蔑してるのかもしれない。
もしも本当にそうだとしたら…………。
無関係な人のことまで背負ってしまうと、耐え切れずに自分が壊れてしまうと隼人は言った。
けれど、僕の器量はそんなに大きくない。
関係のある人だけでも、僕には重すぎるんだ。
僕が背負えるのは、せいぜい僕自身だけ。
僕は僕のことで手一杯で、隼人に回せるだけの余裕がない。彼女にそうしてしまったように、彼とも同じような諍いを起こしてしまうかもしれない。
この胸に居座っている暗雲を、抑えられる自信がない。
杞憂であってほしいと願う未来への不安に怯えながら、平静を装うために手にしているパンを齧る。
さっきは甘いと感じたはずなのに、今度は微かな苦味が舌先から伝達されてきた。
昼休みのチャイムが鳴る直前、教室に戻ってきた姉は一直線に自席に移動して腰を下ろした。
確かな視線を感じてはいたけれど、僕から彼女の方を見たりはしなかった。
見てもいないのになぜか、彼女が悲しそうな表情をしているんじゃないかと、そんな憶測が頭の内側を駆け巡る。
僕は、そんな不確かな情報を、いつまで経っても拭い去ることができなかった。
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