第38話

 心の底に閉じ込めていた激情が一息に押し寄せてきて、僕は自身をコントロールすることも叶わず、姉への言葉に憎悪を込めてしまう。

 彼女に話しかける声に、純粋な怒気を含めてしまう。

 吐き出した嫌悪感は、自然と表情までも醜い感情に伝染させてしまう。

 僕は、瞼を歪めて姉を睨んでいた。


「家族を、大切なものを一度にたくさん失ったばかりなのに、それを忘れて穏やかに暮らせって、そんなの無理に決まってるじゃないか。僕は、昨晩からずっと我慢してきたんだ。不安から、逃れられない巨大すぎて太刀打ちできない恐怖から、逃げ出さずに心の奥に封じ込めていたんだ。それを表に出したって状況が変わるわけではないと思ったから。悟られないように隠していれば姉ちゃんを困らせることもなくて、冷静に解決への調査を進められるって思ってた。その結果が、心に秘めていた不安も、恐怖も、両親のことも妹のことも、全て忘れて暢気に暮らせだって? 言うのは簡単だけどさ、そんなのできるわけがないじゃないかッ! 僕にとって、母さん達がどれだけ大切だったか、姉ちゃんだって近くにいたんだから知ってるでしょッ!」

「とても良い人達で、自分達の子供を第一に考えられる理想的な両親だったわね。理奈も、先代が生み出した道具なんかではなくて、誰よりも清廉潔白な魂を持った少女だったわ。ちょっと子供すぎる言動も多少はあったけれど、妹としてはかわいいものだった」

「だったら、事実から目を逸らして悠然と生活するのは無理だって、それくらいわからない?」

「いいえ。それは違うわよ優くん。いなくなった人は戻らないのだから、あたし達は〝これから〟を見据えて行動しなくてはいけないの。まだ消えていない残っている人を、同じ目に遭わせないために」

「だからって、できる事とできない事くらい、判別できるでしょッ!」

「遂行には苦しさが追随するけれど、決して不可能ではないはずよ。できない事ではないわ」

「……姉ちゃんさ、さっきから『つらい』とか『苦しさ』とか言ってるけど、ちゃんと意味わかってる?」

「そのつもりよ」

「それこそが嘘なんじゃないの? 自分を除いた家族全員を消失したばかりなのに、平和で暮らせなんて、冗談でも口走れるはずがない」


 深く関係している人間と関係が絶たれるのは、一生残り続ける傷を負うようなもの。

 でもそれは、同時に親愛の証とも誇れる絆ともいえる。

 傷と共に、絆をも忘却すること。大切だった者達のことを忘れろと、姉はそう口にしている。

 長い時間が経過しているのなら、あるいは可能なのかもしれない。前を向くために必要なら、背後にある物を顧みないで進むこともできるかもしれない。

 だけど、昨日の今日では心の整理がつかないくらい、温かい情愛を知っている人間なら誰だってわかるはずだ。

 同じ家族なら、なおさらのはず。

 なのに遠慮もなく忘れてしまえと声にできてしまう姉は、共通の肉親を失くした悲しみを感じているようには到底見えない。僕の主張を、まるで他人事のような冷血さで聞いている。


 ――そうか……。


 ……そういえば、そうだった。

 姉だなんて呼んでいるけれど、彼女は実際にはそうじゃない。

 だって僕には、姉と呼べる存在なんて本当はいないのだから。


「姉ちゃんは、父さんや母さん、理奈を家族だと思ってなかったから、冷たいことを平気で提案できるんだね」

「そんなことないわ。あたしにとっても、彼女達は大切な人々だったわ」

「よくそんな冷静に……。姉ちゃんの言うとおり、僕の世界は破滅したよ。そう、壊れちゃったんだ。ひどいくらいに荒んでる。だから、わかるでしょ? 傷だらけの世界で、平和を身近に置いて穏やかに暮らすなんて無理だ。大切な日々を忘れるってことは、思い出にある最後の灯火も吹き消すってことだ。完全に殺してしまうってこと。他の誰も覚えていなかったとしても、僕だけは覚えていないといけないのに、僕自身の手でトドメを刺すということだ。よくも……よくもそんな提案を平然と口にできるね」

「そうしなければ悲劇は止められないのよ。普遍的な人々には成し遂げられない困難な行為なのだと理解しているわ。でも、十三月を終わらせるためには、あたし達は〝普通〟でいてはいけないのよ」

「僕は普通の人間だッ! それは、姉ちゃんだってよく知ってるでしょッ!」

「いいえ。先代は貴方を普通だと認知したのかもしれないけれど、あたしはそう思わない。優くんは、強い人間よ」

「強くなんかないッ! 姉ちゃんはいつもそうだ。そうやって、僕を強いことにしたがる。僕が強くないと、自分の使命である世界の救済が果たせないから? そんな自分勝手な理由で人を利用するのは、はっきり言って迷惑だッ!」

「優くん……」

「姉ちゃんは知ってるはずだッ! 僕が、僕一人を生かすことで精一杯の弱い人間だってことをッ! こんなの〝普通〟ですらない。平均以下の、どうしようもない男だ。価値がないんだよ、僕には。それなのに、僕の気持ちを無視して勝手に変な使命を押しつけられて……その果てに、意味のわからない理由で家族を失くした。殺されたんだ。この僕の悲しみを、本当の家族でもない姉ちゃんに理解できるのッ!?」

「っ……!」


 口を半開きにして、姉は言葉を失う。その様相は、冷静であるというよりは固まっているようだった。

 止めておけばいいのに、僕は彼女が黙り込んだにも関わらず、感情を制御しきれずに暴走を続けてしまう。


「昨日の夜は僕と同じように焦ってたくせに、一晩明けたら平気な顔で佇んでさ。なにそれ。家族を失ったのに、たった一晩で悲しみを捨てられるの? みんな姉ちゃんのことを大切に想ってた。傍から見たってはっきりわかったよ。そう思わされているだけかもしれないけど、そんな不確かな憶測なんて関係ない。母さんも父さんも理奈も、みんな姉ちゃんのことを大切に扱ってた。本物の優しさで、あたりまえの優しさをあたりまえに与えてくれていた」


 ――なんで、こんなこと。


 そんな怒ることでもないはずだ。だって姉ちゃんは、十三月に現れた存在しないはずの姉なのだから。僕と同じように悲しめないのは当然だ。

 姉ちゃんにとってみれば、僕や母さんや父さんの方が存在しないはずの家族なのだから。血縁でもなければたった数週間の付き合いしかない人間の死を悼む方がおかしい気もしている。

 こんな風に激情を吐露する行為がどこか的外れなのも、心のどこかでは理解している。

 八つ当たりと自覚していても抑えられないのは、僕が彼女に期待しすぎたからだ。

 僕が、彼女に多くの物を求めすぎたからだ。


「……僕は、姉ちゃんを桜庭家の一員だって思ってた。最初は違ったけど、いつの間にか姉ちゃんが僕の家に住んでる日常に違和感なんてものがなくなってた。一緒に出かけて、一緒の家に帰ってきて、一緒にご飯を食べて……姉ちゃんと共に暮らす日々が、僕にとってはあたりまえになっていたんだ」


 僕がそうだから、彼女もそう。

 そうであってほしいと……いや、きっとそうなのだと、僕は信じていた。

 信じたかった。

 それこそが、家族と呼べる関係だと考えていたから。


「どこからやってきたのか、いつやってきたのか。そんなのは大したことじゃない。自分にとって大切か、大切じゃないか。重要なのはその一点だけだ。僕はさ、冬休みのコンビニ強盗に遭遇した事件で知ったよ。自分が、なによりも自分を守ろうとしてしまう情けない奴だってことを。姉ちゃんが、緊迫した状況でも怖気づかない強い人だってことも。でもさ、他人を簡単に忘れられるっていうのが強い人だっていうなら、僕はそんな強さはいらないし、なりたくもない。僕は姉ちゃんに憧れてたのに、姉ちゃんがこんなに冷め切った温かみのない人間だなんて、知りたくもなかったよ」


 微動すらせず、瞬きもしない姉の顔を一点に見据えて、僕はいつまでも後悔を叫ぶ。

 期待なんてするべきではなかったんだ。


「……いや、本当は知っていたんだ。なのに、信じていなかった」


 忘れてはいけなかった。

 桜庭神奈と名づけられた少女が、どこから現れたのかを。

 桜庭神奈と呼ばれていた少女が、どのような素性だったのかを。

 『姉ちゃん』と慕っていた女性が、どういった立場にいたのかを。


「結局姉ちゃんは、僕達のことなんてどうでもよかったんだね。母さんも、父さんも、理奈も、それに僕だって、きっと姉ちゃんにとってはどうなろうと大した問題じゃないんだろうね。だって僕らは――」


 彼女もまた、世界の破滅を阻止するという最上級の役割を担った。

 僕には、神様に押しつけられた使命以外にも守りたい物がある。それは家族であったり、友人であったり、自分の命であったり、神様なんていう上位存在からすれば米粒ほどの価値もないゴミかもしれないけれど、僕にとっては必要不可欠な〝色彩〟なんだ。

 世界が救えても、救った世界に色がなければ、僕にとっては無価値なんだ。

 だから僕は悲しい。自分に課していた使命のいくつかを天災のような理不尽な理由で失ってしまったから、絶望を隠すことができない。

 けれど彼女は違う。

 彼女にとってみれば、世界の救済のみが〝0〟で、〝1〟でもあるんだ。

 彼女にはそれしかない。そのためだけに生まれてきた彼女には、世界の破滅を止める以外に興味がない。

 救った世界がどのように変わり果てていようと、そこに住まう人間でもない彼女には、まったくもって気にかける要素ではないんだ。

 僕と彼女は、こんなにも違う。

 こんなもの、家族でもなんでもない。

 友人だったとしても、もっと互いに寄り添って歩けるはずだ。

 こんな、相手の心情も察せられない関係は、もっとも位の低い間柄としか思えない。

 その間柄を、世間ではこう呼ぶんだ。


「――僕らは、ただの他人だから」

「……」


 ずっと瞳だけは決然と開いていた彼女が、僕の落胆した声を耳にして瞼を閉じる。

 その一言で諦めがついた僕は、ようやく気が済んで激情を治めることができた。

 不快感の混ざる高揚感が落ち着いてきて、目の前にいる少女の細かい表情が、さっきより鮮明に僕の瞳に映る。

 視界を閉ざした彼女は、抵抗せずに受け入れた僕の文句の数々を胸中で反芻しているように見えた。何かを反論するわけでもなく、目と口を外界と遮断して、枯れ果てた大木を背景に佇む。

 僕は、彼女と樹木が一体化しているように錯覚した。

 しかし、はっきりと生きている少女の唇だけは、小刻みに震えている。

 憤慨しているのだろうか。僕だって普段から暴言を吐いたりなんてしない。むしろ、人に嫌われるような発言は極力避けてきたつもりだ。それが可能だったのはもちろん、どんな言葉が他人を傷つけてしまうか知っていたからだ。

 正直、僕が熱くなって彼女に吐き出してしまった諸々の感情は、いくらなんでも度を越えていた。

 昨日立ち会った姉妹の諍いを見る限り、姉にだって激情を抱くことはあるはずだ。

 今のは、彼女が憤怒してもおかしくない一方的な暴力だった。

 自覚している。

 だけど、謝っては駄目だ。

 謝罪とは、発言を撤回するということ。

 僕の吐露した気持ちは嘘じゃないのだから、絶対に謝りたくはない。

 真っ向から考えを伝えたかったけれど、弱い僕は目を瞑る彼女から視線を逸らし、俯いたままで付け足す。


「怒ったっていいよ。ひどいことを言ってるって僕もわかってるから。でもさ、全部嘘じゃないんだよ。僕は、姉ちゃんが僕の本当の姉ちゃんだったら良かったって、それくらい想ってたんだ。勝手だよね。勝手に信じて、信じた通りじゃなかったから裏切られただなんて迷惑だろうね。だからさ、姉ちゃん。怒ってるなら隠さずにそう言ってよ」


 底のない白色の果てを見下ろしながら、弱々しく呟く。


「……いいえ」


 寸秒の間を置いて耳に届いた返答は、更に微弱な、周囲の色に消し去られそうな声だった。


「あたしは、怒ってなんかいないわよ」


 囁く言葉が途切れると同時に、下を向く僕の視界に色白な彼女の手のひらが映り込む。

 作り物のように異様なまでに綺麗な彼女の手が、僕はもう好きじゃなかった。

 だってそれは、やっぱり作り物だったから。

 僕は差し出された手に、差し出した人物の顔も見ずに自分の手を重ねる。

 触れ合うか触れ合わないかの、最低限度の接触。

 それでは足りなかったのか、彼女は僅かに指を曲げて僕の手の平を掴むと、その瞬間、僕と彼女の触れ合っている部分が純白に染まり始めた。

 霞んでいくふたつの手をぼんやりと眺める。

 これ以上は、何も考えない方がいい。それが自分のためだ。そう判断した僕は、見えなくなっていく彼女の手を、意思を殺して観察していた。


「――ごめんなさい」


 やがて何もかもが|純白の空間(サルベーション・サンクチュアリ)の一部と化す寸前、すぐ近くから幻聴と思しき小さな声を聞く。

 その声を、僕はどうしても許すことができなかった。

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