第37話
微かな風の吹く音すら響かない純白の世界は、音という概念も消え失せているかのように深閑としている。
空間の一部に取り込まれた僕もまた、希望を絶やした原因を前にして、落胆の声すら出せず佇むことしかできない。
静止した時間の支配する場所で、ただひとり姉だけが動物だった。彼女は黙したままで、樹木のある地点に歩み寄っていく。
蓄えられていた養分の全てを使い果たした、あるいは奪い取られてしまったように生命の感じられない樹木の弱々しい幹に、彼女の白い手が触れた。
「……枯れているわね」
老衰してやせ細った老婆を彷彿とさせる生気のない一本の樹木は、僕の目から見たって、どう前向きに捉えても否定ができない程に終わっていた。
……これは、衰退なんて易しい状態じゃない。
純白の空間に根を張っていた植物は、白色の闇の中で、死んでいた。
「なんで、こんなことに……」
「この樹木は、十三月を救済するために創られた現世では存在していない特別な植物よ。これに花を咲かせることが世界を救う結果に繋がり、その目的を達成するためにあたし達は純白の空間に足を踏み入れる権利を与えられているわ」
「枯れてしまった植物がもう一度花を咲かせることなんてあるの? 復活して、たった一回きりでもいいから、花を咲かせることなんてできるの?」
「現存する種の中にも、生命力がとても強く、枯れかけた状態から人の手を借りずに再生する植物がいくつかあるわ。でも、そんな知識は無関係でしょうね。現実ではどうなのかなんて、この世界では些末なことよ」
「どうして? これが植物だっていうなら、植物の常識が通用しなきゃおかしいじゃないか。こんな不思議な場所で咲いてるから、他とは無関係だってこと?」
「そうよ。何をきっかけに成長するか不明瞭なら、何かをきっかけに再生する可能性だってあるかもしれないわ」
「同じように、樹木は〝何か〟によって衰えて、気づかないうちに枯れてしまったんだね」
原因に見当がつかなければ、解決策も考えようがない。
後ろ向きな思考になっていて、僕は声にする必要のないことを口走っていた。
「いえ、老衰に関しては、なんとなく察しがついているわ」
「枯れた樹木を見たばかりなのに、もう察しがついたの?」
「ここへ来る前から、もしかしたら良くない容態に陥っているかもしれないと危惧していたのよ。もちろん、そこには明確な理由が伴っていたわ。結果として、樹木は予測したように深刻な状態に変貌していた。となれば、あたしの考えが正確だったかもしれないでしょう?」
姉は葉のない大木の天辺を見上げる。
僕は、無表情のままで自論を語る彼女だけを視界に映していた。
「花を咲かせた状態を救済とするのなら、対極にある今の容態の樹木は、示す意味もまた正反対なのだと思うわ。救いが理想なら、これは最も目的から乖離した状況よ。それはどこか、悪い意味で変わり始めた現実と似通っている。花を咲かせて救われるなら、木を枯らせば破滅する。ここにある〝無惨な枯れ木〟は、あたし達の住む世界の現状が反映されているのだと思うわ」
「冷静に言うけどさ、それって、つまり……」
「――けれど、それだと説明がつかないことがある。だって、見てごらんなさい。あたし達の住んでいる世界はまだ大きな変化を迎えていないのに、樹木は一見で再生が難しいとわかってしまうほどに衰えている。衰え方の具合に、明らかな差異があるのよ」
「……確かに、現実では僕の家族がいなくなっただけで、他の人は平然と日常を過ごしてる。今の段階では、破滅の兆候を見せているのは僕の周りだけだ」
「ええ、その通りよ。現世では何十億の人間がそれぞれの意思を持って生活をしていて、生きている。その中で十三月によって減ってしまったのは、たったの三人だけ。こんな蟻を一匹殺した程度の変化で、世界を表す樹木が衰えるはずがないわ」
自らの仮説を自ら論破する形で、姉は樹木の存在意義を世界とは無関係だと否定した。
それでも彼女は落ち着いている。きっと、正しいと自負する別の答えを用意しているのだろう。
僕には彼女の喋っている内容の辿り着く結論がわからない。
けれども伝えようとしていることだけは、なんとか察することができた。
「だけど、蟻が一匹死んだだけで、大きく変わってしまう世界がある」
「そうね。蟻にとってみれば、同胞を殺されたことになるものね。人間に置き換えれば、家族を殺されるようなもの。それが皆殺しではなく、一人だけ生き残ってしまったら、取り残された存在の人生は壊されたと表現できる。その存在にとっての|家族(せかい)が、破滅してしまったのだから」
「樹木がこんな風になってしまったのは僕の家族が消えてしまったからだって、姉ちゃんはそう言いたいの?」
「正確には、事象の結果ではなくて、優くんの心情の写し鏡なのだと思うわ」
「なんで僕なんだよ。僕だけのために、この木は存在してるって言うの?」
「ええ。優くんは選ばれたから、特別な扱いを受けてるのよ。先代の神様に、十三月に干渉できる唯一無二の存在として」
「姉ちゃんだって生み出されたじゃないか。だったら僕だけじゃなくて、姉ちゃんにも関与してなくちゃおかしくない? それじゃあ姉ちゃんは無関係みたいだ。僕のおまけみたいじゃないか」
「あたしは、後から用意されたに過ぎないわ。優くんが神様の目に留まって、何も知らない優くん一人では絶対的に目的は達成できないだろうから、あたしがサポート役として生み出された。優くんの言葉通り、あたしは『おまけ』みたいなものよ。実際にね」
「そんなの、あまりに勝手すぎる。僕の意志を無視して責任を押し付けてるじゃないか」
「でも、あたしがそれを許さない。優くん一人には、絶対に背負わせないわ」
見る者を安堵させる強い光を宿した瞳で、姉は僕を真正面から見つめる。凛とした眼差しに伴う彼女の言葉は、どこまでも綺麗だった。
その光は、心の荒んでいる僕には眩しすぎる。
逸らすこと自体が悪であるように思わせる視線から、僕は目を背けた。
「……それで、僕の心を写してるっていうのは、どういうこと?」
「難しいことではないわ。優くんが楽しければ樹木は成長して、悲しければ衰退する。それだけの話よ。思い返してみて、優くん。樹木が飛躍的に成長したとき、あなたは充実していると感じていなかったかしら?」
自分の抱いた気持ちに反応している、ということか。
十三月の始まりの日から、今日までの日々を思い出してみる。
初め、僕は見たこともない日付がカレンダーに現れて当惑した。直後に存在しないはずの姉に遭遇して、混乱は更にひどくなった。
しかし、姉と過ごした最初の一週間の生活は、かつてないほど充実していたような覚えがある。あまり思い出したくない事件もあったけれど、アレを差し引いても充分楽しかったと断言できる日々だった。
あのとき、樹木は〝小さな枯れ木〟から、〝立派な大木〟に成長を遂げた。
そして、冬休みが明けた三学期の初日。僕は、今度は存在しないはずの妹と出会った。
自分がどのようにして生まれたかを知らない彼女は、どこまでも純真無垢の天真爛漫な性格で、姉の時と同じように最初は戸惑ったけれども、いつの間にか本当の妹として扱っている自分がいた。
世界を救うために妹に嘘をついたりもしてしまったけれど、彼女のことがどうでもよかったわけじゃない。
使命に従わなければいけないと思う反面で、僕は妹を失いたくないとも思っていた。
姉がいて、妹がいて、隼人がいて……四人で過ごす時間は、忘れられない思い出として、大切にしたいと思ったから。
誰も欠けてほしくないって、無理だとしても、そうなればいいと願わずにはいられなかった。
僕の気持ちが嘘でない証拠に、〝立派な大木〟は〝紅葉した大木〟に変化した。
葉の色彩が変わる現象が意味する答えはわからない。しかし、樹木が僕の心情の変化によって姿を変えるのだとしたら、それは多分、僕がこれまでの人生で触れなかった気持ちを感じたからだ。
「――紅葉したのは、異なる種類の楽しさを体験したから……」
一緒にいると楽しい、という弱い感情ではなくて。
失いたくない、という強い感情を抱いたから。
自覚はしていなかったけれども、そんな大仰な考え方をできてしまったのは、世界の破滅なんていう現実味のない単語を聞き慣れてしまったからかもしれない。
大切なものを失う未来がある可能性を知ったから、失くすことが恐くなったのかもしれない。
それは、美しい心の在り方だったと思う。
けれども、そんな愚考をしてしまったために、〝紅葉した大木〟は〝無惨な枯れ木〟に変貌してしまった。
「――枯れてしまったのは、大切なものを失くしたから……」
彼女の話した推論は、今日までの時間に重ねてみると否定のしようがないくらいにぴったりと嵌ってしまった。
「じゃあ、前まで言ってた妹の願望を満たすとかっていうのは間違っていたんだね」
「そうなるわね。的外れな推量をしてしまってごめんなさい。ただ、今回の件もあたしの勝手な憶測だから、正しいと豪語できるほどの自信はないわ。でも、仮に今度の推論が正鵠を得ていれば、〝無惨な枯れ木〟を再生させる希望はまだ残っているはずよ」
「僕の心が、母さんや父さん、理奈を失った悲しみで沈んでいるから樹木が衰えてしまったとするのなら――」
「ええ」
「僕の心が、周囲の人々と過ごす毎日を楽しいと感じていたから、樹木が成長していたのだとしたら――」
「うん」
……。
……そんなこと……。
浮かび上がった隠し切れない本音は、意図せずとも自らの口から漏れていた。
「……そんなこと、どうやってやれって言うんだ」
「優くんの気持ちはわかっているつもりよ。でもね、もう猶予はほとんど残されていないわ。あたし達に残された時間は、今日を入れてもあと十一日。他に具体的な方策を思いつけないのなら、手当たりしだいやるしかないのよ。これ以上、犠牲者を増やさないために」
「……樹木を成長させるためには、僕が悲しみを抱えていてはいけない」
「負の感情が植物を殺すのなら、生かすのは正の感情。幸福に通ずる類のものでなければ、樹木は育めない」
「……やっぱり納得がいかない。本当にそうだとして、どうして先代の神様は僕なんかの感情に樹木を連動させたんだ? 神様の最終目的って、花を咲かせることでしょ? それってつまり、僕がこれ以上ないくらいの幸福を得るってことだよね。なんで僕が幸せになることで破滅が阻止される仕組みなんだよ。そんなのおかしいでしょ」
「あたしとしても、その点だけは不可解ではあるわ。妥当な理由を考えつくことはできても、それが正解なのか調べる術もないからね。それでも、あたしは今の状況から、この理論が最も真理に近いと思うのよ」
「僕は悲しんでいては駄目だって言うの?」
「つらいけれど、なんとか抑えてくれないかしら。そうすることが、最良の対抗策だと思うから」
「……ならさ、どうやったら楽しく生活できるのかも教えてよ」
「穏やかに、他の何も知らない人達と同じように、平和であった頃の日常を続けることで何気ない出来事に楽しさを感じられるはずよ。以前がそうであったように」
「………………なんだって?」
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