第36話
隼人との長電話によって新しく得られた情報を整理しつつ、僕はソファーに深く身体を預けて天井を呆然と見つめる。
想定していた通りの結果ではあったけれど、無関係なはずの彼から直接聞かされると、受けた衝撃は覚悟していたものよりずっと重かった。
これで、はっきりした。
「優くん」
書類置き場を漁っていた姉が床に膝をついた体勢から立ち上がり、椅子に座って呆けている僕を見下ろす。
彼女の手には、見覚えがあるような、ないような、A4サイズの一枚の紙がぶら下がっている。
「これ、見てくれるかしら」
近寄ってきながら、彼女は手にしている書類を差し出してきた。背もたれに預けていた上半身を起こし、片手を伸ばしてそれを受け取る。
視線を落としてみると、どうやらそれは公的機関が発行している申請書らしい。
書面の上部に明記されているであろう名称を読めば済むのに、思考する行為そのものが億劫になっていた僕は、それが何であるかを推察もせずに彼女に解答を求める。
「これ、なに?」
「見ての通り、役所に登録されている桜庭家の住民票の写しよ。断言まではできないけれど、おそらく、そこに書かれている情報が世間にとってのあたし達〝桜庭家〟の実態よ」
「これが、真実……? だけど、ここには何も書かれてないじゃないか」
大仰な説明をされて、ようやく渡された書類を読み始める。事前に聞かされたように、先頭に住民票という三文字が飾られていた。
中身を読むと、家族構成が書かれている欄があり、僕の名前と、そして姉ちゃんの名前が書かれている。二人の年齢も、抜かりなく実年齢と同じ数字が記載されている。
しかし、それだけだった。
その書類は、本来名前が書かれていなければならない箇所が二箇所、空白だった。
「僕と姉ちゃんの名前はちゃんとある。家族構成の序列でいえば、姉ちゃんが三番目、僕が四番目で、この書類にもその順番で並んでる」
「ええ、そうね」
「だけど、一番目と二番目の欄は何も書かれてない。ここには父さんと母さんの名前が入ってなくちゃおかしいのに」
「加えて言うと、五番目が空いているのも不自然かもしれないわ。そこには、〝桜庭理奈〟という文字が記されていてもおかしくないもの」
「なんだよこれ。こんなの不気味すぎるじゃないか」
両親の名前は抹消されているのに、続柄の欄には誤りなく〝本人〟と〝妻〟という短い文字が正確に記載されている。ただし、〝長女〟と〝長男〟の文字があれども、〝次女〟の単語だけは書面のどこにも見当たらない。
暖房が効いている室内で寒気に唇を震わせる僕は、否定のしようがない物的証拠から目を離せず、脳内がどこかの景色のごとく白く染められていく。
「優くん。隼人くんは、お母さんとお父さんの存在を知らなかったのよね?」
「うん。いないとおかしいのに、いると思えないって、そんな風に言ってた。よくわかったね。まだ一言も話してないのに」
「その住民票を見たら、大体の展開は想像できるわよ。どうやら、違和感すら伴わない完全な催眠にかかっているわけでもなさそうね。忘れているわけではなくて、彼の認識は正しいのでしょうから」
「僕達には親がいて、その親に育てられて生きてきた。その親の存在を僕達以外は知らず、最初からいなかったと認知している。親がいないのなら必然的に僕達は二人だけで生活してきたことになるんだろうけど、実際には違うから、そこに多くの矛盾が発生するってわけか」
「どちらかが正しいわけでもなく、どちらも正しいというのが厄介な要素ね。あたし達が現在立っている世界からは、あたし達に両親がいたという情報が抹消されている。しかし優くんが元いた時間では、当然ながら両親は健在だった。世界が変異したわけでもなく、情報の一部が改変されただけなのだから、噛み合わない点がいくつも生じているわ。それが矛盾となっているのでしょうね」
「これが破滅の始まりだとするなら、理奈が現れた時と同じように、十三月は次の段階に進んだってことになるのかな」
「存在しない妹が現れて消えたのなら、先代にとっては彼女は用済みになったのでしょうね。それがあたし達にとって都合の良い意味を示すのか、そうでないのか。確かめる方法は、一つしかないわ」
こんな、自分の家族を失う結果が、良い結果なわけがない。
否定のしようがない絶望を見せつけられて鬱屈とした心では、負に染まった感情でしか物事を考えられず、希望的な推測なんてできるはずもない。
どうせ真実を確かめてみたところで、この絶望がより深くなるだけだ。
「……そうだね。行ってみよう」
ろくな未来が待っていないと確信しているのに、僕は釘付けにされていた書類を机に置いて、代わりに姉に向かって片手を差し出す。
開いた手のひらに姉の手が重なり、作業的に二つの意思が繋がった。
部屋の掛け時計を見てみると、登校を始めなければならない時刻を過ぎていた。
その時計と、やけに寂しく感じられる幼い頃から見知った景色が色を失い、視界が白くぼやけていく。
僕は……。
僕は、とてつもなく弱い。
目の前に突きつけられている現実なのに、それが受け入れたくないものだから、頭で理解しても心が拒絶する。
無駄だと諦めているはずなのに、どこかに救いがあるはずだと、目を背けて逃げ道を探してしまう。
思えば、十三月に巻き込まれた日から、僕は逃げ続けていたんだ。
カレンダーがおかしかったり、ありえない事象を目の当たりにしたり、夢や幻では説明がつかない証拠を見せられたのに、事態を深刻に捉えることができていなかった。
わけもわからず得られた成果に安堵して、女の子と一日遊ぶだけで世界を救えると疑わなかったり、世界の破滅なんて究極の絶望を、そんなふざけた覚悟で打ち消せるはずなんてなかったのに、一片たりとも疑っていなかった。
逃げ続けていたから、全ての終わりを真剣に考えずにいられた。
使命を背負っていたのが僕ひとりではなかったから、任せればいいと堕落していた。
もうひとりの仲間がこのうえなく優秀だったから、僕は何もしなくてもいいと、他人事のように楽観視していた。
姉がなんとかしてくれるのだと、僕は彼女に逃げていた。
信じていたから、信じることで盲目的になっていたから、僕は忘れていたんだ。
彼女は……。
いつの間にか世界は完全に白く塗りつぶされて、何度目かも覚えていないほどに訪れた異世界に移り変わっていた。
繋がれていた手を離そうとする。彼女は抵抗もせず、僕の意志を許諾する。
この空間にくると、必ず僕は樹木を背にしているようだ。今回も例に漏れず、初めに映るのは永遠に続いているであろう果てのない白色の景色のみ。
振り返れば、そこには破滅の救済までの進捗具合を示唆する樹木が植えてある。
現実に起こったことを鑑みれば、成長している可能性なんてのは皆無だろうと、冷め切った頭が断言する。
それでも僕の甘い心は、ほんの一握りだとしても、淡く愚かで儚い幸福を求めてしまう。
軽く握っただけで跡形もなく霧散しそうな希望を抱いたまま、僕は努めて期待していないていを装って、背後を振り向いた。
そうして、心は強い力で握りつぶされた。
僕が振り仰いだ先にあったのは、新緑でも紅いわけでもなく、灰色に近い薄茶色の骨組みだけの、一切の葉を伴わない〝無惨な枯れ木〟だった。
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