第35話
「訊きにくいのなら、あたしから電話をかけるわよ?」
顔色を見て、彼と話すことを僕が敬遠していると察したのか、姉は平然とそんな提案を持ちかける。
姉の察知した心情は実際にその通りだったけれど、話しにくいからという理由で隼人から逃げる行為は、どこか卑怯な気がしてもっと嫌だった。
「……いや、いいよ。昨日の一件があるから気まずいといえば気まずいんだけど、それは自分が撒いた種だから。僕が電話で直接訊いてみる」
「でも優くんが電話を切った後、彼からは一度も電話がかかってきてないのでしょう? それって杞憂じゃないかしら? 彼の方は、昨日の電話をそれほど気に留めていないのかもしれないわよ?」
「どうだろう。気にはなったけど、僕の態度に異変を感じて、自分から連絡するのを止めただけかもしれない。下手に質問攻めをすれば、僕が余計に混乱してしまうだろうと危惧してさ。隼人って、何も考えていないようで色々と気を遣ってくれるタイプの人間だからね。特に、自分の周りの人には。もちろん、本当に気にしていない可能性もあり得るけど」
「桐生くんの性格なら、向こうから直接助けを求めてくるまでは、余計な口出しをせずに見守ろうとするかもしれないわね」
「だから、ここは僕が電話で訊いてみるよ。ついでに昨日の件の弁解もしなくちゃいけないし」
「〝りな〟のことを教えてあげるつもりかしら? 残念だけれど、彼からしてみれば桜庭理奈と呼んでいた女の子は忘れた存在ではなく、最初から存在していなかったことになっているはずよ。解説したところで、それが自分のことだとは捉えられないわ」
「そこまで伝えるつもりはないよ。僕の家に泊まりにきていた女の子がいて、その子の行方がわからなくなったから焦って隼人の携帯電話にも連絡をいれてしまったんだって、そう説明するつもりだよ」
「それが正しい判断だと思うわ」
「隼人に嘘をつくのは心苦しいけど、こうするしかないんだ。異常に巻き込まれたのは僕と姉ちゃんだけで、彼らは今この時間も世界は正常だと信じてる。僕達の不安を押しつけるわけにはいかないよ」
姉に自分の考えを伝えながら、手にした携帯電話の電話帳を開いた。〝隼人〟の二文字を選択して通話ボタンを押す。
耳に当てた電話のスピーカーから、相手の呼び出し中である状態を示す効果音が響き始める。
二週目、三週目、四週目……単調な呼び出し音の繰り返しは、相手が通話に応じないために五週目へ突入する。
――もしかすると、まさか、隼人も――?
明らかに早計な憂慮は、こうして電話をかけられている事実が否定してくれた。
登録されている彼の番号にかけられているのなら、少なくとも彼の携帯電話は喪失していないという証拠だ。
――いや、電話帳に登録されているのは番号だけで、それが今も彼の連絡先であるとは限らない。
もっと現状を把握して、早とちりせずに学校で彼が健在であることを確認した後で、面と向かって質問するべきだったかもしれない。
見ず知らずの人に迷惑をかけていると思って呼び出しを中止しようとした時、眠そうな声がスピーカーから流れてきた。
「……おい優、俺は、おめぇにモーニングコールなんざ頼んだ覚えはねぇぞ。いま何時だと思ってやがる。まだ俺が家を出る時間まで三十分もある。友人に対するお茶目な悪戯だってんなら、悪いが別のやり方を考えてくれ。俺は、家で寝てる時間だけは誰にも邪魔されたくねぇんだ。言わなかったか?」
「あ、えーと……」
「あぁ? 言ってなかったか? 起きたばっかだからよくわかんねぇが、そういえば言ってなかったかもしれねぇな。んじゃあ、ここで教えとくぜ。俺は眠りを妨げる行為だけは誰にも許していねぇ。いいか? 用件がそれだけなら、俺はもう少し寝るぜ。それじゃあな」
「――待って! なんでそんな普通なのさ? いや、普通じゃないような気もするけど、なんか、こう、訊きたいこととかないの?」
「『訊きたい』って、俺が、優にか?」
「え? う、うん……」
「別になんもねぇよ。ひょっとして、昨日の晩に電話で話したことを言ってんのか? あの件ならもう自己解決したからいいぜ。〝りな〟っつーのは、優の親戚か誰かなんだろ? でねぇとおかしいもんな。恋人だってんなら、神奈ねぇさんが黙っちゃいねぇだろ。で、その〝りな〟ちゃんは見つかったのか? 迷子にでもなってたから捜してたんだろ?」
「あ、その……まぁ、その通り、かな」
「んだよ、歯切れがわりぃな。おめぇも寝起きか? 自分の睡眠時間削ってまで俺に悪戯するなんざ、新しい趣味にでも目覚めたのかもしれねぇが、そんなつまんねぇことするくれぇなら寝てた方がマシだと思うぜ」
「ま、まぁ、そうかもしれないね」
「ああ。そんじゃ今度こそ寝るぜ? また後で――」
「ま、待って!」
勘が鋭いのか偶然なのか、僕が口にしようとしていた嘘を先読みして眠りにつこうとする彼を、僕は再び呼び止める。
正直に不機嫌である感情を表しながらも、彼は通話を切らずに応じてくれた。
「なんだ、まだ用があんのか。んなもん、一時間後には学校で会えるんだから、こんな朝っぱらから電話で訊かなくたっていいじゃねぇかよ。なんだ? おめぇ今日学校サボるのか?」
「いや、いまのところ、そのつもりはないよ」
「おいおい、クソ真面目な優の口から、そんな言葉が出るたぁな。具合でもわりぃんなら無理して来る必要なんてねぇぜ。一日や二日休んだって、悪い影響なんざねぇだろうからな」
「体調が悪いわけじゃないんだ。学校には、たぶん行くと思うよ」
「だってんなら、いったい俺に今すぐ話したいことってなんなんだ? 本題を早く言ってくれよな」
「うん。僕が隼人に電話したのは、こっちの件が本命だったりするんだけど――」
鬼が出るか仏が出るか。この返答だけは、彼の口から語られるまでまったく予測ができない。
そもそも仏なんて存在が、終焉を迎え入れようとしている世界に姿を残しているのだろうか、僕にとってはそれが疑問だった。
彼に本題を持ちかけようと決意を固めた時、何かを思いついた表情の姉が、居間にあるテレビ台の下の小さな引き出しを開けて、納められている書類の山を漁りだす。
どんな目的で何の書類を探しているか気になるけれど、まずは彼から情報を聴取するのが最優先事項と自らに言い聞かせて、頭を元の思考に切り替えた。
「変なことを訊いてたら申し訳ないんだけど、僕ってさ、隼人に高校に入るまでの人生を喋ったことって、過去に一回でもあったっけ?」
「優の身の上話か? じっくり細かいとこまで聞いた記憶はねぇけど、何度か昔のことを教えあったような気がするが……つーか、大事な話ってのはソレか? そいつがこんな朝っぱらから訊かなきゃならねぇほど、そんなに重要なのかよ?」
「意味わかんないと思われても仕方ないんだけど、そうなるね。僕も自分がどこまで話したのか覚えてないんだけど、僕がどうやって育ってきたかっていうのは知ってる?」
「ああ。そいつは教えてもらった記憶が残ってんな。神奈ねぇさんと二人で小さい頃から育ってきたんだろ? 苦労してきたんだよな。子供二人で生活を続けるなんざ、俺にだって大変なのは想像がつく。そんで、確かアレだよな。どうしても大人の力が必要な時になったら、隣に住んでる一人暮らしの婆さんが手を貸してくれたんだったよな。他にも近所に住んでる人達が普段から気にかけてくれたから、大きな問題にも直面せずに成長できたとか、そんな風に語ってくれたんじゃなかったか? 世間じゃ現代は人が冷たいだなんて息巻く連中も大勢いるが、ったく、捨てたもんじゃねぇよな、この世の中も」
「隣のおばあさんって、渡辺さんのこと?」
「名前までは覚えちゃいねぇが、隣に住んでる一人暮らしの婆さんなんざ複数いるとは思えねぇから、その人で合ってんじゃねぇか」
その通りだ。特段独り身の老人が多い住宅街でもないので、彼の説明だけで人物は特定できた。
僕の家の隣にある、古いけれど同じくらい大きな一軒屋の玄関横の表札には、〝渡辺〟という二文字が記載されている。
けれども正しいのはそれだけで、他は事実無根の虚言だ。
隼人は僕達が渡辺さんに助けられて育ったと言うが、僕はそもそも件の老人と言葉を交わしたことさえ殆どない。隣で一人暮らしの老人が生活していると知っているのは、両親が教えてくれたからだ。
嘘を話しているが、隼人に悪意はないのだろう。
だから僕は、その矛盾を指摘せずに見逃すしかない。
「つーか、なんで近所の婆さんの名前を俺に確認するんだ? んなもんおめぇが知ってるはずだろうが。たくさん世話になったんだろ?」
「いやまぁ、それは、どこまで教えたのか忘れちゃったから、なんとなく確かめたかったんだよ」
「なんだそりゃ。近所に住んでる婆さんの情報を知られちゃまずいのか? 何者だよ、その渡辺さんっつーのはよ。元エージェントかテロリストか何かか? だとしたらそいつはヤベェかもしれねぇが」
「普通のおばあさんだよ。僕が知る限りではね」
「……なんか優、おめぇ変だぜ。よくわかんねぇが、俺の感性がそう訴えてる。いつも通りのおめぇなら、今のやりとりでは別の言葉を返してくるはずだってな。やっぱ調子がわりぃんじゃねぇか?」
「……大丈夫。それより、最後にもう一つ確認させて」
「まだあんのか。別にいいけどよ」
「僕の両親のことなんだけど」
「ああ。おめぇの親父とおふくろがどうかしたんか?」
「違うんだよ。僕が確かめたいのは、言葉の通り僕の両親に関する全ての事柄なんだ」
「はぁ? すまねぇが、おめぇの言ってる意味がわからん」
「僕の両親について、隼人は覚えてることがある? どんなに些細な情報でもいいんだ。たとえば、顔が歳の割りに若々しいとか、料理がうまいとか、出張であまり家にいないとか、面倒見がいいとか。なにかひとつでいいんだ。知ってるなら、僕に教えてほしい」
「んなこと急に言われたってなぁ、俺はおめぇの親父ともおふくろとも挨拶したことすらねぇんだぜ?」
小さな端末から聞こえてくる声は、僕と相違のない事実を指摘する。
思えば、隼人が僕の両親に会ったことはこれまでに一度だってなかった。それは特異な世界がもたらした改変などでなく、偽りのない真実の記憶だ。
あまりに追い詰められて最も重要な点を見落としていたようだ。これでは、肝心の両親に関する情報なんて得られるはずもない。
またもや無駄な電話に応対させてしまったことを詫びて通話を切ろうとした時、彼の声が予想外の答えを捻り出した。
「つーわけでよ、俺がおめぇの両親について分かってることなんてのは、そいつがおめぇを生んで〝優〟っつー名前を付けたくれぇ――」
電話の奥から響く声が、唐突に言葉を切って息を呑む。
意気揚々と質問の答えを伝えていた彼が、今度は自信を喪失した声色で訝しげに訊いてきた。
「優、おめぇはどうやって生まれたんだ? 誰がおめぇに〝優〟っつー名前を付けたんだ? おめぇには両親がいねぇはずだ。――ちげぇな。だとするとおめぇの住んでる家は誰が建てたんだ? おめぇは自我が芽生えるまで、どうやって過ごしてきたんだ? ……わかんねぇ。なんだこいつはよぉ。おめぇが生きている以上、おめぇを生んだ母親と、その母親の相手がいるはずなのに、どういうわけか俺はそいつらが実在したと思えねぇ」
「隼人……」
「なぁ優。おめぇの両親がどうなったかなんざ聞かねぇからよぉ、ひとつだけ教えてくれよ」
沈んだトーンのまま、質問をされている側であることも忘れて彼は問う。
「おめぇにも、両親って呼べる存在がいたんだよな?」
常識で考えれば、生き物であるならばきっと誰もが理解している道理。
けれど〝当然〟が欠落した世界で、彼は真面目にそんな当たり前を確認してきた。
だから僕もまた、親友と呼んでもいい彼に向けて、真摯に答える。
「そんなの、当たり前じゃないか」
「……だよなぁ。ったく、朝っぱらから何言ってんだか。ただでさえ不出来な頭のくせに、朝方はそいつがより悪化するのかもしれねぇな。混乱させて悪かった」
「別に混乱なんかしてないから大丈夫だよ。それより、色々教えてもらって助かったよ。僕の用件はそれだけだから。二度寝するのもいいけど、遅刻はしないようにね」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
最後にひとつだけ親友に嘘をつき、僕は携帯電話を耳から離す。
「眠気なんざ吹っ飛んじまったよ」
その一言が終わると同時に通信の切断音が流れて、画面が通話終了を示す状態に遷移した。
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