第34話
味の分からないコンビニの菓子パンを作業的に食した僕は、食卓の姉と対面する位置に座っている。テレビは付いているけども、それは情報を集めるためではなく、住人が減ってしまった寂しさを紛らわすための姉の計らいらしかった。その証拠に、姉は食事中も含めて画面には一瞥もくれていない。
音もなくコーヒーカップを口元に近づけると、苦い液を一口含んで、落ち着いた所作で机に戻した。受け皿なんて洒落た物は、この家には置いていない。
「――さて、まだ時間もあることだし、ひとまず現状の整理をしましょうか」
「……なんだ。ちゃんと覚えていたんだね。すごく落ち着いてるから、てっきり姉ちゃんにも異変が起きたのかと思ったよ」
「心配しなくても、あたしはあたしよ。これは憶測になるけれど、先代はあたしと優くんには干渉するつもりはないと思うわ」
「〝できない〟じゃなくて〝しない〟?」
「ええ。あたしの生みの親である以上、あたしに干渉できないはずがない。優くんに至っては、お母さんやお父さんと同じ普通の人間なんだから、意のままにできない理由がないわ。あたし達には、先代がその気になればいかようにも干渉できた。記憶を操ったり、感性を再構築したり、運動能力だとかは人物に固執するから難しいでしょうけれど、知能に関わる部分なら好き勝手に操作できたはずよ。それをしなかったのは、あたし達には別の役割を与えたからだと思うわ」
「記憶の操作は、これまでのことからも可能であることはわかるよ。でも、今回の一件は――母さんと理奈、そしておそらく父さんにも起きた現象は、個人の脳内に保存された情報の操作だけじゃ不可能だ」
「ええ。でもね、あの存在が神様と呼ばれるのは、人間なんてちっぽけな生き物だけじゃなくて、それらの上位にある生命体をも意のままにできるからなのよ。その生命体は、言うまでもなく世界そのもの。でなければ、世界の破滅なんて所業を成しえるはずもないでしょう? あたし、今回の件で確信したわ。先代の目論んだ世界の破滅が、〝どのような状態〟を指した言葉なのかを」
「単純に、この世界の全てを無くしてしまうことじゃないの?」
「最初はそう捉えていたわ。けれど、この世界が過去に何度か滅びかけた時、それは何を指してそう呼ばれたかしら? 地球上で生命活動を営む人類が滅亡することか。それとも、地球自体が消滅してしまうことか。答えはもちろん前者よ。何故なら、この世界で最も優れた生命体である人類が消えることは、もはや世界の破滅と同義であるからね」
「……言われてみると、人類の滅亡と世界の滅亡は、史実にある同じ事象に対して使われていた気がする。――――そうか」
いつの間に考えをまとめたのかは知らないけれど、姉の推論をそこまで聴いて、彼女の達した結論に察しがついた。
「ただ、これも十三月の解決方法と同じく、憶測の範疇にある仮説よ。本当に二人がいなくなったのかも、まだ断言できる状態ではないわ。でも、二人を〝最初からいなかった物〟として消すことは可能なのよ。だって、あたしや理奈を〝最初からいた物〟にできたのだから、その逆を行えるのは道理でしょう? 世界に記憶された情報を意のままに書き換えられる神様は、その記憶に新たな人物を追記することも、その記憶から特定の人物に関する情報の一切を消し去ることもできるわ。そして、世界に記憶された過去から現在、未来に至るまでの人類の情報を抹消すること、それこそが、おそらくは先代の目論む世界の破滅の真実なのだと、あたしはそう解釈したわ」
あまりに壮大すぎる理論であるけれど、それは偽りのない真実で、先代の神様の思惑を代弁しているかのように納得できる説明だった。僕にもわかるように柔らかい言葉で説いてくれたことも、そう思わせた一端を担っているのだろう。
あまりに真理に近いと思わせる彼女の考えは、けれども同時に、僕の心を刺激した。
僕は、こうして彼女と喋ることによって平静を保っているに過ぎない。
本当は、何かを考えたい気分ではなかった。彼女の話に耳を傾けてはいるけれど、与えられた情報を正確に整理できているか自信はない。
いつそうなったのかは知る由もない。
しかし、少なくとも昨日の昼頃までは確かに居た人物が――家族が、揃って忽然と姿を消したんだ。
単純にどこかへ行ったわけじゃない。
両親の部屋は誰の物でもない物置に変貌し、二人の使っていた食器類や所有していた私物も、家から完全に消え去った。
姉の部屋の間取りは十三月当初の状態に戻り、休息を取っていた二段ベッドも淡紅色を基調としたシングルベッドに変わっていた。
この家にはもう、どこにも両親と妹が生活を営んでいた形跡が残っていない。
ありえない事象だ。これまでの現象なんて比じゃない。最も身近な所で起きた異常は、特殊な時間を三週間生活して慣れていた僕ですらも容易く混乱させた。
大切な家族を同時に何人も失って、平気なはずがない。
ただ、僕が彼女の語った内容から受けた衝撃は、真理に迫る推論ではなく、そこまで冷静に物事を整理して考えることのできた彼女の心境に対しての方が強かった。
彼女だって、家族同然だった人物を失っているんだ。なのに、どうしてこうも普段通りでいられるんだ?
心中で自分に問いかける。本人に訊く気にはなれない疑問には、自分自身で答えを用意した。
――そういえば、彼女も神様なんだった。
神様を人間の上位に君臨する存在とするならば、彼女らにとっての人類とは家畜のようなものだろう。
〝いなくなった〟事実は認められるけれども、そこに言葉以上の意味はない。だからこんな風に普段通りでいられるんだ。
昨晩焦っていたのは、大切な人の身に何かが起きて心配したのではなく、単に想定外の事態が起きたからだったのだろう。
――なんだ。そういうことか。
明確な理由はわからないけれど、彼女がそう考えたであろうことに落胆した。
僕は、彼女に何を求めていたのだろう。
彼女が自分とは違う存在であることなんて、出会った時から知っていたはずなのに。
「……だけど、それだと矛盾が発生するんじゃないかな」
長いこと沈黙している間、姉は特に意見を求めたりはせず、目を閉じてコーヒーを音もなく啜っていた。
自身の理論にある矛盾を、話を理解した僕に指摘されることを待つように。
彼女の望み通り、僕はそれを口にする。
心に穿たれた穴の存在を彼女に悟らせないよう、細心の注意を払った。
「そうね。存在の一切を抹消すれば、初めから生まれなかったことになる。でも、そうであれば、そもそもあたし達のいるこの家が残っているのはおかしい。誰が建てた物なのか、誰も知らないのでしょうからね。しかし、この家が無くなるのはそれはそれで矛盾なのよ。あたし達が育ったのは、他でもなくこの家だからね」
「その辺の事実を調べる方法はあるのかな」
「あるとすれば、あたし達の家族について知っている人物に確認するくらいではないかしら。たとえば、桐生くんとか。彼には昨日も電話したと思うけれど、その時には訊いていないのよね?」
「……あの時は、そんな冷静な状態じゃなかったから。妹の行方を訊いて、その答えを教えてもらうだけで精一杯だったんだ」
連絡する手段もなく、本人がどこにいるのかも、どこかにいるのかも分からなかった僕は、妹の所在について知らないか隼人に一度だけ電話をかけた。その時はバイト中で繋がらなかったけれど、十時頃になってから、着信履歴を見た隼人が折り返してくれた。
『いまバイトが終わったんだが、こんな夜中に何か用か?』
何気ない口調でそう訊いてきた彼に、僕は縋るように、それでいて自分の聞きたくない答えを恐れながら、ゆっくりと質問した。
『あのさ、理奈がどこにいったか知らない?』
『……ん? すまん、よく聞き取れなかった。もう一回言ってくれ』
『いや、だから、理奈の姿を見てないかって訊いたんだよ。まだ家に帰ってきてないんだ』
現状の説明も付け足した僕の質問には、回答までに間があった。
ややあって、申し訳なさそうな声色で電話越しの男が答える。
『悪い、優。訊く相手を間違えてんじゃねぇか? 俺は〝りな〟なんて子、知らないぜ? つーかおめぇ、いつの間にそんな子と同棲してたんだ。神奈ねぇさんは許可してんのか? 〝りな〟っつーくらいだから、女の子なんだろ、それ。俺としては、あの神奈ねぇさんがそんな行為を許すたぁ思えねぇんだがな。なぁ、聞いてんのか、優。ん? この電話が壊れてんのか……?』
事前に彼の認識が変化している可能性を覚悟していなければ、間髪いれずに率直に聞き返していたであろう彼の回答を、僕は一度で受け入れた。
彼が既に忘却しているのは、充分に考えられることだったから。
『……ごめん隼人、いまの話、忘れて』
『ああん? そいつはいったいどういう――』
現実を分かってはいても、抵抗なしに受け入れられるわけじゃない。
自分の恋人か家族のように親しかった〝りな〟を完全に忘れている隼人の認識と、僕の知っている彼と理奈の関係には、隔絶されて紡ぎきれない溝が生まれてしまっていた。
その温度差に耐え切れなくて、僕は問い質す彼の声に聴こえないふりをして、相手には意味の伝わらない一方的な謝罪と同時に電話を切った。
それが、昨晩の彼との通話内容だった。
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