第33話

 台所から、まな板の上で食材を切る音が響いている。規則正しく、滑らかに。奏でる音を耳にするだけで、その人物が料理という行為に長けていると判断できる音色だ。

 食卓の椅子に座っている僕は、母親が朝食を作る音と一緒に、居間のテレビから流れている音声にも耳を傾けていた。生活音とニュースキャスターの声を混ぜながら、ぼんやりと映像に目を向ける。

 テレビでは、遠くにある県のコンビニで起きた強盗事件を報道していた。大して凶悪な事件でもなければ、規模も極めて小さい。しかし他に伝えるほどの事件も起きていないのだろう。店員は無傷で犯人も逮捕済みである強盗未遂事件を流す様子は、この国がいかに平和な状態にあるかを雄弁に語っていた。

 四人掛けテーブルの対角には、両手いっぱいに広げた新聞紙で顔を隠している父親がいる。


「おにいちゃん、なにしてるの~?」


 父親の隣に腰かけている妹が、ぱっちりとした丸い瞳を不思議そうに向けている。僕の対面に座る彼女は、テレビでもなく新聞でもなく、机に両肘をつけて、両手の手のひらで作った器に顎をのせて僕を眺めている。


 ――別に、なにもしていないよ。テレビを観てただけ。


 そう答えたつもりだったけれど、返答は音にならなかった。それが当然であるかのように、僕は自分が喋れない事実に対して驚いたりはしない。

 隣の台所からは、母親が朝食を用意している音が聞こえる。テーブルには、僕に話しかけずに黙々と新聞紙を機械的にめくる父親の姿。二人とも、椅子に座っている僕の位置からは顔を見ることができない。

 顔が見えるのは、正面にいる妹だけだ。

 母がいて、父がいて、妹がいる。

 僕の家族は、食卓のテーブルが四人掛けである事実が示す通り、総勢四人の家族構成だ。

 父親が出張で家を留守にしている期間を除けば、僕達四人はこうして毎朝一緒に朝食を摂ることが暗黙のルールになっている。

 それはずっと幼い頃から守ってきた家族の時間で、当たり前となった事柄のひとつだ。

 だから、今更そこに違和感を抱くことなんて、あるはずもなかった。

 ……いや、違う。

 唐突に、目に映る風景が極限までリアルに描かれた絵画のように見えた。

 いくら丁寧に完璧に模していたとしても、インクと筆で作られているのなら、それは現実ではなく偽物だ。

 人間の命は、そんな作り物で代用できるような軽い物じゃない。これが偽りであるならば、それは価値のない幻想だ。

 そして、この絵が嘘である証拠に、一つだけ現実と矛盾している点がある。


 ――妹がいるなら、姉がいなくちゃおかしい。

 ――そこは、姉ちゃんの席だ。


 依然として声を発することは叶わない。口元から音を出している感覚もなければ、自分の音を耳で捉えることもできない。

 妹は相変わらず微笑みながら僕を観察している。僕に明らかな異常が起きているのに、父さんも母さんも行動に変化がなければ口を挟もうともしない。


 ――姉ちゃんはどこにいったの?


 僕は誰に訊くわけでもなく、ただその質問を誰かに投げかけた。

 その途端、視界に存在するあらゆるものが歪み始める。

 白色の壁面が、夏の日差しで急激に解けていくアイスクリームのように爛れ出す。食卓のテーブルが四隅から順に茶色の液体に溶解していく。テレビも両端から輪郭が捻れていくが、どうみても中の配線がショートしているにも関わらず映像は途絶えない。結果として、放映していたニュース番組のキャスターやリポーターの肉体も、テレビ本体の歪みに合わせて人間としてあるべき姿を失っていく。

 視聴していたのは変哲もない朝のニュース番組だったけれど、あらゆる固体が液体に融解していく世界で平然と地元の名産を紹介する様相は、下手なホラー映画の演出よりも格段に僕を恐怖させた。

 それだけなら、まだよかった。

 見なければいいのに、僕は無意識の内に食卓に座る父親に目を向ける。


 ――ひっ。


 反射的にあげた悲鳴も、声として僕の口から外に漏れることもない。

 所々が穴だらけになった新聞紙を掲げながら、頬肉と眼窩付近の肉が溶け落ちて、もはや父親であった面影が残っていない怪物が、読み取れない文字で書かれた記事を淡々と読みすすめている。その瞬間にも、父親だった物の身体の一部が液化して、床に滴る音を響かせる。

 咄嗟に僕は立ち上がる。

 そこから台所を覗いて見れば、母親の姿がどこにも見当たらなかった。

 トントントンという、規則正しく食材を切る音だけが続いている。

 姿がないのに何故そんな音が聞こえるのかと視線を巡らしていると、その正体はすぐに判明した。

 主の肉体から切り離された両手が、食材の置かれていないまな板の上で包丁を動かしていた。片方は猫の手を作り、片方は包丁を握り、あたかもそこに食材があるかのように、永遠に続くと思わせる機械的な動作で包丁を板に〝叩きつけている〟。


「おにいちゃん――」


 背後から自分を呼ぶ声に振り向くと、あらゆる色彩を乱暴に混ぜてかき回した。異様という言葉ですら生易しい景色を背景に、ただひとり正しい姿を保っている妹が僕を楽しそうに見据えている。

 もう僕は、心の中でさえも言葉を発することができなかった。


「――を助けてあげて」


 前半部分が聞き取れなかった一言を残し、彼女は僕に背を向ける。

 声をかけられないのなら、せめて手を伸ばして彼女を引きとめようと思った。

 僕は片手を前に出して彼女に触れようとしたけれど、身体が動いた感触がない。

 思考が真っ白になる。

 一切の機能を停止しかけている僕の視線は、自制も効かず、緩慢に床に落ちていく。

 移り変わっていく景色が、固唾を呑んで硬直する僕の足元で停止する。

 そこでは――。


 ――言うまでもなく、


 僕の四肢と下半身が、周囲の混沌の渦と同化していた。

 


「――ッ!!!!!!」


 混沌に飲み込まれかけていた僕の意識は、完全に身体を食われてしまう前に覚醒した。

 どうやら仰向けに寝ているらしい僕の背中には、柔らかいクッションの感覚。使い古して、少しばかり劣化してしまったけれど、充分に身体を休められる寝具の感触がある。


「……ああ」


 こちらの世界では、変わりなく声を出すことができるようだ。その証拠が、直前まで体験していた映像の正体を裏付ける。


「夢……」


 ありえない時間の、ありえない日常。

 そして、ありえない現象。

 夢の中の世界では理屈の通用しない出来事がいくつも起きていた。現実ならば、天地が逆転でもしなければ起きないような、異次元の事象。逆に考えてみれば、夢で体験した出来事が起きない世界を現実と定義できるのだろう。

 それなら、ここは現実とは呼べるはずもない。

 布団から起き上がり、自室の壁にかけられたカレンダーを確認する。


「十三月、二十日……」


 この日めくりカレンダーを更新するのは起床してからなので、これは昨日の日付だ。

 常識の時間軸から外れてしまった僕の住む世界は、僕の脳が作り出した空想世界で起きた地獄が絶対的に起きないとは断言できない。

 十三月という季節の訪れは、空と海が逆転する事象と同じほど、かつての僕の常識ではあり得ないことだから。

 異常な時間に侵食されて、今日で二十一日目。全ての終わりまでに与えられた猶予も、焦らずにはいられない程に迫ってきている。

 ただでさえ見えない何かに狙われているような気味悪さを抱えているのに、焦燥する僕達を追い討ちするかのように、受け入れがたい現実を更に突きつけられた。


「……姉ちゃん」


 僕は残っている唯一の家族の呼び名を口にして、昨晩に引き続き自宅の状況を確認するため、暗く闇に沈む自室の扉に手をかける。


「……だめだ」


 自分自身の心情と部屋の明るさを重ねてしまい、こんなことでは駄目だと叱咤する。

 まだ姿が見えないだけで、それ以上の意味はないのかもしれない。

 窓に近づいてカーテンを開け放ってみたが、外に広がる空は灰色で重く、日差しが雲に阻まれているせいか、町全体の活気が失われているように感じた。

 その景観は、昨晩から僕の心に住処を得た不安の存在を肯定しているかのようだった。

 


「おはよう、優くん。でも、随分と早起きね。まだ家を出る時間まで一時間以上は余裕があるわよ? 昨日は色々起きて疲れてるでしょうから、もう一眠りしてはどうかしら? 時間になったら、あたしが起こしてあげるわ」

「……姉ちゃん、なんか……」

「あたしがどうかしたかしら?」

「……いや、特に大したことでもないけど……なんというか……」


 一階の食卓にある自席に腰かけてテレビのニュースを見ている姉は、僕の曇った心など知らないように、普段通りの振る舞いで応対する。

 昨晩は一緒になって突然の異常事態への焦りを共有していたのに、いまの彼女は僕とは違う感情を抱いているようだった。

 まさか、一晩寝たら忘れてしまったのか。それとも、リフレッシュされた脳で考え直してみたら、それほどの大事でもないと判断したのか。


「……なんでもない」


 いずれにしても、意思の疎通ができていない相手に、自分の不安を押し付ける行為は良くないと思った。


「そう。優くんも、もうこのまま登校の時間まで起きてる?」

「うん。もう一回布団入っても、たぶん眠れないだろうし、そうするよ」

「それなら、とりあえず朝食を摂りましょう。さっきコンビニで朝ご飯になりそうなパンを買ってきたから、適当に選んでちょうだい。あたしは残った方でいいから」

「いいよ、どれでも。姉ちゃんが買ってきたんだから、姉ちゃんが先に選んでいいよ。僕はコーヒーを淹れてくるよ。姉ちゃん砂糖はどうする?」

「今日は砂糖はいらないわ。ブラックで飲みたい気分なの」

「奇遇だね。僕もだ。待ってて、すぐに用意するから」

「よろしくお願いするわ」


 台所の下にある棚からポットを取り出して、浄水器を通した水道水を適量注ぐ。ガスコンロに乗せて火をつけると、食器棚を開けてカップを二つ手に取った。

 カップは、僕と姉の分しか置かれていなかった。

 これも昨晩確認した既知の事実ではあったけれど、一夜明けても変わらぬ異常に、僕の気分は更に沈められた。

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