第32話

 雪は止んでいた。それでも灰色の空に包まれた真冬の風は冷たく、肌を晒している頬を凍えた感触が撫でる。

 僕達はまず、自宅から最寄の駅に向かった。息があがらない程度の小走りで、次に到着する列車が来るよりも早く着くように。

 ホームに着くと、三、四人ばかりが携帯電話を触ったり、読書をしたり、呆然と立ち尽くしたりして目的地へ身体を運んでくれる電車を待っていた。

 妹の姿は、ここにはない。


「隣町に行った可能性は低そうね」

「うん。昨日のショッピングモールに行ったのかと思ったけど、そうでもないみたいだ。他を探そう」

「ええ」



 駅を後にした僕達は、隼人がバイトをしているコンビニの前を通ったので、一応目撃情報が得られることを期待して立ち寄った。

 コンビニでは、隼人が不在だったので、いつもいる中年男性の店長さんが応対してくれた。

 妹が訪れたか尋ねてみたが、首は横にしか振られなかった。そのまま帰るのも申し訳なかったので、僕と姉は温かいコーヒーを購入した。一刻も早く次の目的地に行きたかった僕は、普段は入れる砂糖を溶かすのを忘れていた。

 苦いコーヒーを手にして歩き、僕達は東條高校の校門に着いた。校門は片方だけ開かれていたけれど、グラウンドと校舎には人気がない。土曜日は部活動に没頭する生徒も多いけれど、日曜日はそうではないらしい。

 校門の前で暫く佇んでいると、校舎から見覚えのある教師が歩み寄ってきた。

 彼に妹の件を聞いてみると、意外な答えが返ってきた。


「桜庭理奈さん、かい? んー……聞いた覚えがないような、あるような……。その子、間違いなくうちの生徒なのかい?」

「もちろんですよ。そうじゃなかったら、先生に訊いたりしないですって」

「そうだよな……」

「あたし、妹が先生が話しているところを見たことがあるのですけれど、覚えていないのですか?」

「んー……すまないが、ちょっとわからないね。だけど、少なくとも私は敷地内に入ってきた人物は誰も見ていない。これだけは確かだよ」

「……そうですか。わかりました、ありがとうございます」

「ああ。それと、君たちは休日にまでこんな場所にこなくてもいいんだよ。日曜日くらい、家で休むなり趣味に没頭するなりして平日に消費した英気を養ってくれ」

「そうします」


 途中から受け答えを姉にバトンタッチした僕は、この教師の発言に疑念を抱いた。

 当の本人は、言葉とは裏腹に規則的な歩行で校舎の方へ遠ざかっていく。

 果たして、教師という職業に就いている人間が、話したことのある生徒をそんな簡単に忘れてしまうものだろうか。


 ――生徒の数が多ければ、そういうこともあるのかな?


 自分は教師どころか社会人でもないため、その点はまったくわからない。わからないから、ひとまずはその暴論とも呼ぶべき雑な理由で、教師の証言に不思議と納得してしまった。

 


 次に僕達は、森の奥にある施設に戻ってきた。妹を待っていた時間から数えて、既に三時間近くが経過している。すっかり日も暮れて、ただでさえ明かりのない森は更に深みを増していた。

 待ち合わせ場所だった川原に下りる。

 これまでで最も大きな期待と共に周囲を探してみたが、妹どころか人の影すらも見当たらない。

 あたりまえだ。日が出ている間でさえ凍えていたのに、この時間は日中より輪をかけて気温が低い。こんな極寒を進んで味わいたがる物好きは、全国を捜してもそうそういないだろう。

 キャンプ場、バーベキュースペース、駐車場、貸し出しコテージの周辺を探索してみたが、管理人と思しきおじさん以外には人が誰もいない。

 僕は何度目かになる携帯電話を開き、アドレス帳を確認する。そこから妹の番号を選択して通話を試みる。


《お客様がおかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります》


 それまでの繰り返しと同様に、スピーカーから無機質な音声でメッセージが読み上げられる。僕は携帯電話をスリープ状態にしてポケットに戻した。


「もう暗くなってきたわ。一度家に帰ってみましょう? 母さんにも、事情を説明しておいた方がいいだろうし。それにもしかすると、彼女が家に帰ってきているかもしれないわ」

「……そうしようか。帰ってきてくれていれば、それが一番いいんだけど……」


 呟いた言葉が、とても無責任なものに思えて僕は自己嫌悪する。

 こんなことになったのは誰のせいだ?

 どこの誰が招いてしまった事態なんだ?

 歩き回って体力と精神力を消耗しているとはいえ、気持ちを緩慢させていいはずがないんだ。自己を叱責して、妹と一秒でも早く再会できるよう最善を尽くす。それは償いのためだけでなく、僕の願いでもあった。

 


 冷える身体を抱えて自宅に帰ってきた。

 建物の窓からは明かりが漏れておらず、出た時と同様にカーテンは開いたままになっている。


「あれ? 母さんもまだ帰ってきてないんだ。姉ちゃん、母さんがいつ帰ってくるか聞いてない?」

「朝に出かける前は、十七時には多分帰ってこれるって言っていたわね」

「そっか。用事が少し長引いてるのかなぁ?」


 時刻を確認しみれば、時計は母の帰宅予定時刻の三十分後を示している。


「暖房を効かせておいて、理奈や母さんが帰ってきた時にすぐ身体を温められるようにしておこうか」

「ええ、そうね。日も暮れているし、二人ともそろそろ帰ってくるはずよ」


 帰る家はここにあるのだから、二人ともここに戻ってくる。

 寸分の疑いもなく、根拠がないのにそう決め付けた僕は、親から渡されている合鍵を使って数時間前にかけた錠を解除した。



 日の暮れた空に沈む室内は、洞窟の中のように暗く静かだった。外気と同じ温度とまではいかないけれど、満たされた空気がよく冷えている。

 暗順応によってかろうじて前方が見える空間を、壁に設置されたスイッチで明かりを灯しながらリビングへと進む。

 電気を通し、暖房をつけて、外から室内を覗かれないようカーテンを閉める。

 僕と姉は、長時間働かせた足腰と精神を癒すため、座卓に沿って配置されたソファーに身をおろした。身体の重みにより、ソファーのクッションが窪む。


「表に車がなかったから、母さんは車で出かけていて、まだ帰ってきていないようね」

「一応、メールで何時に帰ってくるのか訊いておこうか? 遅くなるようならご飯を買ってきた方がいいかもしれないし」

「お願いしていいかしら? でも、お母さんほど几帳面な性格なら、向こうから連絡がきてもおかしくない気がするけれど」

「母さんも人間なんだから、忘れることだってあるよ」

「まぁ、そうよね。それならあたしは、妹にメールを打っておくわ。あたしとの諍いを気にして帰りづらいと思っているかもしれないからね。強く言い過ぎたと謝罪して、早く戻ってくるよう伝えてみるわ」

「わかった。そっちはよろしく頼むよ」


 話しながら、僕は端末のアドレス帳から〝母さん〟の文字を探す。


 ――――あれ?


 おかしな現象に直面して、僕はもう一度母親の連絡先を探した。

 しかし何度探しても、どういうわけか目的の文字がどこにも見当たらない。


「おかしいわね」


 僕の心情を代弁するように、絶妙のタイミングで姉が疑念を言葉にする。


「どうかしたの、姉ちゃん?」

「それが、さっきまであったはずの理奈の連絡先が、アドレス帳から丸々消えてしまっているのよ。削除した覚えはないのだけれど、これ、もしかしてバグ? いったいどうなっているのかしら」

「ちょっと待ってよ。連絡先が消えてるの? 身に覚えがないのに?」

「ええ。だからそう言ってるじゃない」

「……僕と同じだ。……姉ちゃん、姉ちゃんの端末に、〝母さん〟の連絡先は登録されてる?」


 姉に確認を促しながら、自分は彼女の言う〝理奈〟の連絡先を探す。

 すると、ついさっき電話をかける際に使用した連絡先が、今度は繋がらないどころではなく端末のどこにも見当たらない。

 彼女の連絡先は、僕の携帯電話から完全に抹消されていた。


「――ないわ。まさか、優くんの携帯電話からもお母さんの情報が消えているの?」

「……うん。それどころか、父さんの連絡先まで無くなってる。ありえない。こんなこと起きるはずが――」


 声を荒げそうになり、喉元まで上がってきた言葉を飲み込む。

 ……あった。

 こんな、常識に反する異常な現象が起きるだけの要因が、僕の住んでいる世界にはあったんだ。


「……そっか。これは、十三月のもたらした新しい異常……」

「いえ、まだよ。まだ、断定するには時期尚早だわ」


 携帯電話の画面に視線を落としていた姉が、僅かに顔をしかめてからそれを淡紅色のコートのポケットに入れる。おそらく、姉の端末からも〝父さん〟の情報が消えていたのだろう。


「ねぇ優くん。母さんや理奈の連絡先が書かれたメモとか持っていないかしら?」

「そういえば、母さん達の寝室に、家族と親戚の連絡先をメモした紙があったような気がする。部屋に入ってすぐ横の壁にかけてあるコルクボードに、ピンで貼り付けてあったと思う」

「それだわ! それを使って、電話が繋がるか否かを確認してみましょう。話はそれからよ」

「わかった」


 僕達は扉を開けっぱなしにしたまま居間を出て、両親の寝室がある二階へと上っていく。

 妙に静かだった。

 僕達以外に誰もいないのだからそう思うのは当然ではあるけれど、何故か僕はそのことにひどく違和感を覚えた。

 階段を上った先の廊下を右に進み、扉が閉められている突き当りの部屋の前に立つ。

 ここが、両親が共用している寝室だ。

 先導していた彼女が、僕に相談することなくドアノブを握り、遠慮なく右側に回す。

 艶のある木製のドアが、微かに軋む音を立てて口を開いた。繋がった空間の光景が僕の目に映る。

 そして、時が止まった。

 僕と姉は、扉の先に広がっていた光景を目の当たりにして、ただ呆然と硬直することしかできなかった。


「なによ……これ……」


 かろうじて姉は声を絞り出すが、僕は声どころか音すらも発せられない。

 すぐ先にある景色が、偽りのない現実の形が、まったく頭に入ってこなかった。

 視界が歪んでいるようにも感じる。視野に収まっているあらゆる物体の輪郭が捻れ、あるべきはずの形が思い浮かべられない。思い出せない。

 けれどもそれは一時的なものだったようで、段々と視界が鮮明になっていく。

 窓もカーテンも閉め切られ、几帳面な母によって常に整理整頓が行き届いていた部屋の変わり果てた状態が、目に映った通りに脳内へと伝達される。

 その惨状を、正常な判断能力を以って、正確に把握して理解した。

 〝そこ〟がもう僕の知っている部屋ではないのだと、どうしようもなく知覚した。

 僕の両親が生活を営んでいた空間は、部屋の隅々に置かれていた調度品や私物と共に、この家から消失してしまっていた。

 穴を埋める代わりであるかのように、空間ごと切り取られた場所には、〝13月〟に消失したはずの物置部屋が再現されていた。

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