第3話

  〝二〇〇二年十三月一日〟

 心地の良い睡眠から目覚めたばかりだと言うのに、これはどういうことだ。

 めくったばかりのカレンダーに書かれていた日付は、紛れもなくそう表記されていた。

 部屋にある日めくりカレンダーは、年度で区切るのではなく、一月から始まり十二月で終わる暦年タイプである。つまり、最終日である大晦日が明けてなお紙が残っていること自体が、あり得ないのだと断言できる。

 紙が増えたのか? いつから? そもそも誰が、どんな目的で細工したんだ?

 僕の記憶では、誰かに触られた覚えも、ましてや自分で十三月なんていう架空の月日のカレンダーを自作して後ろに付け足した覚えもない。

 そもそも、そんな馬鹿げた意味のない行動などするわけがない。

 パソコンをつけてみれば、機械が制御しているカレンダーもまた、昨夜と変わらず今日を十三月一日と示していた。

 結局、見間違いでもなんでもなかった。これで正しかったのだ。

 だけど、友人の意見が誤りであったとも思わない。いくらなんでも、紙媒体の物にまで変化が起きているのは異常すぎる。どういうわけか見当もつかないが、明らかに何かおかしなことが発生している。

 混乱の渦中に僕は囚われていて、相談相手の隼人は渦の外にいる。僕達の間にその差があることは、なんとなく理解した。


「とにかく、色々と調べてみよう」


 現実とは到底思えないけれど、夢とも断定できないリアルな感覚がある。まずは自室から出て、もっと細かく状況を調べてみるべきだろう。

 廊下へ出て左右に視線を巡らせる。

 隣にある物置部屋の扉がいつも通り閉まっていたが、突き当たりにある両親の部屋は開放されている。ベッドのシーツと掛け布団が、綺麗に整えられていた。

 どうやら、僕以外の家族は二人とも起きているようだ。おそらく母さんは食事の準備を始めており、父さんは食卓の椅子に座ってテレビでも観ているのだろう。

 二人と会う前に、意識をはっきりとさせておきたい。

 僕は階段を下りると、両親が待つ食卓ではなく洗面所に向かった。

 

「ん、おはよう、じゃない。あけましておめでとう、優」

「え。ああ、うん。おめでとう、父さん」

「おいおい、別に俺の誕生日ってわけじゃないんだぞ。というか、お前パパの誕生日覚えてるか?」

「覚えてるよ。あけましておめでとうって長いから、省略したくなるんだよ」

「だったらあけおめでいいだろ。若い奴はそう言うもんだと思っていたが」

「そうだとしても、父さんにそんな言葉は使わないよ」

「おいおい、それは父さんが年寄りだって言いたいのか? 新年早々ひどいことを言う奴だなぁ、ははっ」


 朗らかに笑い声を上げた父さんは、それで会話することに飽きたのか、新聞紙で僕の視線を遮った。テレビもついているが、画面に視線は向けていない。

 新聞の背面の右上にある日付欄が目に留まる。そこに記されている文字もまた、相変わらず異常であった。

 テレビの横に飾られているカレンダーを見る。パソコンと同様に一ヶ月単位で表記しているタイプの紙製カレンダーにも、存在しない日付が記載されている。


「どうしたのよ、難しい顔して。そんなにあのカレンダーが気になるの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 元旦らしく雑煮の器を二人分運んできた母が、怪訝な顔をして立っていた。

 新聞の日付に父さんが気づいているのかは知らないけれど、母さんはいま、確実にカレンダーの文字を見たはずだ。それでも特別な反応をすることもなく、当惑している僕を不思議に思っている。それはきっと、僕とは違う景色を見ているからに違いない。

 尋ねたところで何も好転しないと思った。事実を確かめる必要もないとは思う。

 だけど、脳が発言を抑止するより早く口が動いてしまい、しまったと後悔する頃には、僕は不思議な質問を母さんに投げかけていた。


「母さん、このカレンダーは、〝二〇〇三年一月一日〟の物だよね?」

「見ての通り、私が今朝変えたのよ。どうかしら? 結構いいデザインでしょう? まぁこれ、お父さんが会社からもらってきた物なんだけどね」

「正確には、お得意様が勝手にもってきたもんなんだがな。まったく、いらんっちゅーとるのに、毎年毎年持ってくるからな、奴らは」

「いいじゃない。おかげで、カレンダーに回すお金が浮いているのよ」

「その分、俺の残業時間が増えているんだがな。もう金はいらんから、早いとこ隠居させてほしいもんだ。だってのに、連休明けからは逆に海外出張なんだから、エリートってのは世界を股にかけて引っ張りだこで参っちゃうねぇ」

「なによ、嬉しそうに。向こうでおいしいものたくさん食べれるんでしょう?」

「そしてそれを燃料にして働くわけだ。機械と変わらんな、ははっ!」


 仲の良い両親の会話を前にしても、僕はとてもじゃないが心から笑える気分じゃなかった。しかし露骨に影を落として心配されるのも嫌なので、表面上だけ苦笑いで取り繕う。

 またもや父さんが新聞紙の後ろに隠れたことで、母さんの意識が僕に向いた。


「ねぇ優、お姉ちゃんを起こしてきてくれないかしら?」

「…………えっ?」

「えっ、じゃないわよ。聞こえなかった?」

「ごめん。いまなんて言ったの?」

「何って、お姉ちゃんを起こしてきてって言ったのよ。まったく、冬休みだからって生活リズムを乱すのは良くないって、それくらい分からないのかしらねぇ。お姉ちゃんが来たらご飯にするから、早く呼んできてちょうだい」

「頼むぞ優、パパはもう空腹で倒れそうだ。早急にお姉ちゃんを起こしてこい!」

「お姉ちゃん…………?」


 両親の口から発せられた単語を反芻する。

 お姉ちゃん。

 お姉ちゃん?

 つまり、姉弟の姉。それは他ならぬ僕の姉弟で……。

 僕の……姉? 

 僕の姉がまだ寝ているから、彼女を眠りから覚まして来いと、母さんはそう言ったのか?

 だとすると、それはおかしい。カレンダーの表記がどうとかってレベルじゃない。

 だってそれは、僕の過去にも影響する事柄だ。

 家族構成によっては、あるいは日常的に交わされるテンプレートのような会話かもしれない。早く起きた弟が、親に命じられて姉を起こしに行く。姉を持つ弟なら、ごく当たり前のように、下手すれば毎日行う日課だろう。

 けれど、僕は姉を眠りから起こしたことなど、生まれてから一度だってない。

 当然だ。

 相手がいないのだから、体験のしようがない。

 僕には〝お姉ちゃん〟なんて呼べる家族はいない。少なくとも、僕が知っている限りでは。

 カレンダーの件と相まって、何がなんだか分からなくなってきた。気がおかしくなる前に、家を飛び出してしまいたいくらいだ。


「母さん……その……」

「なに?」


 台所に戻りかけた母さんが振り返る。僕はすぐに言葉を続けず、一度脳内で〝お姉ちゃん〟がいるであろう部屋を推測する。

 一階は、台所にリビング、食卓にトイレに玄関で構成されている。この中に、個室として使えそうな区画は含まれていない。

 ならば、部屋を出た際には見かけなかったけれど、二階のどこかにいるということになる。


「お姉ちゃんって、昨日どこで寝てたの?」

「昨夜は大晦日だから遅くまで起きてたみたいだけど、リビングにはいなかったわよ。だから多分、自分の部屋で寝てるんじゃないの?」

「その部屋って、僕の隣の?」

「そこ以外ないじゃない」

「……ごめん母さん、あの部屋って物置じゃなかった?」

「はぁ? いつの話をしてるのよ。あんた寝ぼけてるの? それはお姉ちゃんと部屋を分ける前のことでしょ? もう、まずはあんたが目を覚まさないといけないようね。二階に行く前に、洗面所で顔を洗ってきなさい」


 呆れた調子でそう言うと、母さんは台所へと去っていった。


「優、お前どうかしたのか? お姉ちゃんと喧嘩でもしたか?」

「いや……別に、そんなんじゃないよ」

「そうか。それならいい。喧嘩したんなら、年も変わったんだし綺麗さっぱり忘れろと言うつもりだったが、そういうことなら、いい。いいぞ。素晴らしい姉弟だ」

「う、うん。とりあえず、お、お姉ちゃんを呼んでくるね」

「おう」


 なにやら熱い眼差しを向けてきた父さんに応対してから、僕は食卓を出る。

 勧められていた洗面所には寄らず、二階に続く階段を上り始めた。

 

 僕の部屋の隣には、使わなくなった調度品を保管するためだけに使用している物置部屋がある。基本的にこの部屋の扉は閉められており、今日もその様子に変わりはない。

 扉の前に立ち、右手を慎重に差し出してドアノブを握る。

 手のひらから、ひんやりと冷えた感触が伝わってくる。その温度は、僕の心境を表しているようだ。

 僕は緊張していた。普段なら躊躇いもなく一息に開けているのに、この薄い木製の扉が銀行の金庫にある分厚い鉄製の扉のように、とても重く感じられる。実際には自分の手が動いていないだけなのだけれど、壁を隔てた先にいる〝お姉ちゃん〟の存在に戦慄いて、取っ手を回すことができない。

 扉の反対側には、存在しないはずの姉がいる。

 心臓が脈を打つ速度が、しだいに速くなっていく。

 得体の知れない人物を前にして、僕は恐怖していた。

 いないはずの人間。いないはずの家族。

 けれどもこの家に住んでおり、僕以外の家族である両親は存在を認めている。

 ――化け物なのか?

 そんなわけがない。

 冗談にしか聞こえない馬鹿げた考えさえ浮かんでくるあたり、相当に参っているようだ。

 しかし、安易に一蹴していいのだろうか。平常時なら口に出すことすら恥ずかしい現実離れした可能性も、異常に包まれたこの状況では否定できないように思う。

 僕は姉を〝いないはずの人間〟と表現したが、そもそもそいつは本当に人間なのだろうか。

 創作された架空の世界での物語を反射的に思い浮かべる。

 空想の話である場合、こんな時に現れるのは、大抵の場合は人間じゃない。人の形はしていても、実は獣が化けた姿であったり、人形が魂を持った姿であったり、他の世界からやってきた耳の長い神秘的な雰囲気をまとっていたり……。

 多様な容姿をもった女の子を何人も想像して、頭の中で並べてみる。

 ふと我に返り冷静になると、顔を紅潮させてしまうほど恥ずかしくなり、広げてしまった妄想を両手で薙ぎ払った。


「なにを考えてるんだっ! 僕はっ! そんなこと、絶対にありえない!」


 馬鹿馬鹿しい。とにかく、この扉を開けてみれば分かることだ。

 半ばやけになった僕は考える行為を中止して、無心でドアノブを回し、扉を奥に押し込む。

 開いた勢いのまま、ドアノブから手を離さずに部屋の中へ足を踏み入れた。

 

 カーテンが常に閉められており、昼夜問わず薄暗かったはずの物置部屋は、窓から差し込む眩しい陽光によって明るく照らされていた。

 乱雑に置かれていたはずの家具は姿を消して、代わりに新品のように綺麗な状態のベッドや机、椅子に本棚が丁寧に配置されている。

 それらは、全てが淡紅色で統一されていた。壁紙に至るまで、もとあった白い無地の布から、花柄のピンク色に変わっている徹底ぶりだ。

 この部屋の内装は、過剰なまでに〝女の子の部屋〟という印象を僕に与えた。

 鋭い視線を感じ、部屋の一角にあるベッドに目を向ける。僕の見据えた先には、部屋の主に相応しい、レースのついた長袖長ズボンのパジャマを着ている女の子が腰かけていた。当然のように、服の色はピンクだ。

 ウェーブのかかった茶髪を胸元まで伸ばしている彼女は、僕と目が合うなり口元に笑みを浮かべる。


「ふふっ、随分ながいこと逡巡してたわね。もしかしたら入ってきてくれないのかもって、ドキドキしたわ」


 口調は挑発的ではあるけれど、透明感のある綺麗な声色だ。

 僕の緊張は、まだ治まっていない。

 むしろ、心臓が脈を打つ速度は更に増しているように感じる。


「どうかしらこの部屋。すっごく女の子って感じで素敵でしょ? どう? 気に入ってくれたかしら?」

「え、えーと……」


 見ず知らずの容姿端麗な女の子を前に、僕は困惑していた。向こうが妙に馴れ馴れしく接してくることも影響している。

 だけど、本心を悟られるのはもっと恥ずかしいから、気を紛らわそうと精一杯の平静を装い質問する。


「えーと……君は、誰?」

「うふふっ、いい質問ね」


 彼女がベッドを軋ませて立ち上がる。

 部屋の入口で立ち尽くしている僕の目の前まで歩み寄ってくる。並んでみると、結構身長が高い。僕が小さいこともあるけれど、目線の高さがほとんど変わらない。自然に前を見ただけで、視線が正面から交差してしまう。

 前に立った彼女は、本当に綺麗な顔立ちをしていた。作り物のようにきらめく瞳に見つめられて動揺してしまう。

 心臓を掴むような意識で鼓動を抑え、必死で目を逸らさぬように努力した。

 無表情で僕を値踏みするように見ていた彼女は、突然にやりと表情を崩し、眼光を怪しく光らせた。


「よく聞きなさい!」


 両腕を組んで胸を突き出し背をそらせ、いかにも誇らしげな態度のまま、彼女は自分自身の正体――つまりは僕の質問に対する回答を、得意げな様子で口にした。


「あたしは――神よ!」

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