第7話
開いているはずの瞳に映されるのは、混じり気のない完全な白色の世界。
瞼の裏に広がるのものが黒色の世界だとすれば、ここはどこなのだろう。
どこまでも白色が続いている。地平線があったとしても、どこがそうなのか分かるはずもない。視界の端から端まで、ただただ真っ白な色が塗りつぶしている。
あまりに現実離れした光景に心を奪われている時、自分の指先が微かに動いたことを感じた。試しに足を前に踏み出してみると、正常に膝が曲がり、足が浮いて地面を離れ、再び硬い感触がつま先から全身に伝わる。
どうやら、一歩前に進んだようだ。しかし目に映る光景が変わらないせいか、そういった感覚は薄い。
――地面?
ふと、その単語に興味を惹かれた。僕はいま、どこかに立っている状態のはずだ。それは地面があるからで、僕はその地面のうえに立っている。
けれど、僕はどこに立っているんだ? 目の前に道はない。人が歩けるような道がなければ、必死につま先立ちになれば立てそうな程度の足場すら見当たらない。
――足場がない……?
疑問の答えを確かめようと、戦々恐々としながらも、そんなはずはないだろうと半信半疑で足元に視線を落とす。
そこには、何もなかった。
あるべきはずの足場が見当たらず、視界に広がる色についても、正面を向いていた時と変わらなかった。ただ一面に、純白の世界がどこまでも続いている。
どちらが上で、どちらが下なのか。もちろん、自分の感覚で言えば頭が向いている方が上で、足が向いている先が下だ。それは間違いないと思うが、世界を基準にした際の方位がまったく分からない。
通常、下には道路だったり土だったり、床がある。上には空や天井がある。けれども、この空間には当たり前のようにあるはずの上下を判断する指標が見当たらない。足が向いている先が地面だと言われても信じられないし、見上げた先が空だと言われても信じられない。
右も左も同じだ。身体の感覚さえも失ってしまえば、自分がどちらを向いているのかすら分からないだろう。
視界をぐるりと一周させようとその場で転回する。
自分の背後に初めて目をやった時、彼女の姿を捉えた。
「うふふっ、驚いたでしょう? 大丈夫よ、答えなくても。だって優くん、思いっきり顔に出ちゃってるから」
「なんなの、これ? 僕はいまどこにいるの?」
「|純白の空間(サルベーション・サンクチュアリ)。ここはそう名づけられた、世界の裏側にある聖地――みたいね」
「……これも、全部先代の神様が作った世界なの?」
「ええ、そうよ。だから、私にも与えられた情報以外のことは分からないわ。でも、ここが神様によって創造された、特別な場所であるのは確かね」
「見上げても見下ろしても、どこを見たって一面の白色。それに、なんか身体が浮いてるし……浮いてるんだよね、これ。それとも、透明な足場でも全面に貼ってあるの?」
「どちらも違うけど、どちらかといえば後者が正しいかしら。だって、浮遊感みたいなものは感じないでしょう?」
透明な足場に立った経験がないためか、その先に果てがないように思えるためか、どうも自分は直立しているというよりは浮遊しているように思ってしまう。ただ、足裏が何かの感覚を捉えているのだから、僕はやっぱり地面に立っているのだろう。
足踏みしてもまったく音が立たないのは謎ではあるが、周囲を包み込む景色の異常性に比べれば、そんなのは些細なことだ。
「結局、ここは何なの? えっと、|純白の空間(サルベーション・サンクチュアリ)っていう名前なんだっけ。ここが、十三月と何か関係あるの?」
「この場所は、十三月と呼ばれる破滅に抗うための世界なのよ。この世界で〝ある条件〟を満たせば、世界は消滅の運命から逃れられる。逆に言ってしまえば、その条件が達成できなければ全て終わりよ。私も、優くんも、優くんの家族も、友人も、優くんと関係のない人達でさえ、みんな消える。優くんの家も、学校も、思い出の残るありとあらゆる場所も、全部消えてなくなるわ」
「破滅……」
「まだ、信じられない? 周りを見回してみなさい。どこへ顔を向けても、瞳に映るのは同じ景色ばかり。ここは、優くんの生活する現実であって、現実ではない場所。遠いとか近いとかではなく、届かない場所。神様と崇められる創造主が生み出した、特異な世界なのよ」
白色の風景は、無意識のうちに静けさを連想させる。条件反射のように、僕の脳も静寂を感じている。実際、この世界には彼女と僕の声を除いて音がなかった。動物の鳴き声も、人々の喧騒も、風が吹く音さえも、僕の耳には聞こえてこない。あるのは、淡々と喋る彼女の声だけだ。
「――というのが、この世界に関する解説なのだけれど、まだ信じられないかしら?」
「……正直なところ、まだ完璧には信じられないよ。君が――ええと、姉ちゃんが神様だってことも含めてね」
「っ!!!!」
『君』と言いかけて、咄嗟に『姉ちゃん』と言い直した。『君』と呼ばれるのは不快だと彼女自身から注意されての判断だったけれど、そう呼んだ直後、姉はびくっと体を震わせて仰々しく息をのんだ。
「お姉ちゃん……優くん、あたしのことお姉ちゃんと呼んだのよね? そうよね? わぁっ、なにこれ、とても美しい響きね。ちょっと、もうこれどうしちゃおうかしら? あたし、感情が昂ぶりすぎてどうにかなっちゃいそうよ!」
「ど、どうしちゃったの? というか、『お姉ちゃん』じゃなくて『姉ちゃん』って呼んだんだよ。聞き間違えないでよ!」
「あぁっ! もう駄目っ! そんな風に呼ばないで! いえ、そうじゃないわ。もっと呼んで! もっと、たくさん、連呼して!!」
「落ち着いてよ! 説明の途中だったんだからさ、せめて最後までちゃんと教えてからにして」
「そんなこと言わなくたっていいじゃないのよ! だって、初めて『お姉ちゃん』って呼ばれたのよ? それってつまり、家族として、兄弟として、優くんに認めてもらえたってわけよねっ! この世界に生まれ落ちて早十時間、ようやく念願が果たされたんだから、ちょっとくらい喜んでもいいじゃないのっ!」
「願いが小さすぎるよ! なんか性格もおかしくなってる気がするし、余計混乱するからいい加減に正気を取り戻してくれないかな?」
恍惚とした表情のまま、壊れたように上気した頬を手で撫で始めた姉をなんとか静めようと必死に頼み込む。こんなことになるのなら、別の呼び方をすれば良かったと後悔した。
少し時間を置いた後、彼女はゆっくりと深呼吸をして、顔の火照りを消火した。
「ふぅ……わかったわ。優くんを困らせるのはあたしの趣味だけど、確かに今この時に関しては不適切な趣向であるのは認めざるを得ないわね。でも、性格が安定しないのは勘弁してちょうだい。あたしはまだ、人格が不安定なのよ。ベースとなっている性格は冷静沈着で穏やかな女の子のはずなんだけど、人間らしい感情を持つために、他にも様々な一面を与えられているみたいだから」
「お願いだから、そのベースからはなるべくはみ出さないようにしてほしいな……」
「善処するわ。だけど、これからも『お姉ちゃん』って呼んでちょうだいね。それ以外だと、反応しないかもしれないから」
「そうしないとめんどくさそうだし、そうやって呼ぶように心がけておくよ」
「お姉ちゃん?」
「姉ちゃん」
「……本当に素晴らしい呼称ね。とても気に入ったわ」
もう一度呼吸を整えてから、姉は胸の下で腕を組み、小さく開いた口元から言葉を発した。
「それで、話の続きだけれど、優くんはまだ、世界が終わろうとしていることを完全には信じていないのね?」
「十三月やら、姉ちゃんの存在やら、この真っ白な世界やら、僕の知ってる現実には絶対に起こり得ないことを連続して目の当たりにしたから、もしかしたらそうなるのかもしれないというくらいには思えるようになったよ。だけど、破滅の兆候が一切ないんだから、簡単に信じたりはできない」
「十三月やあたしの顕現、純白の空間の誕生が最初の兆候なのだとは推測できないかしら?」
「おかしなことではあるけど、少なくとも僕の思考じゃあ、それらと世界の終わりは結びつかない」
「なんだか中途半端なのね。優柔不断な性格は女の子からモテないし、同性の友達からだって嫌われちゃうわよ?」
「そ、そんなの今は関係ないじゃないか! 僕が言いたいのは、もっと明確で、現実的な理由がないと納得できないってことだよ!」
「ふぅん。でも、あたしはそんな優くんでも構わないけどね。むしろ、優くんはあたしの物なんだから、他の女の子になんてモテる必要なんてない。かえって都合がいいわ」
なにやら不穏な単語が聞こえたような気がした。おまけに、会話がどうも噛み合っていないようだ。
これ以上話の腰を折られるのは面倒なので、やや強引に話題を戻すことにする。
「とにかく! 僕の現実に囚われた想像力じゃ到底考えが及ばないことが起きているのは、なんとなく分かったよ」
「もっと具体的に言えばいいじゃない。世界の破滅へ進む針は、もう動き始めているのよ? 優くんはそれを、ある程度は理解してくれたって認識でいいのかしら?」
「こんなもの見せられたら、たとえ自分が明日死ぬって言われても無下に否定なんてできない」
「あたしに与えられた記憶には、優くんが明日事件とか天災に巻き込まれて命を落とすなんて情報は見つからないわ。だから多分、その点は安心してくれていいわ」
「まるで、頭の中で辞書を引いているみたいな言い方をするんだね」
「仕方ないじゃない。あたしの中にある情報は、あたし自身が経験したり書物や伝聞で蓄えた知識じゃないんだから。その分、貯蓄した情報はありとあらゆる分野に裾野を広げてあって、大抵のことは調べるまでもなく脳内に検索をかければ知ることができるみたいよ」
「だけど、世界がどうやって破滅に至るのかについてはまったく分からないんだよね?」
「そこに関連する情報は、きっと意図的に与えなかったのよ。どういった目的があったのかは知らないけれど、あたしに教えるのは、先代にとって都合が悪かったんじゃないかしら。その割には、世界を破滅から救う方法なんていう相対する情報まで用意しているんだから、ほんと、何がしたくてこんなことをしたのか甚だ疑問だわ」
至極おもしろくなさそうに答えた姉は、喋り終えた後に、自分の足元に目を落とした。
彼女の口にした言葉に含まれていた、初めて耳にする単語に興味を惹かれた。それを言及する前に自然と姉の視線につられて彼女の足元を確認すると、透明な地面に妙な物があることに気がついた。
「それ、なに?」
「あら、もしかして気づいていなかったの? 最初からずっと、ここに生えていたわよ?」
「他人の足元なんて見たりしないから、全然気づかなかったよ」
「ん~、そう言われてみるとそうね。あたしの感性でも、他人の足元を目的もなく観察するような行動はおかしく感じるわ。そうなの。気づいてなかったのね」
下半身をじっくりと眺められれば、多くの人は不快感を抱くことだろう。それに、妙な誤解を招いてしまうような気もする。相手が異性であれば、もっと大きな問題に発展しそうだ。
姉の脚は桃色のパジャマに覆い隠されている。それでも、女性の下半身をついつい見てしまうような癖なんてないし、そんな特殊な性癖があると勘違いされたくなかった。
焦って取り乱してしまったけれど、姉は別段気にしている様子はない。
姉は膝を曲げてその場にしゃがみこみ、足元にある物に指先で軽く触れる。彼女の細い指の動きに合わせて、それは微かに左右に揺れた。
「これが、先代の神が遺した、世界を破滅から救済するための条件よ。ほら、優くんもこっちにきて、もっと近くでみてみなさい」
呼ばれて隣に並んで身を屈め、そこにある〝条件〟を目に留める。
視線の先にあるのは、透明の地面から極細の幹を伸ばす、茶色の物体だ。全長は三十センチ程度で、中心の幹から派生した二本の小さく細い枝の先端に、薄い緑色の葉が一枚ずつ付いている。
森にいくらでも落ちている折れた枝が突き立っているようにも見えた。けれども、青々とした元気な色合いの葉が、そうではないと反論する。
二枚の儚い葉っぱに訴えかけられても、僕がその物体に対する呼称として真っ先に浮かんだのは、〝小さな枯れ木〟という呼び方だった。
「これ、なに? 植物だってことは分かるけど、何が植えてあるの?」
「あたしにも詳しいことは分からないわ。けれど、仮に知っていたとして、現実に存在する品種の名前を口にしたところで信じないでしょう?」
「それはそうだよ。この異空間に現実世界にある植物が植えられている意味が分からない」
「でも、実在しない品種だと説明されても、納得できないわよね?」
「あたりまえだよ。だけど、そっちの方がまだ道理が通ってる。謎の場所に謎の植物が植えられているなら、植えられている場所が未知の領域だからっていう理由付けができる」
「それって意味があることなのかしら? 分からない物は、知らないから分からないと答えているようなものよ?」
「その通りだし、仕方ないじゃないか。それとも、姉ちゃんが教えてくれるの?」
「あたしは、ここに植えられている植物の品種についても、植えられている理由に関しても、情報をまったく所持していないわ。知らないから分からない。それはあたしも同じよ。ごめんなさい。変なことを聞いて申し訳なかったわ」
解析するように、姉が小さな枯れ木を訝しげに見据える。
「あたしが知っているのは、この植物が、先代の引き起こそうとしている世界の破滅に大きく関係していること。そして、この植物を成長させて満開の花を咲かせた時、世界は破滅の運命から逃れられること」
「それじゃあ、僕が十三月を認知しているのは、この植物に花を咲かせる役割を与えられたから?」
「ええ。あたしと一緒に植物を成長させる方法を探して、世界を破滅から救うためよ」
「わざわざ探さないといけないってことは、水や肥料をやるような普通の育て方じゃ駄目なんだろうね」
「その通りよ。普通の成長速度では、たった一ヶ月でこんな苗が花を咲かせるはずがない。先代が偽りの知識をあたしに与えているのなら話は別だけど、そうでなければ、常識に則った速度では育たないわ」
「本当に三十一日で、こんな状態から成長して満開の花を咲かせたりするのかな」
「信じられないわよね。でも、この情報に関しては信じてもいいと思うわよ」
「どうしてそんな自信満々に言い切れるの?」
「十三月に関する知識と、あたしが優くんの家族に加わっている事実。先代があたしに用意した情報は、いまのところ全部正しいからよ。何か思惑があるのかもしれないけれど、ここまでの結果から推測すると、あたしの知識に誤りは含まれていないはず」
「つまり、姉ちゃんが知っている情報が、不可解な現状を打破するために与えられた唯一の手がかりってことだよね。そこに、肝心の植物を成長させるための方法はあるの?」
「植物の栄養が何か知っているか、ってことかしら?」
「それが判明しないと、結局何もできないよね。成長させろと言うくらいなんだから、当然用意されているんだろうけど」
「成長させるための、条件……」
顔を横に向けて、口を閉ざしたまま隣に立っている僕の瞳をジッと見つめる。
姉の浮かべた表情は、難航した裁判の判決を下す裁判官のようだった。緊張していつつも、その感情が表に出ないよう装っている。僕は、そんな風に感じた。
とてつもなく困難、あるいは、多くの犠牲を伴う条件なのかもしれない。そうだとすれば、即座に言い出せない姉の行動にも頷ける。
僕は固唾を呑んだ。飲み込んだ唾が喉を通り過ぎる音が耳の内側から聞こえた時、姉はようやく口を開いた。
幼い純真無垢な少女のように首を傾げて舌を出すと、彼女はにっこりと笑った。
「わからないわ。てへっ」
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