第47話
チャックがギリギリ閉まるか閉まらないかくらい中身を詰め込んだリュックサックを背負い、両手には大量の食材が納められた大きめのトートバッグをひとつずつ持っている。万が一転んでしまえば、受け身のとりようなどなく、顔面で身体を支える羽目になるだろう。
総重量が相当に増している僕は、平坦な舗装されている道ですら息が上がるのに、山奥に続く坂道を転ばないようゆっくりと進んでいる。
目の前には、トートバッグをひとつだけ手にした姉の後ろ姿。淡紅色のコートの裾を左右に揺らしながら、先頭を歩いていく。
僕とは対照的に荷物が軽そうな彼女は、歩みは止めないまま心配そうに振り返った。
「優くん、大丈夫?」
「大丈夫。あと少しくらいなら、なんとかなると思う」
「力持ちなのね。でも、きつかったら遠慮なく言ってちょうだい。ひとつくらいは持てる余裕があるから」
「問題ないって。それにしても随分と買い込んだけど、本当にこんなに必要なの?」
「買い過ぎたかもしれないわね。でも、少ないよりは良いでしょう?」
昨日〝廃校〟を後にした僕達は、一度家に帰って制服から私服に着替えて、近所の大型スーパーに買い物に向かった。目的は、十三月の残りの八日間を過ごすために必須な食材の買い出しだった。
他人と少しでも関わったばかりに、その人物が消えてしまうかもしれないと危惧した僕達は、人のいない山奥で解決策を練ることにした。解決するまでは町へは帰らない背水の生活を遂げるには、人間のエネルギー源である食事が必要不可欠だ。目的の完遂のために、僕は初めて両手で持ちきれない量の買い物を経験した。
「あのスーパーの人達、大丈夫かな」
「考えない方がいいかもしれないわね。知らない世界であった方が、助かる確率は上がるでしょうから」
「……そうだね」
「ちょっと優くん、顔が暗いわよ? 今日からそれは禁止って言ったじゃないの」
「そうだった。ごめ――いや、気をつけるよ」
「うふふ、危なかったわね」
「やっぱり油断してると口走ってしまいそうだ。それにしても、僕の感情で成長か。現状までで立てられた仮説の中では最も信憑性が高そうだけど、本当だとしたら、なんで僕の心の動きを条件にしたんだろうね。選んだ理由もよくわからないし。普通だからって、なんでそんな理由で選ばれたんだろう」
「あたしの主観で推量するなら、優れた者が結果を出しても、それは優れた人間だからという単純な論理で片付けられる。劣っている者が結果を出せば、誰にでも結果が出せる証明になるのでしょうけれど、劣っている者は優れていないために劣等なのであり、結果が出せればそれはもう優等なのだから論理は破綻する。でも、どこにでもいる〝普通〟の肩書きを持つ曖昧な存在なら、成功と失敗の可能性は平等に有している。その人物ができることは、誰にでもできる可能性がある。つまりは人類の総意になるのよ。だから優くんが選ばれたんじゃないかって、あたしはそう思うわ」
「世間一般では優れた人が代表に選ばれるけど、今回はそういう場じゃないから、神様は普通の人間を求めたのか。もっともらしいけど、よくまとめたね」
「十三月の初めの日から、ずっと考えていた可能性のひとつだったのよ。ここにきてようやく、考えがまとまったわ」
「だけど、もう意味のないことだ」
「ええ。そうね」
僕が口にしたのは、決して悪い意味ではない。姉も真意を汲んでくれたのか、肯定しながら口元を柔らかく緩めた。
会話をしながら先へ進んでいくうちに、十三月に訪れるのは四度目となる山奥の施設の入口が見えてきた。
「さて、まずはあたし達がこれからの数日を過ごす家を確認しにいきましょうか」
「バーベキュー場の近くにあるコテージだよね。昨日も言ったけど、あそこは有料だよ? それに、借りるなら事前に予約も必要だし。姉ちゃんは予約の必要はないって言ってたけど、本当にしてないの?」
「してないわよ。でも、きっと問題ないわ」
「問題ないってことはないんじゃない? だって、無断で使ってたら施設の管理人がやってきて追い出されるんじゃ……」
「平常時なら、おそらくそうなるでしょうね」
「……僕達と面と向かって言葉を交わせば、その人は消えてしまう可能性が高い。だから、追い出される心配はないのか」
「ええ。付け足すと、喋っただけで相手が抹消された昨日から丸一日が経過しているから、状況は更に厳しくなっているかもしれないわ」
「だとしても、管理人は僕達が勝手にコテージを利用していれば注意に来る。その人を意図的に消してしまうっていうのは、気が進まないよ」
「あたしも同感よ。より大切なもののために、他のものを犠牲する考えは好きではないわ。それに、無断で利用するとしても、まずはコテージの鍵を入手する必要がある。おそらく、鍵は管理人の詰所に置かれているはずだわ。となれば、侵入でもしない限り、その段階であたし達は管理人と会話をすることになる」
「自分達から話しかけて邪魔者は消すとか言わないよね?」
「まさか。そんな物騒な思考は持ち合わせていないわよ。優くんに嫌われちゃうでしょうからね」
話しながら前を歩いてく姉の隣に並び、彼女の向かう方向について行く。
口では否定しつつも、職員が詰めるコンクリートで造られた小屋を目指しているようだった。
「その割には、躊躇なく管理してる人に会いに行こうとしてるよね」
「それはちょっと違うわよ?」
「違うって、何が」
「説明するより実際に見たほうが早いと思うわ。入るわよ」
小屋に着くと、姉は正面にある全面ガラス製のドアの取っ手を押した。両開きのドアの片方が動き、隙間から中へ入る。閉じかけたドアをもう一度押して、僕も建物に入った。
外気を遮断した建物内は、完全な静寂そのものだった。人の気配がまるでない。
エントランスホールの左側には、座卓を挟んで簡素な造りのソファーが一つずつ配置されている。右側には会議室を隔てる扉、その隣にはもうひとつ同じ扉があり、突き当たりには諸々のサービスを受け付けるカウンターがある。左奥には、男女共用のトイレがあった。
携帯電話を取り出して現在時刻を確認してみると、いまは九時五十四分だった。
「誰もいない……? 九時から営業してるはずなのに、おかしいな。客がいないのは真冬だからだろうけど、職員までいないのはおかしいでしょ。外にいるのかな?」
「それは、この部屋を調べればわかると思うわ」
一通りエントランスホールを見回した後、姉は会議室の隣にある扉を押し開けた。
開きっぱなしにされた扉を通り、僕も部屋を移る。
小さな職場だろうから、仕事場は学校の教室にある教員用の机みたいなのが中央あたりに並べられていて、部屋の四隅には段ボールの箱だとかが詰まれていて、棚の中に書類を綴じたファイルが保管されていたりするのだろう。漠然としているけれども、そんな景色を僕は想像した。
扉の先に広がっていたのは、おおよそ僕の想像した通りの部屋だった。
しかし、重要な物が足りていない気がした。
事務仕事をこなすための机が角をくっつけて中央に四つ並んでいるが、仕事をこなしていた形跡が殆どない。机の上には、隅にパソコンの教本や自然に関する資料集と思しきタイトルの本がブックエンドを使って立てられているだけだ。
僕は手近な机の引き出しを開けてみた。椅子の横にあるキャビネットにも鍵がかかっておらず、いずれも手前に引く感触が異様なほどに軽かった。
一つの机に合計五つある引き出しは、その全てが空の状態だった。
「この机、本が置かれている以外は引き出しにも何も入ってない。そんなことってある?」
「気になるのなら、全部確かめてみたらいいんじゃないかしら」
棚の前に立っている姉が、振り向きもせずにそう言った。
背中を押される形で他の机も確認してみたけれど、どういうわけか、他の机の引き出しも全て空だった。作成途中の資料だとか、メモ用紙といった業務に関係のありそうな品がどこにも見当たらない。
険しい顔をしているであろう僕に、姉は棚を閉めてから振り返った。
「保管されているファイルを順番に閲覧してみたけれど、いずれのファイルにも紙が一枚として綴じられていなかったわ」
「なにそれ。じゃあ、この部屋は何のために存在しているんだろう。本や貸し出し用の備品が置かれているだけで、人が働いていた形跡がない。自由に使っていいのなら、わざわざこんな部屋に置かないだろうし、意味がわからない」
「働いていた跡なら、いくつも空のファイルが置かれていることだけでも証明になると思うわ。机の上の本も同じね。最初から誰もいなかったとしたら、ファイルも本も置かれないでしょう?」
「つまり、いつからか使われなくなったってことなのか。……いや、違うか。資料が何もないってことは、最初から使われてないってことになる。だけど、パソコン用のソフトに関する教本だとかを置いておくのもおかしいし……」
「つい最近までは職員が働いていたのでしょうね。けれど、ある日突然姿を消してしまった。自らが働いていた痕跡と共に、警察組織に行方を眩ます逃走者のようにね」
「それって……」
「ええ。おそらく、優くんの考えている通りだと思うわ」
「……だけど、どのタイミングで? それっぽい人を見かけたことはあるけど、話したこともなければ顔も覚えてない」
「優くんはそうかもしれないけど、向こうは違うかもしれないわ。昔、よくここへ家族と遊びに来ていたのでしょう? その時に顔を覚えられたかもしれないわ」
「顔を覚えていたって、それだけの理由で消えてしまったっていうの? たったそれだけの理由で?」
「〝見た〟と〝覚える〟の間には深い隔たりがあるわ。それに、今日は昨日とは違う。さっきも言ったけれど、更に厳しい条件で抹消される人物が選出されている可能性が高いのよ」
「……こんなこと、許されるのか」
「許さないわ。そのためにも、あたし達で絶対に解決しなければならない」
姉はカウンターの内側の方へ歩いていって、すぐに戻ってきた。
彼女の右手の人差し指に、タグの付いた鍵のキーホルダーが引っ掛けられていた。
「見当たらないと思ったらやっぱりカウンターの下にあったのね。貸し出す際には楽でしょうけれど、防犯上は褒められた管理場所ではないわね。とにかく、これ以上ここにいても収穫はないわ。コテージの方へ行ってみましょう」
「そうだね」
またも姉に引っ張られる形で外に出る。
誰もいないはずなのに、僕は几帳面に開けっぱなしにされていた管理室の扉を閉めてから、もう訪れることがないであろう小屋を後にした。
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