第30話

「一生……そうだったのね。それが、理奈の本当の願望だったのね」

「うん。十三月にしか彼女が存在できないのなら、彼女の定義する一生というのは、今月の三十一日までのごく僅かな時間だと思う。だけど、それに付き合うのはあまりにリスクが高い。それが救済の条件と無関係だった場合、取り返しがつかなくなる」

「そうね。でも、判断する前にあたしに相談してくれても良かったじゃないのよ」

「駄目だったんだよ。だって、理奈の要求は、正確には〝僕と二人だけで〟、どこか遠い所で暮らすっていう内容だったから。彼女、家の金庫から大金まで持ち出していたんだ。突発的な行動じゃなかったんだよ」

「相当以前から計画していたというわけね。そうなると、それが叶えるべき願いである確率は高そうだけれど、確信するにはまだ情報が足りていないわ」

「だから僕も頷けなかったんだよ。それが結果として、彼女の願いを諦めさせることになった。そして、裏切った僕に対しての仕返しを企てた」

「……優くんは、仕返しを完遂させてあげるために、ずっとここで待っていたのね」

「本命は叶えてあげられないから、せめて別の願いを叶えてあげれば、もしかしたら微力でも救済の手助けになると思ったんだ。妹の望みを満たす以外には、すべきことも見つかってなかったからね」

「…………そこまで、彼女のことを考えていたのね」


 包み隠したりせず、ありのままに僕の行動原理を説明する。聞き終えた姉は、眉根を寄せたり頬を強張らせたりしながら、気まずそうに口元を歪めた。


「…………それなのに、彼女は……」

「姉ちゃん? 何か言った?」

「……大丈夫。私の独り言よ。それより、こんなところで立ってたら風邪をひくから自宅に戻りましょう? 体調を崩したら、手がかりがあっても調査できないなんて状況になりかねないわ」

「だけど、理奈がまだ来てないし……」

「来ないと知っているのだから、その行為に意味はないわ。それに、優くんには自宅に戻ってもらわないと困るのよ。あたしは、そのためにやってきたのだから」

「そんなの、妹が許してくれないよ。彼女が来てくれるまで、僕は待つべきだと思う」

「今日中に顔を出してくれるのかわからないのよ?」

「なら、明日まで待つよ。世界の命運がかかってるなら、一晩野宿するくらい大したことじゃない」

「本気で言っているの? 普通の女の子だったら、きっと夜になれば良心の呵責に耐えられずに来てくれるかもしれない。けれど、彼女は先代によって生み出された十三月の一部なのよ? 明日どころか、優くんにはもう会おうとしないかもしれない。だいたい、お母さんはどうするのよ? 優くんが帰ってこなかったら、警察に捜索を依頼するかもしれないわよ?」

「確かに、母さんに迷惑をかけるのは本意じゃないから嫌だな」

「でしょう? それなら、早く自宅に戻りましょう?」

「いいや、母さんには電話かメールで連絡しておくから、その点は心配ないよ。僕はこのままここにいる。寒いから、姉ちゃんは帰った方がいいよ」

「…………優くん――」


 僕の名前を呼びながら歩み寄ってきた彼女が、凍えた冷気によって感覚の薄れていた僕の片手を握る。

 触れ合った姉の手は、僕と同じくらいに冷たかった。


「妹を救い、世界を救いたいのなら、待っているだけではいけないわ。受け身の姿勢で行動するより、積極的に動いた方が状況は好転するものよ。妹に許してもらうためには、彼女の口からその言葉を引っ張りださなければいけない。ここで待っていても、優くん自身が自分を許せても、妹が許してくれるとも限らないわ」

「がむしゃらに考えなしで行動するよりはマシかなって思ったんだけどな」

「目的があるのだから、がむしゃらというわけではないわ。あたしも理奈の説得に協力するから、自宅に戻りましょう?」

「……」


 粉雪の舞う景色の中、お気に入りの淡紅色のコートを着た姉は、僕に質問を投げかけながら僅かに手を引いて、帰るべき家に戻ることを催促する。

 僕が苦行に耐えてまで川原で待っているのは、妹に指示されたからというだけじゃない。仮に妹がやってきてくれたとしても、それで許してもらえるとは限らない。

 それなのに、暖房の効いているであろう自宅に帰らず、雪の降る屋外で佇む行為に僕が固執していた理由。

 その答えも、姉に簡単に言い当てられてしまった。


「……僕が待っていたのは……いや、僕がこんな場所で佇んでいたのは、そうしないと僕自身が僕を許せないからなんだ。いま、姉ちゃんの言葉で気づかされたよ。僕は、妹に悲しい思いをさせてしまった。だから僕は、妹に与えてしまった悲しみと同等の罰を受けないと、僕自身を許せないんだと思う」

「理奈の一方的なわがままじゃない。どうして優くんが責任を感じなければならないの?」

「断らなければならない申し出だったけれど、言い方しだいでは理奈が僕に反感を抱くことはなかったと思うんだ。その点が僕の落ち度で、これがその償いだよ」

「優しすぎるわよ、優くんは。初めに言ったけれど、こういう時はもっと怒ってもいいはずよ」

「それだと妹の望みを叶えるっていう目的から更に遠ざかりそうだからね。それに、いまのところ彼女に対する激情もないから、怒る理由がないんだ」

「それじゃあ、やっぱり優くんはここで待ち続けるつもりなの? 理奈が迎えにくるまで」

「いや……戻ることにするよ。姉ちゃんのおかげで、妹に許してもらうためには、妹に直接許しを請わなければ駄目だとわかったから。どうすれば事態を収拾できるか、彼女と話してみる」


 鮮明な線で描きなおした行動予定を告げると、姉は強く握っていた僕の手を解放した。ほんのりと熱で紅くなり、微かに白い息を口元から漏らす姉の表情からは、どこかまだ浮かない様子が察せられる。


「……わかったわ。さっきも言ったけれど、理奈と優くんの関係が修復できるようにあたしも助力させてもらうから、話し合いにあたしも同席していいかしら?」

「むしろお願いするよ。姉ちゃんがいてくれれば僕も気が楽だ。もしも妹が暴走しちゃったら、諫めるのを手伝ってほしい」

「ええ。そうと決まれば、身体がこれ以上冷えないうちに家に戻りましょう。ヒーターは付けてあるから、家の中は暖かいはずよ」

「うん。正直結構つらかったから、ありがたいよ」

「………………つらかった、わよね」


 踵を返して背中を向けた姉が、何かを呟く。


「姉ちゃん、いま何か言った?」


 僕の問いかけに姉は足を止め、首を回して後ろに立つ僕を見据える。


「……いいえ、なんでもないわ。ちょっとした独り言よ」


 そこで見た彼女の笑顔は、いつか目にした露骨な作り物の笑顔だった。

 


 未だに日常に混ざり続ける粉雪は、なおも街に降り注いでいる。真冬を演出するための最低限度しか舞っていない白い雪は、やはり地面を染め上げるまでには至っていない。姉と歩く住宅街のコンクリートは、表面は濡れているけれども雪によって白く上塗りされているわけでもなく、いつも通りの踏みなれた灰色を家々の間に張り巡らせている。

 数時間ぶりに帰ってきた自宅の入口に、先を歩いていた姉が手をかける。


「待って、僕が先に入るよ」

「……わかったわ」


 簡素に返事だけして、姉は玄関口の端に寄って道を譲る。答えるまでに若干の間があったのは、僕に一言声をかけたかったからなのかもしれない。自分を騙した妹への応対が間近に迫り緊張している僕にとっては、余計な考えをせずに済むため、必要以上を伝えない姉の配慮はとても助かった。

 玄関口の前に立ち、扉の取っ手を握る。取っ手は外気に晒され続けて冷えていたけれど、自分の手も似たような体温だったのでどちらの方が冷たいのか判然としない。

 取っ手を引くと、電子レンジから取り出した弁当の蓋を開けた時のように、温かい空気が溢れ出てきた。平常時の体温に近い温度に触れて、心の強張りが弛緩する。

 それも一瞬。自分がこれから何をするのかを反芻して、再び心を引き締めた。

 玄関で靴を脱いだ僕は、廊下の突き当たりにあるリビングへ続く扉に手をかけて、恐る恐る室内に足を踏み入れる。

 食卓の隣にある二人掛けのソファーを丸々使って横になりながら、妹は仰向けで携帯電話をいじっていた。メールかゲームに夢中なのか、それとも気づいていないフリをしているのかわからないけれど、彼女は僕が部屋に入ってきても微動だにしない。

 遅れて姉がやってきて、リビングの扉を閉める。

 三人の家族が居合わせた一室には、誰も見ていないのに電源が付いているテレビの音声だけが響いている。

 寝転がって片手に携帯電話を持ち、もう片方の手で画面を気だるそうに操作していた妹が、操作することを止めて両腕をソファーに下ろす。携帯電話によって隠れていた彼女の瞳がゆっくりと動き、僕と姉の立っている辺りに視線をやって、目が合う前にまた逸らした。


「はぁ。やっぱり、おねえちゃんはおにいちゃんを迎えに行ってたんだね。理奈としては、余計なことはしてほしくなかったな」

「っ! 理奈、あなたねぇ!」

「落ち着いて、姉ちゃん。僕と理奈に喋らせて」

「――ええ」


 姉は食卓にある椅子の一つを引くと、それ以上は何も口を挟まずに座り込んだ。少々険しさを伴う眼光が、妹の寝転がっている方角に向けられている。


「おにいちゃん、なんで戻ってきたの? 理奈言ったじゃん。待ち合わせ場所は山の中にある川原だって。まだ理奈と合流してないのに、どうしておうちに帰ってきたの?」

「あのまま外で待ってても、何も進展しないと思ったからだよ。それで解決したとしても、理奈も僕もきっと後悔する。有耶無耶にしてしまったら、溝が残ってしまうと思ったんだ」

「理奈の気持ちをわかったような言い方しないでよ。おにいちゃんなんか、理奈の気持ちなんかわからないくせに。理奈がどんなに勇気を出して、どれだけの覚悟で昨日おにいちゃんに想いを打ち明けたのかも知らないくせに!」

「わかってるつもりだよ。完璧なのかって訊かれたら、はっきりとは答えられないけど」

「そんなのおかしいよ。だってわかるはずないもん。理奈、昨日までは一度も自分の気持ちを誰かに喋ったりしなかったもんっ!」

「昨日教えてくれたじゃないか。あれも嘘だって言うなら話は別だけど……だけど、あの言葉で理奈が怒ったり悲しんだりしているなら、あれは嘘じゃないんだよね。だったら、僕は理奈の心を少しだけなら知ってるつもりだよ」

「じゃあ、どうして理奈のお願いを断ったの? 断られたら理奈が悲しむことくらい、理奈の気持ちがわかってるなら予想できたじゃん。おにいちゃんは、理奈をいじめることが目的なの?」

「そんなわけないじゃないか。理奈の頼みを受け入れなかったら、理奈がすごく悲しい思いをすることになるくらい、僕だってわかってたよ」

「……信じられない。つまりおにいちゃんは、理奈を傷つけることが趣味なの? ひどいよ……」

「それも違う。だけどね、理奈。僕にだって僕の願いがあるんだ。今回は、僕の願いと理奈の願いが重なってしまったんだ。人生は一度きりだから、選べるのはどちらか片方だけ。僕は僕の願いを捨てたくはなかったし、叶えなければならない重い使命を背負ってるんだ。だから、理奈が最初に告げてくれた願いは、僕には形にしてあげられないんだよ。これは嘘じゃない。全部、僕の本当だ」

「おにいちゃんは、理奈よりも自分が大事なの?」

「自分も大事だけど、周りの人も大事だと思ってる。僕の願いは、叶えれば信じられないくらい大勢の人が助かるんだよ。それこそ、この地球上にいるほとんどの人間が助かるかもしれない」

「地球の……?」

「うん。細かいことは言ってもわからないだろうから省くけど、それくらい重大な使命なんだ」

「……そんなこと、理奈には教えてくれなかったじゃん」

「そうだね。ごめん理奈、僕が悪かったよ。いくら難しい内容とはいえ、理奈には事情をきちんと話すべきだったって反省してる」


 理由も語らず断ったのだから、理奈が僕のことを知らないのは当然だ。まずはその点を弁解しなければ、話し合いの成立するような関係にまでは修復できない。

 僕は謝罪して、願いを断った背景にある思いを彼女に教えた。距離的には聴こえているはずだけど、ソファーの肘掛けを枕にして寝ている少女の瞳は、話している僕ではなく何もない天井を見つめている。

 構わずに、僕は言わなければならないことをまくし立てる。


「僕にはどうしても譲れない理由があるから、昨日の理奈のお願いは叶えてあげられない。だけど、他にも願望があるなら、そっちは叶えてあげられるかもしれない。代わりにはならないかもしれないけど、別の願いがあるなら、僕はそれを叶えるための協力は惜しまないよ。理奈、これで機嫌を直してくれないかな?」

「別の願いなら、おにいちゃんは受け入れてくれるの?」

「僕にできないことじゃなかったら協力するし、僕の力で解決できるなら、僕が理奈の願いを叶えてあげるよ」

「そうなんだ。……そう。……じゃあね――」


 妹は携帯電話を持っていない方の手を、ソファーと背中の間に回した。腰を逸らせて、その隙間に片腕の肘から先を隠す。

 何かを探すようにごそごそと腕を動かした後、隠されていた手が引き抜かれる。現れた手には、長さ二十五センチほどの細長い物品が握られていた。

 妹がソファーから立ち上がり、その場で僕に取り出した物品を差し出す。


「おにいちゃん、これを受け取って」

「理奈、それは……」

「いいから早く受け取って。理奈の願い、叶えてくれるんでしょ?」


 ようやく僕を見てくれた理奈が、感情の読み取れない虚ろな目で渡そうとしている物。

 僕にはそれが何かわかっていた。相変わらず強張らせた表情で様子をうかがっている姉も察しはついているだろう。問題は、そんな物騒な物を僕に寄越して、妹は何を要求するつもりなのかという点だ。現実離れしていて、憶測さえもできない。

 僕はソファーまで近づいて妹が差し出している物品を受け取ると、彼女はまた寝転がって携帯電話を顔の前にかざし、端末で僕の視線を遮った。

 妹はつまらなさそうに画面を触りながら、冷淡に要求を口にする。


「中身を出して」

「ここで?」

「そうに決まってんじゃん。早くしてよ」

「……わかった」


 どうしてこれを妹が持っていて、なぜこんなところで出さなければならないのか。

 林檎の皮むきでも頼むつもりだろうか。だとしても、そんな些細な願いごとを僕に願う意味がわからない。そもそも、目が届く場所には林檎どころか果物さえ見当たらない。

 物騒な予感が脳裏に浮かび始める。不穏な未来を予見しながらも、僕は彼女に言われるがままに、渡された物品を皮製の入れ物から取り出した。

 姿を見せたのは、銀色に輝く刀身。握った僕の手のひらに隠れているは黒色の柄。

 刃を納めていた茶色のシースは、いまは空となってソファーで囲う座卓に置かれている。

 妹が隠しており、僕が受け取った物品は、キャンプをする際に父親が愛用しているサバイバルナイフだった。

 戸惑いに揺れる僕の顔に一瞥もくれないまま、携帯電話の画面に視線を向けている妹が、なんでもないような口調で次の要求を告げる。


「おにいちゃん、それ、自分の胸に刺して」

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