第29話

 白銀の光が降りてきている。灰色の世界の果てから無数に、地表へと。

 この白い小さな光は、どこからやってくるのだろう。原理くらい知っているけれど、なぜだか僕は、次々と光の生まれてくる曇り空を眺めながらそんなことを考えていた。

 頭でわかっていても、心で納得できるとは限らない。

 頭でわかっていても、心が受け入れられるとは限らない。

 積もるほどの量ではなかった。ゆらゆらと不安定に揺れながら落ちてくる雪は、僕の着ているコートの表面を濡らしていく。

 雪は僕の頬にも触れて、肌の温度で解けて水滴に変わる。髪も湿り、僕の顔は霧吹きを数回吹き付けられたように濡れていた。

 そんなことは、どうでもよかった。

 今日は寒い。凍えた風が、家を出た時から飽きもせずに僕の周りをうろついている。全身に付着した水分が空気に冷却されて、意識していなければ全身が小刻みに震えてしまう。

 こんな寒い日には、学校でもない限り外出なんてするもんじゃない。今日は日曜日であり、僕が外に出る理由なんて1つとしてあるはずもない。

 そのはずだった。

 昨日の夕方、彼女の願いを聴いてあげる瞬間までは。


「寒いなぁ……」


 身体が伝えてくる訴えを口にしてみると、撫でつける風の温度が更に低下したように感じた。錯覚なのか、それとも実際に下がったのか。僕に判断する術はない。

 意味のない呟きをする僕は、森の奥に流れる川原のすぐそばに立っていた。さぞかし冷えているであろう丸々とした大小様々な砂利が敷き詰められた地面の上、清冽で穏やかな川のせせらぎだけを耳で聴きながら、飛沫が届く寸前の位置に立ってぼんやりと口を開けて空の奥を見つめている。


 ――なんで僕はここにいるんだろう。寒いし、早く帰るべきじゃないか。


 浮かんだ疑問の答えは自らの内側に既に用意されている。


 ――だけど、彼女がまだきていない。


 ポケットから携帯電話を取り出し、画面が雪で濡れることも厭わずに現在時刻を確認する。

 時刻は、十三時を回ろうとしていた。

 彼女と約束した集合時間は十二時。気がつけば、ぼんやりと過ごしている間に一時間も経過していたようだ。

 彼女からの連絡は何もない。遅れるという返事も、いま何をしているかの報告も。

 一旦自宅まで帰ることはできた。メールでその旨を連絡して、自宅で合流してから改めて出かけることだってできたはずだ。

 理屈で考えればできたのだろうけれど、僕にはそれができなかった。


「……仕方ないじゃないか」


 仕方がない。粉雪の舞う凍える日に、川原でぼんやりと立っていなければならない理由があるのだから、戻るわけにはいかない。


『明日も、理奈と遊んでほしいな』


 彼女の望みを一つ潰してしまったんだから、代わりの願いは叶えてあげたいと思うじゃないか。

 今朝の出発前にした会話が記憶の中心で蘇る。


『おにいちゃん、昨日の夜に話したとおり、今日は裏山にある施設で理奈とデートだからねっ。昨日は人がたくさんいるとこで遊んだから、今日は自然の中で遊ぶんだよっ!』

『理奈、ひとつ訊きたいんだけど、起きてから1回くらい外を見た?』

『見たよ? 今年初めての雪が降ってて理奈テンションあがっちゃったもん! 量が少ないから、積もらないのがちょっとショックだけどね~』

『こんな日に、本当に外で遊ぶの?』

『ひどいよおにいちゃん! こんな日なんて言っちゃ嫌だよ! 理奈は雪が大好きなんだからねっ! 雪の降る日に外を散歩することも大好きなんだもんっ! 絶対理奈とデートしてくれないとダメだよ! 嘘つきになっちゃうよっ!』

『わ、わかったよ。大丈夫、約束は守るから。それで、何時にここを出発するの? 昼前には出るって話だったけど、具体的には聞いてなかったよね?』

『それなんだけどね、理奈ちょっと用事ができちゃったから、これから出かけなくちゃいけなくなったんだよ。また家に戻ってくると遠回りになっちゃうから、おにいちゃんとは現地集合にしたいんだけど、いいよね?』

『かまわないよ。時間と集合場所さえ教えてくれれば、そこで待ってるようにするから』

『ありがとっ。えっとね、それじゃ、場所は施設に入ってすぐ横にある石段を降りた先の川原で、時間は12時ちょうどで!』

『問題ないよ。それより、その時間だとご飯を食べてからいくべきか微妙だけど、それはどうするの? 理奈が食べてくるなら、僕も早めの昼食を摂ってから向かうようにするけど』

『ご飯は食べてこなくていいよっ! 理奈がお弁当買ってきてあげるから、向こうで一緒に食べよ?』

『わかった。先に現地に行って、理奈の弁当を待つことにするよ』

『楽しみにしててねっ! ……ところでおにいちゃん、今日のこと、おねえちゃんには話してないよね?』

『してないよ。話してほしくないんだよね? 心配しなくても、今日は友達の家に遊びにいくって言ってあるよ。姉ちゃんの知らない友達の家に、ってね』

『よかったぁ。それを聞いて安心したよっ! あっ、ヤバっ! 理奈そろそろ出ないと間に合わないっ! おにいちゃん、理奈ちょっと行ってくるね! またあとでっ! 遅れそうになったら連絡するから、絶対待っててよ!』


 ……そうだ。

 絶対にこの場所で待っていることを望まれたのだから、動くわけにはいかない。

 自宅に帰るような真似をしたら、彼女を傷つけてしまうかもしれない。

 心身の穢れを浄化してくれそうな清潔な白色は、けれども僕を清めてはくれない。


「仕方ない、じゃないか」


 あの純真無垢な彼女からは想像することすら難しいけれど、いま彼女が僕に対して何をしているかは、待ち合わせの時間から三十分経過したあたりから薄っすらとわかり始めていた。

 握りつぶせるほどささやかな疑念が形作る憶測だとしても、一時間も経てば確信めいた推測に進化する。

 僕だって、そこまで鈍感ではないつもりだ。平均的な洞察力くらいは兼ね揃えている。

 だからこそ、僕は自分が彼女に何をされたのかなど、とうに知っていた。知っていてそれでも僕が抱いた感想は、やはり仕方ないというものだった。

 これはきっと罰だ。

 しかし、妹はなんらかの事情で僕に連絡をとることができないだけかもしれない。姉や母からも連絡がないあたり、大きな事件や事故に遭ったわけでもなさそうだけれど、携帯電話が破損しているだとか、件の用事に夢中で忘れているだとか、その他の理由に起因しているのかもしれない――。


「馬鹿だな、僕は」


 ここから自宅は近い。電話が壊れてしまったのなら、借りればいいだけのこと。事故に遭った可能背もあるだろうけれど、考慮するに足りる理由ではない。

 となれば、答えは――。

 ……だから、これは罰だ。願いを拒んだ償い。受け入れることこそが、あるいは彼女の願望を満たして世界の救済に繋がるかもしれない。およそ現実的ではないその考えを、僕は信条とするしかなかった。

 雪は勢いを緩めることもなく、激しくすることもなく、落ちきってしまえば地熱で即座に溶解する儚さのまま、ひたすらに重い空から降ってくる。

 外気は、内側から下がっていく僕の温度を外側からも下げていく。濡れた顔を拭わぬまま、僕はただ、〝来るはずのない待ち人〟を集合場所で待っていた。


 ――いったい、いつまでこうしているつもりなのだろう。

 ――いったい、いつまでこうしていればいいのだろう。


 答えをくれる相手はいない。この場所にいないのではなく、存在していない。

 妹に訊くなんて、それこそが一番の誤りだ。彼女に訊いて、それで許してもらえたところで僕は彼女の願いを聞き入れることはできないのだから。

 決めなければいけないのは僕自身だ。

 けれども僕には、どうすれば正解なのかがわからない。

 何もわからないから立ち尽くし、妹に背負わせてしまった悲しみが雪と同じように溶けて消えるのを無心で待っている。

 雪と同じように消えるかもしれないのなら、この雪が降り止むまではここにいよう。この悲しみが止まってから、それからどうするのかをまた考えよう。

 僅かに思考能力が蘇り、そしてまた薄れていく。寸秒で結論を出した僕の脳は再び休眠状態に移行しようとした。

 思考を閉じかけた時、それを遮るように、背後から乱暴に土を踏み鳴らす音が聞こえてきた。自然の奏でる音を全てミュートにしているような静寂の中、その不自然な音は森全体にこだまする。

 ランニングでもしている人がいるのだろうか。こんな日にまで外に出てランニングするなんて、スポーツをしている人物の考えていることは僕には理解できない。

 そんなことを思ったけれども、向こうからすれば雪の降る日に川原で目的もなく突っ立っている僕も大概だろう。


「はは……」


 自嘲するように久方ぶりに頬を動かしていると、音が段々と僕に近づいてきていることに気がついた。砂利を煩わしく打ち鳴らし、更に音は大きくなる。

 そもそもランニングというのは砂利道でも行うものなのかと不思議に思い、僕は川に背を向けて振り返ってみた。


「はぁっ……はぁっ……」

「あっ……」

「はぁっ…………――優くん!」


 眼前で立ち止まり、両足の膝に手を置いて前傾姿勢のまま身体を上下させて肩で息をしていたのは、ランニングをしている他人ではなく、紛れもなく僕の姉だった。


「――優くんっ! こんなところで何やってるのよっ!」

「たぶん、理奈がくるのを待ってる……んだと思う」

「っ! 待つにしたって、もっと場所を選べばいいじゃない! どうしてこんな冷える川の傍で……。まさか、それも理奈に言われてそうしているのではないでしょうね?」

「待ち合わせ場所は川原だって約束したからね。ここにいないと、理奈が来た時に怒られるよ」

「怒られるって……怒るべきなのはあなたの方じゃないっ!」

「僕が理奈に怒らなきゃならない理由なんてないよ。僕は理奈を傷つけたんだから、理奈が僕を傷つけようとするのは当然だよ。それが気に入らないってやり返したら、永遠に僕達は睨みあったままになってしまう。そんなのは嫌なんだ」

「……全部、わかっているのね?」

「理奈がそこまで思い切ったことをするとは信じられない気持ちもあるけど、それが一番可能性が高いだろうなとは思ってたよ」


 自宅から走ってきてくれたのだろう。姉の柔らかな髪が濡れているのは、雪が溶けて湿ったことだけが原因ではない。

 姉は、乾いた唇から降りしきる雪と同じ色の吐息をこぼしている。僕もまた、同じ色の息を吐いていた。


「理奈は、僕に嘘をついたんでしょ?」

「…………ええ」

「だったら、やっぱり仕方ないよ。僕だって理奈に嘘をついてきたんだ。それに、先に嘘をついたのは僕なんだから、悪いのは僕の方だよ」

「あたし達が理奈の正体について本人に黙っていたことを指しているのなら、それは気に病む必要のないことよ」

「そんなことないよ。隠しごとをしていたのは確かだしね。彼女を混乱させないための嘘だとしても、理奈からすればそれが良い意味なのか悪い意味なのかなんてわからないし、関係ないよ」

「でも、そもそも理奈が、あたし達の隠しごとに気づいているはずがないわ。気づいていたら、自分がどういった存在なのか、あたしか優くんに確認をとるはずよ?」

「うん。きっと、そうするだろうね」

「あたしに対して、彼女はその件について訊ねたことはないわ。その口ぶりだと、優くんも訊かれていないのでしょう? なら、まだ知られていないはず」

「自分が十三月の到来によって生まれただなんて、理奈はまだ知らないと思うよ。それでも僕が嘘をついているのは事実だ。それに、さっきも言ったけど、僕は彼女を傷つけてしまったんだ。だからおとなしく罰を受け入れるべきなんだよ。彼女の怒りを鎮めるためにもね」

「それ、昨日のことよね? 昨夜、優くんとのデートの感想を理奈に訊いたのだけれど、彼女、とても楽しそうに色々と話してくれたわよ?」

「……そう、なんだ」


 異様に洞察力の優れた姉は、僕の反応だけで全部理解してしまう。


「彼女も、何か隠していたのね」

「他人にぺらぺら喋るような話でもないから、そこだけ伏せたんだと思う。僕だって、自分から誰かに話そうとは思わないだろうし」

「いったい何があったの? 買い物の最中に、何かの事件に巻き込まれたの? 昨晩と今朝のニュースを見た限り、それらしい報道はなかったけれど」

「そんな大層なものじゃないよ。ただ――」


 伝えても良いのか迷った。

 しかし、相手が姉であるなら他言しないと信頼できる。それに、状況を説明するには、どの道避けられない話題だ。


「ただ――ショッピングモールの最後に回ったゲームセンターで、妹にお願いされたんだ。『一生一緒にいてほしい』ってね」

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