第28話
居心地の悪さに正体不明の悪寒が混じる。それ以外にどうしようもなく、妹のいる筐体のすぐ横まで引き寄せられるように移動する。カーテンの下から見える妹の履いている黒いブーツは、つま先が僕の方に向けられていた。
全身にほとばしる内側から沸き起こる寒気が、居心地の悪さを打ち消すほどに強くなる。
これから、答えを聞けるのだろうか。
僕が妹の願望を聞き入れたのは、それで世界の救済に近づける可能性が高いと判断したからだ。彼女の要求が満たされた後で、間接的に〝紅葉した大木〟が〝花を咲かせた大木〟、もしくは〝蕾を作った大木〟にでも変貌してくれるのだと想像していた。
けれど、間接的ではなく直接的な手段である可能性だってある。
妹自身が実は手がかりを握っていて、これまでは隠し通してきたけれど、それを僕に教えてくれようとしているのかもしれない。世界の破滅だとか十三月だとか、第三者に聞かれたら精神異常者だと思われかねない単語を口にしなければならない故に、外界とある程度断たれたプリクラ筐体に僕を案内したのかもしれない。
いずれにせよ、これからプリクラを撮る女の子の態度ではないのは確かだ。
そして僕は、やはりそれ以外にどうしようもなく、早鐘を打つ胸を抱えたまま動揺が顔に出ないよう注意を払いつつ、白色のカーテンを捲って筐体内に足を踏み入れる。
そこにいた理奈が、背後で手を組みつつ、先ほどと変わらぬ真剣な眼差しで僕の瞳を見つめてきた。向き合った僕は目を逸らすこともできず、高校生とは思えないほど小さく幼い顔立ちの少女と見つめあう。
筐体内はやけに静かだった。センサーが僕達に反応して操作方法の説明を流してもおかしくないけれど、スピーカーだけがミュートにでもなっているように、無音の空間で照明だけが時折パターンを変えつつ狭い室内を照らしている。
「……おにいちゃん。……あのね。理奈ね、おにいちゃんにずっと言いたかったことがあったんだ」
「なに、かな?」
「理奈ね――」
再び静寂が訪れそうになるけれど、今度は彼女がすぐに言葉を繋いだ。
「おにいちゃんのことが、好きなの」
彼女は真摯な眼光でそう告げる。眼差しには、冗談など寸分たりとも混ざっていない。
存在自体が歪で、何が間違っているかと問われれば、その全てとしか答えられない〝いないはずの妹〟。
その彼女が、僕のことを好きだと言ってくれている。
「……はは、ありがとう。けど、改めて言われると困っちゃうなぁ」
「違うんだよおにいちゃん。理奈の〝好き〟は、おにいちゃんが思ってるような好きじゃないよ? もっとおっきくて、あったかくて、伝えるのにたくさんの勇気が必要な、ほんとうの〝好き〟なんだよ」
「それは……」
「妹としておにいちゃんのことが好きなんじゃなくて、女の子として、男の子のおにいちゃんが好きなんだよ」
「理奈……」
「理奈、おにいちゃんが好き……今日はおにいちゃんと一緒にいられて、二人だけで過ごせて、今までで一番楽しかったんだ。おにいちゃんが理奈だけを見てくれて、理奈もおにいちゃんだけを見れて、夢みたいだって思った」
「……」
彼女は、僕のことを好きだと、異性として僕のことを好きだと告白した。
しかし――
その〝好き〟という感情は、どこから来たものだろうか。
この世界に存在しないはずの彼女。いつの間にかそこにいた彼女。その彼女の抱く好意の概念は、いったいどこで生まれたのか。
それは本当に、彼女の内側から生まれたものなのか。
それとも、外側から与えられたものなのか。
理詰めで考えれば後者、理想に基づくなら前者。
僕は、彼女の本心から導かれたとも分からぬ発言を、どんな気持ちと言葉で受け止めればいいのだろう。
「ほんとに、今日は夢の中みたいな一日だったよ。ううん、実際にね、理奈は何回も、何十回もおにいちゃんと二人で遊んでる夢を見たことがあるよ。これが正夢っていうのかな。でもね、夢も叶っちゃえば、夢じゃなくなるって理奈は思うんだ」
「そう、かな?」
「そうだよ。だからね、これは正夢なんかじゃないよ。代わりなんてない、かけがえのない現実。この世界で願いが実現したら、きっとそれはずっと壊れない。神様にだって壊せないくらい頑丈なんだよ。……でもね、理奈はまだ願いを叶えてない。だからね、おにいちゃん。理奈の大好きなおにいちゃんに、おにいちゃんが大好きな理奈から一生に一度だけのお願い」
「……」
「おにいちゃん、理奈と――」
これで、終わったと思っていた。
理奈と一日を二人きりで過ごして、彼女に楽しい時間を満喫してもらい、それで自分は世界の救済に貢献できたのだと思い込んでいた。
僕に与えられた役割は、それで果たせたのではなかったのか。
理奈に与えられた役割が、それで果たされるのではなかったのか。
……僕は、勘違いをしていたのだと気がついた。
まるで自分と妹の姿を監視カメラのレンズを通して俯瞰的に眺めているように、冷めていく頭脳で真実を理解した。
いまこの瞬間、この場に立ってようやく、彼女の願いを聞ける段階に至ったのだと。
「理奈と、これから二人で暮らそう?」
「……それって、つまり、家出するってこと?」
「そうなるのかな。理奈とおにいちゃんの二人で、ここからもっと遠い所にいって、二人だけで幸せに暮らしたいんだよ。そうすれば、おにいちゃんは理奈だけのものになるからね」
「冗談だよね、理奈。ふざけてるなら、僕も怒るよ?」
「ふざけてないよ。理奈本気だもん。ほら、これを見ても、おにいちゃんは理奈が冗談でこんなこと言ってるって思う?」
これまでの彼女からは結び付かない落ち着いた口調で反論しつつ、彼女は羽織っていた白色のコートの内ポケットから、封の閉じられた長方形の茶封筒を取り出す。
浮かび上がっている輪郭から察するに、中身はより小さく同形の何かであることがうかがえた。
「これだけあれば、ずっとは無理かもしれないけど、数ヶ月なら生活できるはずだよ。住むとこだって用意できるよね?」
「まさか、それ、全部お金なの?」
「そうじゃなかったら証拠として見せたりしないよ。これで家を用意したら、理奈とおにいちゃんの二人で働こう? そうすれば、ずっと二人でも生きてけるよね?」
「待って待って待って! そもそも、そのお金はどうしたんだよ。百万円くらいある厚みじゃないか。そんな大金、どこから持ち出してきたんだ?」
「おかあさんとおとうさんの寝室にね、金庫があるでしょ? おにいちゃんは知らないかもしれないけど、あの金庫にね、もしもの時のためにって、おとうさんが現金を入れたんだよ」
「父さんが取っておいたお金が、その封筒の中身か」
「うん。だけど、これは正しい使い方だと思うんだー。だって、理奈はお金がないけど、おにいちゃんと二人で家出したい。それも、いますぐに。これは非常事態なんだから、金庫のお金を使っても問題ないって、理奈はそう思うんだよ」
「バレたらとんでもないことになるよ?」
「ばれちゃってもそうじゃなくても、おとうさんには後で説明するよ。働いてお金が貯まったら、いつか絶対に返すって。それなら犯罪にはならないよね?」
「そうだとしても、どうして今なんだよ。僕達はまだ学生だ。その願いを叶えるのは、卒業してからでもいいじゃないか」
「じゃあ、理奈とおにいちゃんが高校を卒業したら、おにいちゃんは理奈の願いを叶えてくれる? 二人で住んで、一生理奈と一緒にいてくれる?」
「いや、それは……」
無理な相談であることは明白だった。
そもそも、彼女が卒業することなんて、まずあり得ない。
高校二年生に上がることすらない彼女が、どうしたら卒業なんてできるだろう。
十三月は、あと一ヶ月もしないうちに終わるんだ。
これまでのように嘘をつくべきか。何も知らないふりをして、何も知らされていない彼女を騙し、叶いもしない願いを叶えようと誓ってやり過ごすか。
……もしくは、彼女の願望をここで果たしてあげるべきか。
彼女は期間を〝一生〟と告げた。けれども、十三月の救済に関わるのであれば、〝一生〟とは本来の意味と比較すればあまりにも僅かな時間に置き換えられる。
それで世界が救われるのなら、僕はそうするべきなのかもしれない。
しかし、必ず意図した通りの結果が得られるという保証もない。
それともう一つ。水底から水面に浮かび上がってくるように、不意に姿を見せた感情が、僕に彼女の願いを拒絶すべきだと背中を押していた。
迷いに混ざり脳内に這い上がってきたその感情は、淡紅色のコートをまとった少女の形をして微笑んだ。
妹の願いに付き合えば、次にいつ姉と合流できるのか分からない。もしかすると、そのまま十三月が終わり、彼女とは会えないままで別れるかもしれない。
近い未来に別れることが殆ど確定しているのに、僕はそれが嫌だった。
ただ、それが何故なのかを、僕はうまく言葉にすることができない。ただ、なんとなくこのまま会えなくなるのは悲しく、虚しすぎると、そう思った。
そう思ったから、答えも決まった。
「……理奈、僕は――」
妹の願望を叶えることが世界の救済に近づく道だと推測したのに、姉と二人で導き出した答えなのに、僕は逆らおうとしている。
「僕は、君の願いを――」
彼女は怒るだろうか。
たぶん、きっと怒るだろう。それは仕方がない。
決心を固めた僕は、運命を分岐させてしまうであろう言葉を、相手の耳にまで届くようにはっきりと声に出した。
「君の願いを、叶えてあげられない。理奈のその願いは、叶えてあげられないよ」
「っ!」
口を半開きにして理奈が俯く。
身長差のある僕の視点からは、彼女の表情をうかがうことはできない。
「……そっか」
「ごめんね、理奈」
「……ううん。おにいちゃんは悪くないよ。理奈、ちょっと勝手すぎたかもしれないね」
僕に背中を向けた理奈は、少しずつ明るさを取り戻しつつ返答した。
「理奈は悪くないよ。だって理奈は、自分の願いを正直に教えてくれたでしょ? 素直でいることは間違いなんかじゃないよ」
「おにいちゃん……」
視線を落とす直前に見せた表情のまま、彼女は顔を上げた。
悲痛とも受け取れるし、無感動とも受け取れる表情だ。
推察も不可能なほど感情を殺している彼女が、再び顔を影に隠す。
消え入りそうに弱々しい声で、妹は囁く。
「……れなら…………いかな……?」
「ごめん理奈、よく聞き取れなかったから、もう一度言ってくれるかな?」
「……あのね、それなら、別のお願いをしてもいいかな?」
「いいよ。だけど、さっきみたいに難しい内容だったら、また叶えてあげられないかもしれない」
「……あのね、一生がダメなら、明日も、理奈と遊んでほしいな。今日みたいに、二人だけで」
「それくらいなら問題ないよ。明日は特に用事もなかったはずだし、いくらでも付き合えるよ。翌日が学校だから、遅い時間までは無理だけど」
「……ほんと?」
「本当だよ。正直な理奈に、嘘はつけないよ」
そしてまた僕は嘘をつく。
世界の救済という大義名分を盾にして、無実の妹に嘘を重ねる。
次に顔を上げた時、彼女は普段通りの明るさを表に出してくれていた。
「やったっ! んと、どこに行くかは決めたら教えるねっ!」
「わかった。場所はまた理奈に任せるよ。それじゃ、そろそろ帰る?」
「うんっ! かえろーっ!」
「あ、せっかくだからこれ撮ってく?」
踵を返しかけて、僕は筐体のコントロールパネルと思しき部分を指差した。
意外なことに、彼女は僕の提案に対して首を横に振った。
「ううんっ。おにいちゃんと二人で話したかっただけだから、やらなくてもいいよ。それに実は理奈、プリクラってあんまり好きじゃないんだ~」
「そうなの? なんというか、少し意外だなぁ」
「意外でしょ~? 理奈にもね、色々あるんだよっ!」
曖昧に答えつつ、小さな身体に押し出されるフリをして筐体の外に出る。
見た目の年齢相応に機嫌の緩急が激しいと感じつつも、今回ばかりはそれがありがたかった。彼女が癇癪を起こしたりせず、静かに僕の回答を受理してくれたことに深く安堵した。
下方修正された望みだとしても、それが今度こそ世界の救済に助力してくれたらいいと前向きに願いながら、僕はショッピングモールの出口を目指す彼女の背中についていった。
そうすることで、自分の感じた不安を忘れるように。
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