十三月に舞う雪桜
のーが
第1話
その日の朝、僕はいつもと同じように、自分の部屋のベッドで目を覚ました。
起き上がると、いつもと同じように、まず部屋のカーテンを開け放つ。
窓から見える景色は、昨日の予報通り鬱陶しいくらいの快晴だ。すぐ近くから鳥のさえずりまで聞こえてくる。
太陽は無邪気に輝き、外側に広がる世界を健気に照らしていた。冬の乾燥した空気に追い討ちをかけているようだ。
ベッドの上に置かれている携帯電話を手に取り、画面に表示されている時計に目を落とす。
時刻は、既に8時を回っていた。
普段であれば、もう家を出発していなければ始業には間に合わない。
しかし、もう意味のないことだ。
僕は明るい世界に背を向けて、一階にある食卓に向かうことにした。
食卓には明かりが点いておらず、カーテンも閉められたままだった。
つい数日前までは騒がしかった憩いの場所も、いまは虚しい静寂が支配している。
キッチンに歩いていくと、コンロに置かれたままのフライパンが目に入った。
「朝食くらい、ここで作っていこうかな」
この状況になって初めて、朝食を作る大変さを思い知った。卵を焼いて味噌汁を作るだけでも、後片付けまで含めたら相当な時間と手間を要する。
「母さん……」
もしもまた会えるなら、その時にはまず最初に感謝をしよう。僕はそう心に誓った。
少し見回して〝彼女〟の姿を探してみるけれど、どうやらここにはいないようだ。
「まだ寝てるのかな。出発の日なのに……準備が全部終わってるならいいんだけど」
食卓を後にして、下りてきたばかりの階段を上って彼女の部屋を目指す。
「あ、そういえば……」
最後の段を踏んだ時、ふとやり残したことを思い出した。
僕は予定を変更して、自室のドアノブに手をかけた。
自室に戻ると、壁にかけてある日めくりカレンダーの前まで一直線に歩み寄る。
カレンダーの手前で立ち止まると、案の定表紙がまだ昨日の日付を示していた。
やり残したこととは他でもない。このカレンダーの表紙を更新することだ。
「さっさとめくって起こしに行かないと」
一番上にある紙を親指と人差し指でつまむ。
そのまま引っ張ってちぎり取ろうとした時、傍らに置いてある限界まで膨らんだリュックサックに目が留まる。
余計な考えが浮かぶ前に視線を戻し、つまんだままのカレンダーの数字をジッと見つめた。
これをめくるのも、今日で最後になるかもしれない。
何年間も、毎朝欠かさずにめくってきた。枚数にすれば、千枚は軽く超えるはずだ。
習慣とは恐ろしいもので、最初の頃は面倒だったこの作業も、気づけば当たり前となっていた。当たり前になれば苦痛とも無縁となる。カレンダーを毎日更新するという単純作業は、それを僕に教えてくれた。
その〝当たり前〟も、今日で終わる。
油断した僕の脳裏に、忘れていたはずの幸せだった日々の記憶が蘇る。思い出が、内側から胸を強い力で締めつける。
失くしてしまって、もう遅すぎるけれど、今頃になってようやく理解した。
僕は……。
――幸せだったんだ。
「……なんでこんなことになったんだろう。どうして、僕達だけ……」
それは、避けようのない理不尽な出来事だった。
「いったいこの先、何が起こるんだろう」
抑えようのない大きすぎる不安は、僕の心を暗くする。
それでも、やらなければならない。
僕が、救わなければならない。
だけど――。
「……僕に、できるのかな」
託された使命は、身に余るほど重い。弱い自分の足は、押さえつけていないとすぐにでも逃げ出してしまいそうだ。
様々な感情を抱きながらも、意を決するように指先に力を込める。
僕は、ゆっくりとカレンダーの表紙を引きちぎった。
次の日付、つまりは今日の日付が現れる。その数字を、僕はしっかりと両目に焼きつけた。
〝二〇〇二年十三月二十四日〟
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