第19話
咄嗟に振り向くと、この近辺に住んでいる隼人が、学生服姿で立っていた。彼の瞳は至極くだらないものを見物しているかのように、光を失い細められている。
「朝から楽しそうだな、優」
「隼人にはそう見える?」
「ああ。そうとしか見えねぇな。まんざらでもねぇんだろ? このシスコンめ」
「シ、シスコン!? 僕が?」
「おめぇ以外に誰がいるってんだよ。――そうですよね、神奈ねぇさん」
「ええ、そうね。優くんはあたしが好きだからシスターコンプレックスなのは事実よ。あたしがブラザーコンプレックスであるようにね」
「理奈ちゃんも、そう思うだろ?」
「うんっ。おにいちゃんはあたしのことが大好きなはずだからねっ!」
「ほらな? かーっ! おめぇが優じゃなかったら、俺は今日までにおめぇを百回は殺してるぜ。感謝しろよ優。俺はおめぇだから許してやってんだからな!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕が何したって言うんだよ!」
「神奈姉さんと理奈ちゃんの姉弟として生まれてきた。俺からすればそれだけで大罪人だ。万死に値するってやつだ」
「そんなの、僕にはどうしようもないじゃないか!」
「それが運命ってやつなんだよ。だがな、おめぇは俺の友人だから特別に許してやるんだ。ただし、二人の質問にはちゃんと答えろ。おめぇはどっちなんだ? 神奈姉さんと理奈ちゃん、どっちが好きなんだ」
「ちょ、隼人まで!?」
「早く答えてやれ、優」
「早く答えてよおにいちゃん!」
「あたしだと答えなさい、優くん」
正面には二人の姉妹、背後には武装した強盗を震え上がらせた友人。
逃げ道はない。くだらないようにも思うけれど、ある意味では今年に入って初めて現実的な窮地に立たされていた。
妹か。姉か。
どちらかと問われれば、そんなのは考えるまでもなく、胸の内では答えが決まっている。
しかしそれは、〝僕の知っている時間〟から導かれた回答だ。〝僕の知らない時間〟を生きてきた妹にとっては、納得のできない答えだろう。
迂闊に口にしてしまっても良いのか。
そうすることで、得られるものはあるのか。
僕には、とてもあるとは思えない。
〝僕の知らない時間〟を否定すれば、純朴な妹はきっと傷つく。それは僕の本意じゃない。
だから、苦し紛れではあるけれど、僕は三人に伝える虚偽の回答を決定した。
「そんなの選べないよ。二人とも、僕の姉弟なんだから」
「ふーん……」
「えー……」
「逃げたな……」
「ち、違うよっ! 僕は本当のことを言ったまでだよ! 二人に優劣なんて付けられないんだから!」
「まぁ、そう答えるだろうとは思っていたわ。優くんの考えは、あたしにはお見通しだからね」
「り、理奈だってっ! 理奈だっておにいちゃんがそう答えるって知ってたもんっ! おにいちゃんは優しいから、きっと二人とも大事って答えるって、そう思ってたもんっ!」
「答えたんだからもうこの話題はいいでしょっ! もう時間結構ヤバいよ。早く行かないと遅れるよ?」
「――っと、確かにそうだな。そんじゃ、さっさと行こうぜ」
「そうね。遅刻で優くんの評価が下がるのは不本意の極みだもの。行くわよ、優くん」
「理奈のせいでおにいちゃんが悪く言われるのは嫌だから、行こう、おにいちゃん」
「ちょ、ちょっとっ! 手を引っ張らなくても歩けるからっ! バ、バランスがとれないって!」
姉と妹に片方ずつ腕を引っ張られながら、強引に走らされる。
無意識のうちに情けない顔になってしまっていた僕の横顔を目撃した隼人は、予想通り、今日会った時に見せたものと同種の表情を浮かべていた。
連休明けの初日であったため、今日は授業がなく、午前中に校長の眠気を誘う話やら東條町を管轄している警察官の講話を聞かされただけで放課後を迎えた。
教室からは続々と、部活動に励む生徒と連休の残り香を少しでも長く味わいたい生徒達が飛び出していく。
クラスメイトが減り、しだいに静かになっていく教室の中で、僕は隼人と二人の姉妹に囲まれていた。
「どうして三人とも僕の席の周りに密集するんだよ!」
「んなこと言われたってしょうがねぇじゃねぇか。不正のない抽選によって決まった席なんだぜ?」
「ええ。あたしが優くんの隣の席になったのは運命なのよ? 離れることを天が許してくれないのでしょうね」
「おにいちゃんの隣は理奈が相応しいんだから、当然だよっ!」
「三人とも、さっきの席替えの時、こそこそとクラスの人達と話してたよね? 不正を働いてたんじゃないの?」
「ちげぇぜ。あれはな、向こうが俺の席がいいって申し出てきたから、仕方なく交換してやったんだ。交換した席が偶然、お前の後ろだっただけだぜ」
「相手が怯えているように見えたけど?」
「あいつは生まれつきああいう顔立ちなんだ。優、他人の外見を貶すのはよくないぜ?」
「……理奈はいったい何したの?」
「理奈、インチキしてないよ? おにいちゃんの隣の席になった人に『いいなー』って言ってあげたら、交換してくれたんだよ」
「いやそれ完全に意図してるよね? 不正だと思うんだけど?」
「理奈がそうじゃないって思ったんだから、理奈は正しいよっ!」
「……わかったよ。もういいや。で……訊いても意味がないように思うけど、一応訊いておくよ。姉ちゃんは?」
「あたしは天運に従ったまでよ。番号を見ずに優くんの隣に移動したら、そのままここがあたしの席になったのよ。他の二人とは違うわ」
「抽選でそこの席になった人を、隼人に脅させてたよね? 姉ちゃんが一番性質が悪いよ」
「あたしはお願いしただけよ。桐生くんにも、クラスメイトの子にもね。そうよね、桐生くん?」
「そうっすね。神奈ねぇさんの判断は常に正しいっすから!」
「ほら」
「『ほら』じゃないよ! そんなことしておいて、よく全部運命によって定められただなんて言えるね! 思いっきり強引に運命を捻じ曲げてるじゃないか!」
「そう熱くならなくてもいいじゃないの。優くんも、お姉ちゃんの隣に座れて嬉しいでしょ?」
「おにいちゃんも、これから理奈と一緒に勉強できるの楽しみだよね?」
「いや……別に、そんなの、どうでもいいけど」
「なんだと優。おめぇ、こんなかわいい子達に囲まれて嬉しくねぇってのかよ! くーっ、俺がどんだけおめぇの立場になりてぇと願ってもなれねぇのに、贅沢な野郎だな! なぁ、理奈ちゃん、俺の方が優よりやさしくあげるからよぉ、俺の妹になってくれねぇか?」
「えーっ。理奈はおにいちゃんの妹だから、隼人くんの妹にはなれないんだよー?」
「いいじゃねぇか。ちょっと呼び方を変えてくれるだけでいいからさ。いいだろ? 呼び方だけだって。俺だってそれなりに常識人なんだから、理奈ちゃんが俺の本当の妹になれないことくらい分かってるって」
「ん~どうしよっかなーっ。だって、理奈がおにいちゃんだけの妹じゃなくなったら、おにいちゃんが泣いちゃうかもしれないしー」
「なに……? おい優ッ! おめぇちっと強欲すぎんじゃねぇのか! 神奈ねぇさんも理奈ちゃんも独り占めしやがってよぉ。少しくれぇいいじゃねぇかよ。名前の呼び方を変えてもらうくれぇいいじゃねぇかよ……! 俺はなァッ! 二人と本当の姉弟になりたいとどれだけ願っても、天と地が逆さになったってなれねぇんだぞッ!」
「それは違うわよ桐生くん。理奈と結婚できれば、あたしはあなたの義理の姉になるわ。それってつまり、本物の家族になれるってことよね?」
「ッ! お、俺が……理奈ちゃんと……結婚……ッ!」
「そうすれば、あたしとも理奈とも家族になることが可能よ。理奈が、あなたの妻になるわけだからね。嫁よ、嫁」
「理奈ちゃんが……俺の……嫁……?」
「傍から聞いている感じだと、桐生くんはあたしより理奈の方がお気に入りみたいだし、結婚するならあたしより理奈なのよね?」
「いやぁ、その、そういうわけじゃないんすけど……」
「ん? 隼人くん、理奈と結婚したいの?」
「……いいのか?」
「駄目に決まってるじゃんっ!」
「答えるのはやすぎねぇかッ!? そんなに俺が嫌いかよ!?」
「嫌いってわけじゃないよ。でもでも、おにいちゃんなら二人いてもおかしくないけど、旦那さんが二人いるのはおかしいでしょーっ?」
「言われてみると、確かにそうかもな」
「それに、理奈と結婚しちゃったら、隼人くんは理奈のおにいちゃんにはなれないよ? それでもいいの?」
「――ッ!!!! いいわけねぇッ!! そいつは、本末転倒じゃねーかッ!!!!」
「どんだけ兄になりたいんだよ!」
「んなもん、なれたら死んでもいいくれぇに決まってんだろうがッ! 理奈ちゃんの兄貴になれんなら、俺は死んだって悔いはねぇ!」
「極まってるわね。彼を見習いなさい優くん。一途な男性というのは、異性からすればとても魅力に溢れる存在よ」
「気持ちがまっすぐなのは認めるけど、同じようになりたいとは思わないよ」
危険な域に達している彼の願望を耳にした妹は、俯いて机に影を落とした。
「死んじゃってもいいなんて……隼人くん、そんなに理奈のおにいちゃんになりたかったんだね。いつからなの? いつから、理奈に告白するのを我慢してたの?」
「最初からさ。理奈ちゃんと初めてあった去年の四月から、入学式に見かけたあの日から、ずっと惹かれ続けてきたんだッ!」
「そんな話、僕は初めて聞いたけど」
「嘘つくなよッ! 俺は優には何度も相談したじゃねぇかッ! 帰り道を一緒に帰りながら、本物の兄であるおめぇに、何回も許可を求めただろうがッ! 忘れたのかッ!?」
――そんな出来事が起きていたのか!
今にも胸倉を掴まれるんじゃないかと思うくらい恐ろしい剣幕で迫られるが、彼の言う過去の情景は僕の記憶に存在しない。桜庭理奈という歪みが世界に波及して、僕自身の本来の過去が乖離したからだろう。
僕に対して、僕の知らない思い出を掘り返そうとする隼人。こんな時、どういった対応をすればいいのか。十三月が始まった当初は困惑していたはずなのに、その問題は、奇妙な時間を一週間を過ごした僕にとっては瞬時に判断を下せるほど容易かった。
僕は、様々な異常が蝕む世界に、しだいに適応してきていた。
「ごめん、思い出したよ。そうだね、そんなこともあったね」
「だろ? まったく頼むぜ。俺にとっては一番大事な話なんだからよ。簡単に忘れられたんじゃあ鋼の心でも傷つくぜ」
「ははは、ごめんごめん」
「ぶーっ! おにいちゃんっ? 知ってたんなら理奈に教えてくれてもよかったじゃん!」
「俺が口止めを頼んでたんだよ。にしても、優はやっぱいい奴だな。ちゃんと約束を守ってくれるんだからよ」
「そうだったんだっ! おにいちゃんってやっぱやさしーっ! それでこそ理奈の大好きなおにいちゃんだよっ!」
「それでこそあたしの弟よ。素敵よ、優くん」
「ははは……とりあえず、姉ちゃんはテキトーに褒めなくていいから」
「あら、なんだかあたしだけ扱いが雑じゃない?」
「そうかな……?」
姉に無言の圧力をかけてみる。
彼女は世界で唯一、僕と同じ立場にいる人間だ。となれば、彼女がこの場で振舞うべきは、僕を擁護する姿勢じゃないだろうか。
僕の記憶にあるのは、姉も妹もいない世界で過ごした日々の思い出。
姉の記憶にあるのは、妹のいない世界で過ごした日々の思い出。
隼人や理奈とは違い、彼女の過去の記憶に、妹と過ごした時間なんてものはない。それなのに、一緒になって僕を戸惑わせて遊ぶとはどういうことか。
しばらく見つめていると、姉はペロッと舌先を口元から出して、笑ってごまかそうとする仕草をみせた。反省しているようには見えないけれど、恐らくは彼女なりの謝罪なのだろう。別に畏まって謝ってもらいたいとも思っていないので、大袈裟にため息をつくことで返答する。
「どうした優? でっけぇため息なんか急に出しやがってよぉ」
「なんでもないよ。そんなことより、さっきの話は結局どうなったの?」
「おお、そうだ。なぁ理奈ちゃん、どうだ? 俺をこれから実の兄貴のように慕ってくれるか?」
「隼人くんの気持ちはよくわかったし、付き合ってほしいわけでもなくて、理奈のもう一人のおにいちゃんになりたいってだけなら…………いいよっ!」
「なにッ! それはマジか!?」
「うんっ! だって理奈は嘘つかないもんっ! じゃあ、これからは隼人くんのこと、理奈はこう呼ぶね――」
隼人の飲み込んだ唾が、彼の喉を通り過ぎる音が僕の耳元にまで届く。どこまで緊張しているんだと内心ツッコミをいれつつも、何故か僕にまで正体不明の緊迫した空気が伝染した。
妹とは反対の席に座っている姉は、深い関心は持っていないと言わんばかりに平静な面持ちのまま、頬杖をついて二人のやりとりに目を向けている。
教室に残っている無関係のクラスメイトまでもが空気を読んで黙り込み、室内全体が完全な静寂に包まれた頃、妹が天真爛漫に笑いながら、隼人を見据えて小さな口を開いた。
「隼人おにいちゃんっ!」
「なァ――――ッ!!!!」
彼は固まる。気持ち悪くにやけるわけでもなく、願望を一つ叶えてもらった男は間抜けに口を半開きにしながら、ただ無表情のまま硬直する。
「おい優、俺を殴れ」
「え?」
ようやく言葉を取り戻したかと思いきや、わけのわからないことを言い出した。
「いいから殴れってんだよ。思いっきり、俺の顔面を殴ってくれ」
「そ、そんなの……」
「構わねぇよ。俺を助けると思って、全力で頼む」
「助けるのに殴るってなんだよ。それに、僕はどんな理由があっても隼人は殴れないよ」
「おっと、すまん優、おめぇはそういう奴だったな。悪かった。そんじゃ神奈ねぇさん、すみませんけどお願いできないっすか?」
「いいわよ」
即答するあたり、なんとも姉らしい。顔には例の笑みが浮かべられている。
「ありがたいっす。遠慮なんていらないっすから、どうぞぶっ飛ばす勢いでお願いしますッ!」
「言われなくても、もちろんそのつもりよ」
椅子を引いて立ち上がり、握りしめた拳を振りかぶった姉は、席に座ったままの隼人を高いところから見下ろす。
「行くわよっ! 桐生くんっ!」
彼女の拳が教室の風を切って振り下ろされる。
その一撃は、避けるそぶりすら見せず、瞬きすらもしなかった隼人の頬に吸い込まれた。
強烈な握り拳をまともに受けたはずなのに、彼は微動だにしなかった。
「……確かに痛みを感じる。そうか。こいつは、夢じゃねぇんだな……」
「心配しなくたって、ここは現実だよっ。隼人おにいちゃんはね、今日から理奈のおにいちゃんになったんだよっ!」
「っ! ……なぁ、優。俺は幸せもんだな。心から尊敬できる神奈ねぇさんと、心を許す親友のおめぇだけでなく、こんなかわいい妹まで手にいれられたんだからよぉ……」
「大丈夫なの、隼人?」
「……あぁ。……けど、ちょい、想像以上だった、ぜ……」
毛ほども効いていないと思わせておきながら、死に際の人間が最後の力を振り絞って遺言を伝えるように喋り、力尽きて自らの机に頭を叩きつけた。
「わわっ! 隼人おにいちゃん大丈夫っ? もうっ、おねえちゃん強くやりすぎだよっ!」
「大丈夫よ。あたしだって、一撃で人の命を奪えるような化け物じゃないんだから。すぐに起きるわよ。ねぇ、優くん?」
何かを訊かれたようだったけれど、頭にうまく内容が入ってこなかった。
なんだろう。特別なことなんて何もない、一切中身のない会話をしていただけなのに、僕の抱いているこの感情はなんだろう。
「優くん?」
互いを許容し合っていて、同じ空気を吸っているだけで自然と会話が生まれる親しい関係で、この輪の中に自分が参加できていることを嬉しく感じるし、雑談している時間を充実していて楽しいとも思う。
だけど、胸の奥から消えてくれないこの感情は――。
この不気味さはなんだろう。
一ヶ月も経たずに世界が破滅するかもしれないのに、存在しないはずの姉と妹がいるはずなのに、どうして世界はこうも、平和な時間を進んでいるんだ。
「おにいちゃん?」
隼人の席に駆け寄った妹が振り返り、椅子に座っている僕を上から見つめている。
彼女だ。
姉は明確に僕の味方であることを示してくれているけれど、彼女は同じく異質な存在でありながら、自身が異変の一部に含まれていることを自覚していない。
それでも、彼女は世界にいないはずの存在で、十三月に深く関係している〝何か〟であることだけは間違いない。
彼女こそが、ようやく見つけた十三月と密接に関わっているであろう手がかりでもある。
当面は、外見が控えめに判断しても小学生な妹について、色々と探っていく必要があるのだと思う。
「……いや、なんでもないよ」
いかにも何かを思案している雰囲気を隠さぬまま、僕は深く考えずにそう答える。
目の前に立っている妹は首を傾げ、無感動のまま僕を見下ろしていた。
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