第18話
おかしくなったのか、なっていないのかで答えれば、まず間違いなく前者が正しいとは思う。そんなのは一週間も前にとうに自覚している。
問題は、その後の言葉だ。
「んっ? どうしたの、おにいちゃん? おうちに忘れ物でもしちゃった?」
立ち止まり、視線を下ろし、手を繋がれた先に立つ妹を観察する。この瞬間まで、彼女の存在自体に動揺していたため、全容をはっきりと視野に収められていなかった。まともに姿を見るのはこれが初めてだ。
制服を着ていることくらいは、玄関で一緒に行こうと誘われた時から認知していた。体型から推察するに、小学生か、発育の遅い中学一年生だろうと思っていた僕は、妹が制服らしき服装で現れた際に彼女をどこかの中学校の生徒だと深く思案せず決め付けていた。
しかしよく見てみれば、着用している紺色のセーラー服とスカートは、姉が淡紅色のコートの下に着用しているものと酷似しており、東條高校の女生徒指定制服の最も特徴的な点である白色の大きなリボンが、妹の着ている制服にも付いている。異なる点があるとすれば、全サイズ大きさが共通であるリボンは、妹の身長とは釣りあっていないくらいか。
どうやら確かに、妹の制服は姉と似ているのではなく、姉と同一であるらしかった。となれば、妹は本当に東條高校の生徒ということになる。
そこまで考えてようやく、彼女が先ほど口にした発言に驚愕した。
「……同じクラス?」
「そうだよ? 理奈とおにいちゃん、それにおねえちゃんは、みんな一緒のクラスなんだよ?」
「それ、本当?」
「ほんとだよ~! おにいちゃん馬鹿になっちゃったの? ねぇ、おねえちゃん、黙ってばっかいないで、おねえちゃんからも教えたげてよっ! おにいちゃん変になっちゃったよ?」
「…………その前に、ちょっといいかしら、理奈」
「んっ? なになに? おねえちゃんは、理奈に聞いてほしいことがあるの?」
「ええ、そうよ」
一言も口を挟まずに歩いてきた姉が自ら沈黙を破り、僕を挟んで妹と向かいあう。姉は鋭く瞳を光らせ緊迫した雰囲気を醸しているが、妹は無邪気な顔のまま僕の手を離そうともしない。
僕はなんとなく、彼女が何を訊こうとしているのか察しがついた。
「理奈。あなたの名前は、|桜庭理奈(さくらばりな)で合ってるわよね?」
「あたりまえじゃんっ! そんなのきくなんて、おねえちゃんもおかしくなっちゃったの?」
「そんなことないわ。お姉ちゃんは正常よ。次の質問だけど、今日が何年の何月何日か、答えられるかしら?」
「そんなの、二〇〇三年の一月八日に決まってるじゃんっ! おねえちゃん、今朝カレンダー見なかったの?」
「ええ。休みボケで日付感覚があやふやだったのだけれど、それを引き摺って今日も見るのを忘れてしまったのよ。理奈が確認してくれていて助かったわ。ありがとう」
「えへへ、どういたしましてっ! 理奈に訊きたいのはそれだけ?」
「いいえ、もう一つ、理奈に教えてほしいことがあるわ」
それこそが本命であることは、わざわざ確かめるまでもない。
妹は何を訊かれるのか思い当たる節がない様子で、首を傾げて上目遣いに姉を見つめ返す。
「理奈。あなた、いったい何者なの?」
「んー? おねえちゃん、それってどーいう意味? 理奈は理奈だよ?」
「そう。なら、昨日もあなたは理奈だったと、断言することができるかしら?」
「理奈が理奈じゃなくなるわけないよ。そんなのあたりまえじゃんっ!」
「そうかしら? 自分が覚えているからといって、過去の記憶を真実だと証明することはできないわ。それが偽りではない確証はあるの? 過去のあなたは、あなたの記憶している通りに行動したと証明できる?」
「なに言ってるの? 理奈、おねえちゃんが言ってること、難しくてわけわかんない」
「そうね……もう少し身近な例で考えてみましょう。例えば、お姉ちゃんと理奈の部屋は二人で共用よね? ベッドは二段で、あたしが上で、理奈が下」
「うん。だけどそれは、おねえちゃんが上が良いって言ったからだよ。理奈だって上が良かったのに!」
突然現れた妹が居を構えたのは、姉の部屋の中だった。姉の時とは違い、割り当てられる空き部屋がなかったからだろうか。姉一人の部屋としてはやや広かったかつての物置部屋は、高校生である二人の姉妹が共用するとなると些か狭いように思えた。
住人が姉一人から妹を加えて二人に変わったけれど、内装には一点の調度品を除いて、特に変化した箇所は見当たらなかった。
昨日までと唯一変わっていたのは、姉が心身を休めるシングルベッドが置かれていた位置に、淡紅色に染め上げられた二段ベッドが設置されていた点だ。それまでのシングルベッドが少しだけ小さくなり、まったく同じ物が上に積み重なって短い梯子を取り付けたようなデザインだった。
今朝本人にうかがった話によると、姉は昨晩シングルベッドで眠りに落ちたはずなのに、起きたら目の前に天井があり、頭をぶつけそうになって自分の寝ている場所が2段ベッドの上段だと気づいたらしい。
「それは悪かったわね。でもお姉ちゃんは、理奈が言うようなことを口にした覚えはないわ」
「忘れちゃったの? 嘘だーっ! 理奈だまされないよ? だってお姉ちゃん、昔のことをすぐ忘れちゃうほど馬鹿じゃないよね?」
「そういうことじゃないのよ。お姉ちゃんは、はっきりと記憶しているの。自分が体験していないものとしてね。それなのに、理奈はお姉ちゃんと寝る場所について話した覚えがあるのよね? 思い出という名の情報として、理奈の記憶に記録されているのよね?」
「だからそう言ってんじゃん! 理奈は正しいんだよ! 間違ってないよ!」
「じゃあ、お姉ちゃんの記憶が間違っているということかしら?」
「そうだよっ! お姉ちゃんがわざと、理奈を困らせて楽しもうとしてるんでしょっ!」
「…………うふふっ、バレちゃったみたいね。その鋭い勘、すばらしいわ。流石は理奈、あたしの妹なだけあるわね」
「えへへ、理奈すごいでしょー?」
あからさまな作り笑いを浮かべたまま、姉が僕の耳元に顔を近づける。
「嘘を言っているようには見えないし、あたしとは違って、自覚がないようね」
「いったい何者なの」
「あたしが訊きたいくらいよ。ただ、もしかすると、樹木の成長に関係があるかもしれないわ」
「純白の空間にあるアレと彼女が? どうしてそう思うの?」
「昨夜確認した時、樹木は大きく成長していたでしょう? あれは多分、いくつかの成長条件の内の一つを達成したからよ。もっと簡単に言うと、最終目的である花の開花に至るためには、いくつかの段階を踏まなければいけなくて、あたし達は昨夜までに一段階目をクリアしたのだと思う。それで、次は二段階目をクリアする必要が発生して、同時に、二段階目の試練と関係のある妹が現れたのではないかしら?」
「なんだか機械のロジックみたいだ。もしもそうだとして、彼女は何に関係しているんだろう。学校生活?」
「もしくはあたし達ね。あたしが言うのもおかしな話だけど、彼女はあたし達の〝存在しないはずの妹〟として、この世に現れたのだから」
「僕達と彼女の関わりが、樹木を成長させるかもしれないってことか」
「わからないけれどね。あたしは、現状明確になっている事柄からそう推測したわ。まぁ、理奈は家族の一員で、同じ屋根の下で衣食住を共にしている親密な関係なのだから、接する機会はとても多くなるでしょう。じっくり探っていけばいいわ」
「そうだ、ね――って、ちょっ!」
つい先ほどと同様に、横からの引力によって僕は姉から遠ざかる。力の働く方向に目を向けてみれば、案の定そこには、必死に僕の片腕を両手で引っ張る妹の姿があった。彼女は目を瞑り顔を真っ赤にして、自己を鼓舞するための唸り声を上げている。
「んん~っ! おにいちゃんっ! おねえちゃんから離れて! おねえちゃんもっ! おにいちゃんに近づきすぎだよっ!」
「別にいいじゃないのよ。おにいちゃんとおねえちゃんは仲良しなの。近くにいるのは自然なことよ」
「理奈の方がおにいちゃんと仲いいんだから、理奈の方が近くにいないと駄目なのっ!」
「理奈、あたし教えなかったかしら? こういう時は姉に譲るものよ?」
「そんなの、教えてもらったことないもんっ!」
「あら、そうだったのね。じゃあ今ここで教えてあげるわ。お姉ちゃんと同じ人を好きになったらね、その人はお姉ちゃんに譲らないといけないの。わかった?」
「わかんないよっ! 理奈だっておにいちゃんが好きだもんっ! おねえちゃんより好きだもんっ!」
「あたしは毎日お兄ちゃんのことを考えるくらい、お兄ちゃんのことが好きなのよ? お兄ちゃんが部屋で一人でいる時も、自分の部屋でお兄ちゃんは今何をしてるのかなーって考えちゃうくらい好きなのよ?」
「理奈なんか一時間に一回はおにいちゃんのこと考えるもんっ! 寝てる間も忘れないように、できるだけおにいちゃんの布団で寝るようにしてるもんっ!」
「あたしはお兄ちゃんのことを好きすぎて、遂にお兄ちゃんが何を考えているのか理解できるようになったわ。それで分かったのは、お兄ちゃんは理奈が勝手に布団に潜り込んでくるのを迷惑だと思っているという真実よ」
「そ、そんなことないもんっ! おにいちゃんは優しいから、そんなこと思わないもんっ!」
「そうよね~。お兄ちゃんは優しいから、理奈が迷惑でも、それを言葉にしたりはしないわよね~。でも、心の中では嫌がっているのよ~?」
「うぅ……そうなの、おにいちゃん?」
早くも妹を手のひらの上で弄ぶ姉が、意のままに操って妹を僕にけしかける。姉が僕にだけ向けている笑みには、作り物でありながら心底楽しそうな感情が込められている。僕と妹を困らせる行為で欲求を満たす、サディストの微笑だ。
「できれば、僕に話を振らないでくれるかな」
「ほらみなさい。理奈はお兄ちゃんに迷惑がられているのよ」
「テキトーなことばっか言わないでよっ! それはおねえちゃんの意見でしょっ!」
「いいえ。お兄ちゃんが頭の中で考えていることよ。そしてもう一つ、お兄ちゃんはこんな風にも思っているわ。一緒に寝るなら、お姉ちゃんの方が良いってね」
「っ! おにいちゃんっ!」
「いや、騙されないで理奈。おねえちゃんは嘘つきだ」
「ちょっと優くん、あたしは優くんには嘘をつかないって、前に言ったでしょう?」
「たった今、僕に対して嘘をついたじゃないか」
「違うわ。これは理奈についた嘘よ。優くんを奪われないためにね」
「やっぱ嘘じゃんっ! お姉ちゃんの嘘つきっ!」
「なんとでも呼んでいいわよ。その代わり、お兄ちゃんはお姉ちゃんが貰っちゃうからね」
「そんなの駄目に決まってんじゃんっ! だいたい、お兄ちゃんは嘘つきは嫌いなんだもんねーっ! ね、お兄ちゃん? 正直な理奈の方が、お姉ちゃんより好きだよね? ね?」
「優くん、あたしでしょ? あたしなんでしょう? あたししか見えないって、そう言ってくれていいのよ?」
姉が便乗して『お兄ちゃん』などと口走り始めたあたりから、二人の会話に巻き込まれることを恐れていた。確固たる意思をもって無意味な諍いを止めるべきだったと後悔する頃には、身長差のある二人の姉妹から距離を詰められていた。
僕は後ずさる。一歩後退すると、彼女達が一歩前進する。二歩なら二歩、三歩なら三歩。彼女達に僕を見逃すつもりはないらしい。僕がどちらかを選ぶまで、地の果てまで追いかけてきそうな気概まで感じる。
困り果てながらも更に後ずさった時、後ろから何者かに肩を捕まれた。
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