第56話

 目を開くと、雪よりも深い白色が世界を塗りつぶしていた。

 背後には樹木があるのだろう。

 最後の瞬間を前にして、僕は現実を直視することを躊躇った。認めたくない結果を突きつけられることを恐れ、恐怖を忘れようと今度は自ら視界を閉ざす。


「っ! ……優くん、これ――」


 純白で寂しげな世界に、何かを見つけて驚嘆する姉の声が響いた。

 彼女の声に引かれるようにして、僕は迷いを抱えたままゆっくりと振り返る。

 そして、視線の先にある想像もしなかった光景に、思わず息を呑んだ。


「これは……!」


 姉が見上げた先にある、一本の大木。枯れ木がそびえていたはずの場所に、その樹木は確かに植えられていて、傘のように枝を広げて僕達を見下ろしていた。

 樹木には、個々は小さいけれども無数の白色の蕾が蓄えられていた。


「これ、どう見ても桜の蕾だよね?」

「断言はできないけれど、似た形はしているわね」

「咲こうとしているってことか」

「ええ。あと少し……あと少しで、白い花が咲きそうね」


 姉は頭上に垂れている枝の先の蕾を悲しげに見ると、背を向けて樹木から遠ざかる。5歩離れたところで、彼女は足を止めた。


「けれど、もう時間がない。……せめて一日。あと一日あれば、咲くかもしれないのに……!」


 静かに、悲痛な声色で呟きながら、歩みを再開して僕の前に立つ。

 姉としての矜持や、特別な存在であるがための責任なんて関係なく、願望を叶えられなかった事実が純粋に悔しいのだと、僕にはそれがわかった。

 俯く彼女。気の利いた言葉が思いつかず、こんな状況でそんな言葉があるのかすら怪しく思いながら、静寂に包まれた純白の空間に佇む。

 全てが終わる前兆と考えるには、充分といえる静けさだった。地球上から人類が滅亡してしまえば、こんな静寂が永遠を支配するのだろう。


「……優くん」

「なに、姉ちゃん」


 俯いて、抑えようのない後悔と共に僕の名前を呼ぶ。

 しかし、次に声を発する前に顔を上げた彼女は、瞳に決然とした鋭利な光を宿して真正面から僕を見据えた。


「こうなったら、最後の賭けに出るわ。確証が得られなかったから今まで実行できないでいたけれど、もう、これしか方法が思いつかないの」

「賭け……? 賭けって、もう時間も残されてないのに、まだ事態を解決できるかもしれない方法があるっていうの? だったら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ」

「失敗したらやり直しが利かないからよ。失敗したら、恐らくはそれで終わり。一縷の望みすら絶たれしまうでしょうから、最後の最後までこれだけは選ばないようにしていたの」

「……それで、僕はどうすればいいの? 僕に話してくれたってことは、僕も何かしなくちゃいけないんだよね?」

「そうね。この賭けは、あたしひとりの力ではどうにもならないわ。身勝手で申し訳ないけれど、成就させるには優くんに手伝ってもらう必要があるのよ」

「その方法で世界を救える確率は?」

「ほぼ確実なはずよ。道理が通っているからね。以前言ったわよね? 優くんに、世界の命運が託されているって。だから、改めてお願いするわ。優くん。世界を、破滅から救うために――」


 平静を保っている姉が、一瞬だけ顔を歪める。

 いつか隼人が教えてくれた表情とは、これのことだったのだろう。

 けれども即座に元に戻ると、溢れ出しそうな感情を押し込んだ。

 努めて無表情を維持しながら、彼女は僕に命令した。


「あたしを、そのポケットに入っている物で殺しなさい」

「――っ!」


 彼女の言葉には、愕然とするより他になかった。

 隠し持っていたことを知られていたからじゃない。

 彼女もまた、僕と同じ答えに至っていたからだ。


「……いつから、気づいていたの?」

「かまくらに入る前、キッチンから持ち出そうとした時よ。どこを探しても見つからなくて、自然と優くんがあたしと同じ考えに辿り着いたのだと察したわ」

「そうか……探しにいったんだね」

「ええ。あたしは十三月のためだけに必要とされた存在。あたしが刻限前に死ねば、予定外の出来事に十三月が乱れて、この一ヶ月に起きた出来事が白紙に戻る可能性は充分にあるわ」


 ――そうだ。十三月と共に現れたのだから、彼女は〝十三月〟が具現した姿と言える。


「死にたいのなら、自分で勝手に死ねばいいと思うわよね? 無論、あたしだって初めはそう考えたわ。夜中に、優くんが寝息を立て始めたのを確認した後で、足音を殺して一階に下りて自殺できるか試そうとした」

「僕が偶然夜中に起きて姉ちゃんと遭遇した日に、こっそりと自殺しようとしてたのか」

「あの日だけではないわ。その前の晩も、更に前の晩も、コテージに来てからは毎晩試行した。でもね、駄目だったのよ。刃先が胸に突き刺さる寸前で、意志と関係なく刃が止まってしまうの。毎回毎回、何度試してみても、自殺することができなかった。ひどいことを言ってるってわかってる。無茶なお願いだってのも理解してる。だけど……だけど優くん。あたしを殺して。全てが手遅れになる前に……世界が、終わってしまう前に!」

「姉ちゃん……」


 必死に自分を殺すよう懇願する姉の姿は、正視に耐えない痛々しさだった。切迫する状況に追い詰められて、自分が死ねば絶対に解決すると、そう信じなければ壊れそうなほどに、脆く弱気になっていると感じた。


「自殺できない、か」


 確認するように呟きながら、僕は姉の視線を置き去りにして樹木に近寄っていく。


「十三月になってから初めて、先代の神様に感謝したいと思ったよ」

「どうしてよ! 自殺できたら、優くんにひどいお願いをしなくても済んだのに!」

「だって、もしもそれができてたら、姉ちゃんは僕のいないところで勝手に消えてたんでしょ? そんなの、僕は嫌だからさ。だけど、何もせずに解決することはあり得ない。それなら、やっぱりこのやり方が一番良かったんだって、そう思うよ」

「……」


 背後の離れた位置で黙り込む姉を振り返らず、僕は蕾を蓄えた樹木を仰ぐ。

 見上げたまま、姉に背を向けたまま、ポケットにしまっていたサバイバルナイフを取り出した。柄を握って革製のシースを取り外すと、それを地面に投げ捨てる。現れた銀色の刃が、純白の景色を映して鈍く輝いた。


 ――これで、すべて終わるのかな。


 刃先を見えない地面に向けて、柄を強く握りしめる。

 手のひらから噴き出す汗が、じんわりと広がっていく。

 吸い込んだ息を緩やかに吐き出した後、僕は意を決して振り返った。


「これで、全部終わるんだよね。何もかもが元通りになって、みんな幸せな結末を迎えられるんだよね。それは姉ちゃんがずっと望んでいた終幕の形だから、悪いことなんてあるはずがないんだよね」

「……ええ。このままあたし達が2人とも消えてしまえば、あたしと優くんが共に過ごした時間は思い出にもならず消滅してしまう。それだけは嫌なの。あの大切な時間が失われてしまうのは耐えられない。あたし自身が犠牲になったとしても、それでも守りたいだけの価値があるの。あたしは、優くんの思い出で生きられるのなら、それだけで充分。もう、後悔なんて、ないわ」


 ――ひとりの犠牲で他の全ての人間が幸せになれるなら、それは悪くないのかもしれない。


 みんなが幸せになれる世界なんて存在しない。誰かが得をすれば、誰かが損をする。世界はそうなるように仕組まれているんだ。だから、一人が他の全ての不幸を背負えたならば、それこそが最良の解決策なんだ。

 不幸を背負うと願った彼女は、いま、その嘆願を叶えられる。


「ずっと達成したかった目的を、遂に為し遂げられるんだよね。それって、姉ちゃんにとって最も幸せなこと?」

「……ええ。そうよ。そうすることで、理不尽な使命に苦悩する日々とも縁を絶てる。あたしにとっても、世界にとっても、いいことだらけだわ」

「そう。だったら、訊いてもいいかな」

「……なに?」


 言葉を切って、無言のまま姉を見据える。

 しばらく待ってみても、彼女の様子は変わらなかった。


「不満はないって、そう言ったよね? だったら、だったらさ――」


 僕の中で封印してきた感情が、心の奥底から一息に沸き上がってくる。


 ――ずっと望んでいたことが果たされるのに、だったら、そんなのおかしいじゃないか。


 僕は、今までに出した覚えがないくらい声を張り上げて、彼女の間違いを叫んだ。


「だったらどうしてッ! そんな顔するんだよッ!!」

「――っ!」


 かすれた声で弱々しく応対する彼女の瞳からは、絶え間なく涙が零れ落ちていた。

 指摘されて、慌てたように両手で顔を拭う。しかし、どれだけ払い飛ばしても溢れる感情は止まらず、余計ぐしゃぐしゃになるばかりだった。


「……だって……だって……だってあたし! あたしは神様なのに! こんなわけのわからない賭けに縋ることしかできなくて! 悔しいじゃない! 頼ってもらったのに何もできなくて! 支えてあげることもできなくて! 無力な自分が情けなくて! 優くんに申し訳なくて! あたし……あたし……こんなの、普通以下の価値しかない……」

「姉ちゃんは、よくやったよ。僕が責任を押し付けるように頼り切ってた間も、僕達を破滅から救済しようと尽力してくれたじゃないか。思う通りの結果は出なかったかもしれないけど、姉ちゃんが頑張ってたのは知ってるし、感謝してる。そんな自分を責めなくたっていいよ。それを言ったら僕だって、姉ちゃんを頼りにしてばかりで怠けていた日々を謝らないといけなくなる」

「それは必要ないわ! だって! あたしにとっては! 優くんがあたしを頼ってくれることが平常心を保つ支えになっていたのだから! 優くんがあたしに失望していた時間はすごくつらかった! でも! 優くんを助けるには解決策を探すしかなかった! だから奮起して模索したのに! それでも見つからなかった! あたしが無力だから! 役に立たないから!」

「姉ちゃんがいなきゃ、ここまでは辿り着けなかったよ。結果なら出てるし、卑下する理由なんてない」

「ここまでってどこまでよ! 最終日になってようやく蕾が出来ただけじゃない! 咲かなきゃ意味ないの! 咲かなきゃ、何も救えないのよ……。こんなんじゃ、優くんが助からない……!」

「……僕のために、泣いてくれてたの……?」

「当たり、前じゃない! 無念はいくつもあるけど、あたしが一番悲しいと思ってるのは、その中のどれでもない。優くんと逢えなくなることだって、それに比べればまだ耐えられる。……あたしが一番悲しいこと……あたしの涙が止まってくれない理由……。それは……それは――!」


 これまでは、あらゆる異常事態を毅然と分析していた彼女が、いまは隠し通してきた脆さと弱さを曝け出している。怒ることはあっても、今日までは僕に悲しそうな顔を見せたことはなかった。

 僕を不安にさせないための、強い姉として在り続けるための、精一杯の努力だったんだ。

 僕を、どこまでも大切に想ってくれた姉。

 僕を、人として成長させてくれた姉。

 過ごしてきた時間が、貴重なものだと気づかせてくれた姉。

 知らなかった感情を教えてくれた姉。

 その全てが無に還ろうとしている。最後に残された家族である姉も、彼女との忘れられない思い出も、あと少しで全部消え去ってしまう。

 先に涙を流したのは彼女だ。ずっと抑止させていたものが、堰を切ったように溢れ続けている。

 理奈の言った通りだった。

 姉は、特別なんかじゃない。

 僕と、同じだったんだ。

 幼い少女のように号泣する彼女。その、ありのままの姿を目の当たりにして、僕は。

 僕は――。


「優くんが泣いてることが! あたしは一番哀しいのよッ!」


 泣いていた。

 手で触れて確かめるまでもなく、頬を伝う感触で自分が泣いていることは理解できる。


「……当たり前、じゃないか」


 僕もまた、彼女と同じことを、彼女と同じくらい、あるいは彼女以上に想っていたのだから。


「姉ちゃんと出会った日から、すぐに別れる日が来るってわかってた。確認もしたはずだよね。なのに、一緒にいられる時間は限られてるっていうのに、僕は姉ちゃんと親しくなっていってしまった」


 涙を止めるために顔を上げる。

 移動した視野に、垂れ下がった枝葉の一部が映る。その細い枝にも白い蕾が付いており、樹木が開花の一歩手前まで迫っていることを再認識する。


「親しくなったから、つらいんだ。だからさ、最初は仲良くならない方がいいって思ったりもしたよ。あんなに楽しい日々が待っているなら、そんな馬鹿みたいなことは考えなかっただろうにね。いまだって、姉ちゃんと過ごせた時間を後悔したりはしてないよ。断言する」


 姉からの返答はなく、感傷的になっているせいにして、別れの挨拶めいた台詞を一方的に吐く。

 いよいよ終わりの瞬間が訪れようとしているのだと、そう直感した。

 頭上の蕾を眺めながら、僕は彼女の発言を待つ。


 ――ッ!


 その時、眼前の蕾に起こった小さな、けれども確かな変化に気がついた。

 焦点を合わせていた蕾だけでなく、視界に入っていた周辺の蕾全てが、一斉に成長したのだ。

 蕾が膨らむ一部始終を、僕は直に見届けた。


 ――そういう、ことだったのか。


 このタイミングで成長した事実が、僕の記憶に置き去りにされた断片をかき集めて、ある一つの形を作り上げた。

 それこそが、世界の救済を司る植物の成長条件だったのだと僕は推測した。

 そして、確信する。

 今にも花弁を広げて咲き誇りそうな花が教えてくれた真実に、偽りはないのだと。

 元々覚悟はできている。根底にある思考原理が、少し変わっただけだ。

 これならば、より強く、自信を持って遂行できる。

 植物を成長させる条件は、僕の心情の変化なんかじゃない。

 この瞬間に成長した事実が、誤った仮説を真っ向から否定している。

 僕は選ばれた。

 しかしそれは、僕と樹木の成長条件が直結する理由にはならない。

 僕は、樹木の成長とは無関係だったんだ。

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