第55話
最後の夜。一日かけて丁寧に作り上げたかまくらの中で、僕と姉は何も語らずに身を寄せ合っていた。
かまくらの中は想像していたより暖かく、服も着込んでいるためか寒さはそれほどでもない。しかし姉が黙って身体を寄せてきて、拒む理由もなかったので、僕達は密着するような形となった。
「……」
「……」
かけるべき言葉が見つからない。彼女も動揺なのか、外に降り続ける粉雪のような深閑とした空気が、内側にも漂っている。二人が呼吸を繰り返す音だけが聞こえていて、白い吐息だけが雪以外に見える唯一の景色だった。
一際大きな息が姉から吐き出され、天井に消えてゆく。
「……ねぇ、優くん」
「なに?」
「あたしを、怨んでるわよね?」
「一応訊かせてもらうけど、どうしてそう思うの?」
「あたしが優くんの姉になんてなったから、優くんは酷い目に遭ってしまったのよ? 憎しみを抱かない方が不自然だわ」
「だけど、姉ちゃんがいなければ、僕は世界の破滅なんて他人事のように聞き流して、知らないうちに消えていたはずだ。それに比べれば、こうして全ての終わりを見届ける役割の方が幾分マシだよ。僕を選んでくれた姉ちゃんには感謝してる」
「選んだのはあたしじゃないわ」
「それでも、姉ちゃんが僕の姉ちゃんで良かったよ」
「……」
あと数時間もすれば世界は消えてなくなるかもしれない。
終末を目前にして、僕は口にしてこなかった感情を語ることにした。
「この一週間だけじゃない。初めて会ったあの日から、姉ちゃんとは色んなことを経験したよね。この一ヶ月間はさ、それ以前の僕の人生にはなかった種類の時間だった。僕自身の性格さえも変えてしまうような、すごく満たされた時間だった」
彼女と出会わなかったら、僕は今までと同じつまらない時間を、一切の不満も持たずに過ごしていただろう。
彼女と出会えたから、これまでの人生で最も充実した時間を過ごせたのだろう。
「だから、僕に姉ちゃんを怨む理由はないよ。たとえ、今日ここで何もかもが終わってしまうとしても、姉ちゃんと暮らした一ヶ月を、僕は絶対に忘れない」
山奥にあるコテージに住んで一週間。僕達は、それが唯一の救済手段だと信じて無邪気を装い遊び続けた。バーベキューを楽しみ、釣りに熱狂して、最後にはかまくらを作って…………。
しかし、世界の命運を握る樹木が花を咲かせることはなかった。
――けれど、まだ終わりじゃない。
刻限までは、まだ三時間ほど猶予がある。諦めるにはまだ早い。
「ごめんなさい」
「姉ちゃん、謝るのはなしだって初めに言ったじゃないか。これで二回目だよ?」
「そうではないの。あたしは、今を謝りたいのではなくて、過去の出来事を懺悔したいの」
「過去?」
膝の上に両手を置いている姉が、視線を雪原に落とす。
彼女の声色は、今朝かまくらを作っていた時とは一転して、あらゆる物事に絶望しているかのように覇気がなく、暗い響きを伴っている。
「あたしは、優くんを騙していた」
「……詳しく教えてくれるかな?」
「あたしが優くんと知り合ったばかりの頃、突然現れたあたし――つまりは自分の姉に困惑する優くんに対して、あたしは馴れ馴れしく接していたわよね。自分が存在しない姉であると理解しながら、優くんに好意を抱いていることを主張して、優くんを町中に連れ回したじゃない」
「そんなこともあったね。どうしてこの人は、こんなに僕のことを好いてくれているんだろうって疑問に思ったりしたよ」
「理由もなしに好きになるなんておかしいわよね。そう、おかしいのよ。火のない所に煙は立たない。人の心も同じ。何もないのに、心が動くはずがない。それはあたしも同様で、会ったばかりの優くんを好きになるはずがなかった」
一層罪悪感を振り撒く声で、彼女は打ち明ける。
「あたしは、優くんが好きだったんじゃなくて、優くんを好きな姉を演じていたのよ。それが、あたしに与えられた役割だったから」
それは、彼女と過ごした短い時間の中で、初めて聞かされた真実だった。
先代の神様は、作り変えた世界に僕の姉を創造した。事の顛末を知らされていた姉は、そうあることが正しいと判断して、僕の姉として相応しい行動に努めたのだろう。
姉弟という間柄は、大抵の場合は仲睦まじいものだという知識を持っていたから。
彼女は、そんな当たり前の行いをした過去を懺悔した。
だけどそれは、僕にとってみれば悪いことのようには思えなかった。
黙っていると誤解されそうだったので、とりあえず適当に相槌を打っておく。
「そうだったんだ」
「なんだか、妙に軽くないかしら。ずっと騙されていたのよ? 他でもない、このあたしに」
「そうなのかな?」
「そうよ。優くんが数多の異変に混乱している隙に、あたしの存在を優くんの世界に定着させるためにね。積極的に優くんに絡んでいたのは、距離感を急激に縮めるための演技だったのよ」
「だけどさ、演技だったとしても、僕は嬉しかったよ。姉ちゃんが来てからの生活は、それまでよりずっと充実してた。おかげで、姉ちゃんの存在も早い段階で受け入れられたしね」
「嘘だったとしても、それでも良かったっていうの?」
「うん。僕が悪く思ってないんだから、やっぱり謝る必要なんてないよ」
「そんな……そんな風に言われちゃったら、もう、何も言えないじゃない」
「いいんだよ。それに、昔の話なんでしょ?」
「……ええ。もちろん、昔の話よ」
姉は僕の方を向いて、暫く見つめてから微かに頬を緩めた。
僕も、自分の頬から力が抜けるのを感じる。
「僕の感想は伝えたけど、姉ちゃんはどうだった? この一ヶ月間の生活、楽しかった?」
「言うまでもないわ。優くんの姉として生まれて、実体験を通じて色々なことを知って、優しい両親とかわいらしい妹、面白い友人に囲まれて、生きるという素晴らしさに感激したわ」
「僕は、親っていうのは子供の面倒を見るのが普通だと思ってた。だけど、そうじゃなくて、それは感謝してもしきれないくらい、ありがたいことだと知ったよ」
「ええ。優くんの――いえ、あたし達の両親は、誇るべき模範的な人達よ」
「妹の我がままには振り回されたけど、そんな風に付き合いがうまくいかないっていうのも新鮮だったなぁ」
「うふふっ、少し困らせてくれるくらいが、付き合う側としても楽しいかもしれないわね。これは、実際に妹ができてみないと浮かばない考えだったでしょうね」
「隼人は尊敬できる友人だよ。僕が道に迷いそうになった時、正しい方へ導いてくれた。隼人がいなかったら、こうして姉ちゃんと話している今はなかったようにさえ思う」
「だとしたら、彼には感謝しなくてはならないわね。あたしの、もう一人の弟である彼に。好意的に接してくれたことも含めてね」
「思えば、大きな不安に迫られている状況なのに、楽しいことばかりだったんだね」
「気分が沈むような出来事もあったけれどね。例えば、優くんに無視されちゃった2日間とか」
「それ、いま言う?」
「あら。だって本当に傷ついたのよ? もう、何もかも終わりだって思った。世界なんて破滅したって構わないとすら、何度か頭を過ぎったわ」
「ごめん……それは、謝るしかないよ」
「そう落ち込んだ声を出さないでちょうだい。――って、あたしが余計なことを言ったのが悪いのよね。あたしの方こそごめんなさい。でもね、心が磨り減るような思いをした日々でさえも、大切な思い出のひとつなの。優くんと、二人で過ごした日々の、それを証明できる確固たる証」
姉の右手が、僕の左手に触れる。彼女の手は冷たかったけれど、同じくらいに温かかった。
「あたしはね、他のどんなことよりも、優くんと一緒に過ごす時間が楽しかった。細かく感想を言えば一夜が明けちゃうくらいに、ただただ楽しい毎日だったわ」
「僕も、姉ちゃんといられて楽しかったよ。今まで生きてきた中で、一番楽しかった」
単純な言葉だった。僕も彼女も、〝楽しい〟という単語にあらゆる感情を集約した。
細かい表現なんてなくたって、それだけで気持ちは伝わるし、伝えられる。僕達の間柄は、それを可能とするまでに親密になっていたわけだ。
外では変わらずに雪が舞っている。昨夜から降り続ける白銀の結晶は、僕と姉しか存在しない世界を覆い尽くし、いずれ大地を、海を、空を、全てを消し去ってしまうようにさえ思えた。
左手の甲にのっていた手を離すと、姉は手のひらを表にして僕に片手を差し出す。僕は彼女の手に目を落とした後、彼女の表情を確認する。
彼女は、コテージに来てからの一週間に何度も見せてくれたものと同じ、僕を元気づけてくれる優しく、そして楽しげな雰囲気をまとい笑っていた。
それが作り笑いであることなんて、僕は最初から気づいていた。
「行こう、優くん」
僕はズボンの右側のポケットの上に手を当てて、そこに収められている物の輪郭を確かめる。
もう、これしかない。
失敗は全ての終わりに直結して、成功もまた終わりを意味する。
それでも、最後の時を迎えようとしている今ならば、試すだけの価値と完遂できるだけの覚悟がある。
僕は姉と向き合って、差し出された手に右手を重ね、柔らかく包み込んだ。
「うん。行こう」
答えを返すと、姉は緩慢に瞼を閉じる。
彼女の視界が隔絶されたのを見届けた後、僕はかまくらの入口から、外を舞う粉雪を静かに眺めた。
世界を消滅させるために降り止まない白銀の意志。
やがてそれは天井をすり抜けて内部にも降り積もり、僕と姉の身体は、白く無垢なる雪の中へ溶けていった。
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