第58話

 柔らかい風に頬を撫でられて、自我を取り戻した。

 目覚めて周りを見回すと、雲のない快晴の青空と、薄緑の草が生い茂る野原が地平線まで続いていた。太陽はなく、どこからか吹いてくる優しい風が草を揺らして音を立てている。

 ここがどこなのかと疑問を抱くより早く、これが死後の世界であると理解した。

 初めて目の当たりにする異世界に呆然としていると、視界の右上から一枚の花びらが舞い散っていく。花びらは僕の目の前を泳いだ後、ゆっくりと草原の上に舞い落ちた。

 それは、どこか懐かしさを感じる淡紅色の花びらだった。

 反射的に背後を振り返る。身体の向きを変えると同時に、僕は頭上を仰ぎ見た。

 思わず見開いた瞳に、視界を覆うほどに枝を広げた、満面の淡紅色で着飾る桜が映っていた。


「きれいだ」


 身体の何倍も太さのある幹に近寄って、手を触れてみる。

 幻かもしれないけれど、とりあえず触れても消えたりはしないようだ。

 僕は幹に背中をつけると、もたれかかるようにして腰を下ろした。


「立派なことができたんだ。今の僕なら、君と肩を並べたって構わないよね」


 誰に伝えたかったわけでもないけれど、頭に浮かんだ感情を自然と声に出してみる。

 当然ではあるけれど、返事は返ってこなかった。

 そんな些細なことは気にもしていなくて、僕は永遠に続く青空を眺めながら、不思議な時間を共に過ごした〝彼女〟のことを想ってみる。

 よく考えてみれば、簡単にわかることだったのかもしれない。

 どうして先代の神様は後継者を人の世に送り込んだのか。その理由がずっと気になっていた。

 僕に世界の命運を託したことには、やや納得がいかないけれど正当な理由があった。けれども、それは後継者をそばに置く理由にはならない。

 ならば、後継者を現世に降臨させて、実際に人間の暮らしを体験させることにも何かしらの意図がったはず。

 全てが手遅れになる前に、その理由に、その意図に、僕は気づくことができた。

 樹木は、僕ではなく彼女の心情の変化によって成長していたんだ。

 初めに、〝小さな枯れ木〟は、彼女が様々な体験によって得た〝楽しい〟という感情が糧となり、飛躍的に成長した。

 次に、〝立派な大木〟は、慣れてきた日常に〝喜び〟を感じて紅葉した……のだと思う。ここだけは、いまいち自信がないけれど、それくらいしか理由が思いつかない。

 紅葉の理由は保留にしておいて、その次に彼女は、桜庭理奈という少女の我が儘が招いた事件に〝怒り〟を感じた。その段階では樹木を一度も確認しないまま、続けて大切な人を失って〝哀しみ〟に襲われ、僕達は〝紅葉した大木〟が〝無惨な枯れ木〟に変わり果てた姿を目撃することになった。

 これは仮定だけど、もしかしたら〝怒り〟を覚えた直後、樹木は冬眠の状態に移行したのではないだろうか。紅葉して、冬眠して、また花を咲かせる。それこそが、植物の持つ特性であるはずなのだから。

 枯れてしまったのは、急激な変化による弊害だと考えることもできる。あるいは、元々枯れたように見せかけた後で、花を咲かせるような品種として用意されていたのかもしれない。世界の救済を司っていた植物は、既存の概念に囚われる必要なんてないのだから。

 いずれにしても、喜怒哀楽を経て、樹木は枯れるという対照的な形で、満開の花を咲かせる準備を整えたのだ。

 そして、最後に残された条件は、あらゆる感情に通じており、より上位に位置する特別な想いを知ること。

 全てが終わっていく中で、何もかもが失われていく世界で、彼女はまた、僕と同じように感じていたのだと想う。

 お互いがかけがえのない存在であり、自覚している以上に大切な存在だったのだと。

 その人物がどれだけ自分を支えてくれていたのかは、皮肉なことに失ってから気づく。家族や友人との別れが、僕にそれを教えてくれた。

 失う時にこそ、相手に対して抱く〝愛情〟は最も大きくなる。

 樹木に花を咲かせる最後の条件とは、彼女が真実の〝愛情〟を手にすることだったんだ。ありのままの姿を初めて晒してくれた際に蕾が成長したのを見て、僕はそれを確信した。

 だから僕は、僕にも同じ感情を教えてくれた彼女を助けるために、彼女の前から消える道を選択した。

 結果がどうなったのかはわからない。

 成功していれば、彼女は新たな神様となって世の行く末を見守っていくのだろうか。

 失敗していれば、彼女もまた他の人類と一緒に消え去るのだろうか。


「どっちにしても、きっと許してはくれないだろうなぁ」


 それでも、彼女にはやっぱり生きていてほしいと、穏やかな風の吹く世界を眺めながら本心から願った。

 それにしても、眠気を誘われてしまうほどに心地が良い。死後というのは、こんなにも晴れ渡った気持ちになれるのか。


「いや、違うかな」


 きっと、僕がやるべきことをやり遂げたから、満たされた気分で死を迎えられただけなんだ。

 だけど、叶えられない願いでもいいのであれば、心残りはある。

 だけど、やっぱり考えても仕方がないので忘れてしまおうと思い、誘われるがままに瞼を閉じることで深い眠りに落ちようとした。


「――――くん……」


 ――――?


 願ったからだろうか。瞼の裏を向いている僕の耳に、聞こえないはずの声が届いた気がした。

 驚いて瞳を開けてみるが、景色の色は変わらない。

 青空と草原と桜の世界には、戻ることができなかった。


「――――くん……!」


 暗闇に閉ざされているのは、僕がそう願っているからだろうか。

 それとも、世界が終わってしまったからなのか。

 答えのない問題に思案していると、ふと、身体に重みを感じた。目視で異常の原因を確かめようとしてみたけれど、一面は闇に覆われて自分の身体すら見ることができない。


「――くん!」


 ――ちゃん。


 呼びかけに応じようとしても、声は出せなかった。

 ただし、段々と自分の置かれている状況が鮮明になっていく。

 僕は、ずっと目を閉じていたんだ。晴れ渡った青空を眺めている時も、桜の木にもたれかかって、揺れる草原に腰をおろしている間も。

 そして、今も。

 理解したのだから、おそらく僕は瞼を開けられる。

 目を開けたら、今度はどんな光景が広がっているのだろう。


 ――もしかしたら――――。


 到底あり得ない都合の良い考えではあるけれど、僕が諦めていた理想の世界が、進んだ先にあるのかもしれない。

 だとすれば、選ぶべき行動は決まってる。


 ――行こう。


「――優くんッ!」


 彼女の声に引っ張られるようにして、閉ざしていた僕の瞼が開かれた。

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