第16話

「優くん?」


 自分の口から出た言葉を反芻して、嫌悪感を通り越して吐き気がした。

 『頭を抱えた回数は数え切れないくらいあった』だって? 

 なんだ、それは。

 さぞかし仲の良さそうな口ぶりだ。意識せずともそんな台詞が出てくるほど、長い間付き合ってきたのだろう。

 桐生隼人とは、そういう関係にある友人なんだ。

 しかし、彼が命の危険に晒された時、僕は何をしようとした?

 強盗に襲われるなんて運がなかった。実感の湧かないほど先まで続く人生の中で、死ぬまでに刃物を向けられる体験をする人間は、全体の何割くらいだろうか。

 今より六十年くらい昔の、戦争の最中なら多かったかもしれない。けれど、今は戦時中でもなんでもない平和な世の中だ。他人に命を狙われるのは極めて稀だろう。

 基本的にありえないことだから。

 ありえないことに遭ってしまう、彼の運が悪かったから。

 だから、僕は助けなかったのか?

 ……それは違う。僕は、最初から諦めていたわけじゃない。言い訳にもならない無意味な主張だけど、自分はそこまで冷血な人間じゃないと信じたい。


「隼人が強盗に襲われていると知った時、僕は彼を助けようとした。助けるために立ち上がろうとして、先のことを考えたら動けなくなった。怖くなったんだ。もしかしたら、僕は刺されるかもしれないって。死ぬかもしれないって。成功する確証なんてないんだから、失敗した後のことばかり考えて、友達の危機を前にしていながら足が竦んでしまったんだ」

「仕方がないわよ。人は、死に対しては平等に恐怖を持つわ。慣れてしまうと、恐怖を抱いていることを段々と忘れていくけれど、優くんは死と隣り合わせの危険な生活をしてこなかったんでしょうから、死ぬことが怖いのは当然よ」

「当然だから、仕方がないから、なんていう情けない言葉じゃ許されないよ。僕は、守りたかったんだ。守りたいと思ったから立ち向かおうとしたのに、次の瞬間には守るべき対象が自分自身にすり替わっていた。他人より自分を優先するような自己中心的な人間じゃないと自負していたのに、いざそれを試される場に直面したら、躊躇なくプライドを投げ捨てた。自分を守ることを最優先に考えて、友人を助けるのを止めた」

「理想は理想。現実は現実よ。ましてや命の危険を顧みずに他人を救助をしようだなんて、ほんの一握りの勇敢な人にしかできないわ。そんな大きなハードルを越えられなかった事実に対して、劣等感や嫌悪感を抱かなくてもいいのよ。むしろ、それを悔しいと自覚できるだけでも、優くんは立派だとあたしは思うわ。……本当に、そう思う」

「……そう、かな?」

「ええ。それにあたしは、優くんには優くん自身を第一に守ってほしいと願っているわ」

「本当に、そんなのでいいのかな?」

「いいのよ。きっと桐生くんだって、優くんのことを大切に想っているのなら、あたしと同じように考えているはずよ」


 僕はどうだろう。

 もしも僕が命の危険に晒された時、その場に隼人と姉も居合わせていたとしたら、僕は彼と彼女に誰を守ってほしいと願うだろう。

 たった一つの命を捨ててでも、僕を助けてくれ。

 そんな風に考えるはずがない。

 これだけは間違いない。たとえ実際にそうなっても、答えが揺るがないだけの自信がある。

 僕だって、隼人や姉には自分の命を優先してほしいと、そう思うはずだ。


「……逆の立場なら、僕も姉ちゃんや隼人には自分の身を守ってほしいと思うだろうけど……」

「そうでしょう? それでいいのよ」

「だけど……なんかもやもやする。どうしてなのか、はっきりと言えないけど」

「納得がいかなくても、急いで考える必要はないわ。ゆっくり考えていけばいいのよ。まだまだ優くんの人生はこれからなんだから。考える時間はたくさん残されているわ」


 姉はそう言うと、真っ白な空間の中で下手な合成写真のように違和感と存在感を放ち続ける大木を見上げた。


「ただし、この樹木に花を咲かせない限り、〝これから〟は訪れないけれどね」

「強盗の件が関係ないとすれば、成長した理由には僕も心当たりがないよ」

「あの事件は偶然でしょうから、まず間違いなく無関係でしょうね。優くんの心には、大きな変化を与えたかもしれないけれど」

「……世界の破滅なんて、そんなことが本当に起きるのかな?」

「明確な方法は知らされていないけれど、救済の条件を満たせなければ、十三月の最終日を過ぎると同時に世界も終わるわ。それは確実よ。世界の理を書き換えるだけの力を持った存在による宣告なのだから。もしかして、優くんはまだ完全には信じていないのかしら?」

「だって、樹木の成長方法もわからないままだけど、世界の破滅とやらの兆候もまったく現れてないじゃないか。一週間経った今も、世界は正常だった先月と同じように時間が進んでる。おかしくなった僕の世界にだって、新しい変化は起きてない」

「うーん……でも、それはそうね。破滅破滅と口にしても、世の中は平和そのものなんだから、実感は湧かないわよね」

「なんとなく、姉ちゃんの言っている通りになる気もしてるんだけど、実際に見ていないからどうしてもね……っ!」


 喋りつかれてしまったのか、急に眠気が襲ってきた。豪快な欠伸が漏れてしまい、咄嗟に開いた口を手で押さえる。


「ご、ごめん。真面目な話をしてたのに」

「うふふっ、構わないわ。そろそろ二十三時を回る頃だと思うから、眠くもなるでしょう」

「そっか、もうそんな時間なんだ。ここは昼も夜もずっと真っ白で明るいから、時間の感覚が鈍くなるよ。身体は忘れていなかったみたいだけど」

「今日はもう終わってしまうけれど、世界の破滅まではまだ猶予が残されているわ。わからないことばかりで不安な気持ちもあるけれど、最初の一週間でこんなに大きくなったのだから、ノルマとしては充分なはずよ」

「そうはいっても、悠長には構えていられないでしょ」

「ええ。失敗は、全ての終わりに直結するわ。絶対に許されない」

「……ちょっと疑問に思ったんだけど」

「ん? どうかしたの、優くん」

「樹木に花を咲かせて世界の破滅を阻止できれば、十三月はたぶん終わるよね。その後って、世界がどうなるのか知ってるの?」

「いいえ。十三月が終わった後に何がどうなるのかまでは、情報として与えられていないわ。破滅を免れるのは確実だけど、その後のことまではわからない」

「姉ちゃんの存在は、全てが終わったらどうなるんだろう?」

「それもわからないけれど、おそらくは、存在自体がなかったことになるでしょうね。あたしは、十三月にのみ生を許された存在でしょうから」

「そんな……母さんや父さん、隼人からも忘れられちゃうの? 最初から、桜庭神奈という人間は存在していなかったものとして」

「あたりまえよ。優くんは知っているでしょう? あたしは、元々この世界には生まれていない偽物の住民よ。この桜庭神奈という肉体も、仮初の形なのだから」

「正常な時間に戻ると、姉ちゃんも消えてしまうんだね。……姉ちゃんは、それでいいの?」

「いいのって、なにがよ。そうしないと世界が破滅してしまうのよ? あたしがいなくなるのは、世界の救済と同義なの。どこか悪い点でもあるかしら?」

「いや……だけど、せっかく姉ちゃんと知り合えたのに、それがなかったことになるのは少し寂しいな。僕もきっと、みんなと同じように忘れちゃうんだよね」

「全部がなかったことになるって、そういうことよ。優くんに悲しいと思ってもらえるのなら、あたしはそれだけで充分よ」

「姉ちゃんは、その……うまくいったら自分が消えてしまうことが怖くないの?」

「あたしは、それで優くんが助かるならそれでいいの。あたしは、優くんが一番大切なんだから」


 発言が偽りではないと念押しするように、僕の瞳を真摯な眼差しで真っ直ぐに見つめる。

 僕は、実際に誰を優先しなければならないか選択を迫られて、初めて他の誰よりも自分が大切なのだと自覚した。結局は、生れ落ちてから最も長い時間を歩んできた自分自身が、一番大事なのだと。

 姉は、僕が異常な世界から解放される時、笑って消えるのだろうか。後悔などなく、僕が助かったからそれでいいと、本心を試される場面でも同じ台詞を口にしながら、全ての人の記憶から消滅していくのだろうか。

 自分のために誰かが犠牲になるのは、決して良い気分じゃない。

 だけど、それを否定すれば…………。

 僕が返すべき言葉を探っていると、姉は強張らせていた全身を弛緩させて、短いため息を吐いた。


「なんだか辛気臭い感じなっちゃったわね」

「ごめん、僕が変なことを訊くから……」

「気にしなくていいのよ。むしろ、早い段階で確認してくれて良かったわ」

「良かったって、どうして?」

「悩み事は、早期に片付けておいた方が気が楽になるでしょう? それだけよ」

「……本当にそれだけ?」

「なによ。あたしが優くんに嘘をつくわけがないでしょう?」

「別に、嘘なのか疑ってるわけじゃないけど、なんだろう。なんか、こう、何かが引っかかってる感じがするんだよね。どうしてなのかわからないんだけど」

「疲労で思考能力が低下しているからじゃないかしら? 明日からまた学校が始まるんでしょう? そろそろ寝たほうがいいわよ」

「学校か……。世界の破滅が迫ってるのに、暢気に学校なんかに行ってる場合なのかな?」

「手がかりが校内の環境に隠されている可能性もあるのだから、まずは行ってみるべきよ。その辺りは、数日経ってから改めて考えればいいわ」

「僕が学校にいる間、姉ちゃんはどうするの? また、町の中で当てもなく異常を探すの?」

「あたしも学校に行くわ。一応、あたしも身分は高校生みたいだからね」

「はっ?」

「あら、聞こえなかったかしら? あたしも学校に行くって言ったのよ?」

「ど、どうして?」

「それはもちろん、あたしが学生だからに他ならないわ。大人が会社に行って仕事をするように、子供のあたしは学校で勉強するのが普通でしょう? 特に、この国では平日の日中に子供が闊歩していたら、それだけで不審に思われるもの」

「高校はどこ? どこの高校に通ってるの? まさか――」

「優くんと同じ、東條高校よ。明日から一緒に登校しましょうね。大丈夫、寝坊しそうになったら、これからはあたしが起こしてあげるわ」

「学年は? 姉なんだから、僕より歳は上なんだよね? 二年? それとも三年?」

「優くんと同じ一年生よ。高校一年生。あと、次の質問にも先に答えておくわ。あたしと優くんは同じクラスよ。うふふっ、あたしは優くんお姉ちゃんにしてクラスメイトなのよ。とても素敵な間柄だと思わない?」

「な、なんで……? 姉なのに、僕と同じ歳なの?」

「そうよ。生年月日で考えると、あたしの方が少しだけ先に生まれたことになっているから、あたしの方がお姉ちゃんなの」

「いやいやいや、そんな短い期間で二人も生まれるはずがないじゃないか。おかしいでしょ!」

「ええ、おかしいわよ。納得ができなければ、双子とでも思っておけばいいのではないかしら?」

「いや、だけどクラスメイト達は……クラスメイト達も、姉ちゃんのことは知ってるんだよね?」

「でしょうね。あたしも知っているわけだから。みんな、四月から共に過ごしてきた学友として、あたしに接してくれると思うわ」

「不安だ……」

「心配しなくても、優くんの周りはそれほど変わっていないわよ」

「隼人の件があるから信用できないよ」

「彼は特別なの。優くんと親しかったから、あたしとも知り合い以上の仲になっていたのよ、きっと」

「他のみんなとは、隼人ほど親しくはないってこと?」

「そう記憶しているわ。角が立たない程度には、うまく付き合っているようだけどね」


 たとえクラスメイト以上の関係の生徒が隼人以外にいないとしても、彼女は正真正銘の同級生として、僕を除く周りから認知されている。

 心配無用と僕を説得しているけれど、僕からしてみれば〝僕だけが知らないクラスメイト〟がいる時点で、新学期早々に周囲との温度差に頭を悩ませるのは明白だ。また何か、おかしな事件が起こらなければいいけど。

 ただ、事前に聞いておいて良かったとも思う。隼人の時もそうだったが、先に姉から教えてもらえれば、身構えてから異常事態に当たれる。知っているか知っていないかで、与えられる驚きは大幅に軽減できるはずだ。

 しかし今の僕にとってみれば、姉がクラスメイトであり他のメンバーから認知された存在であることなど、大して驚くようなことでもない。おかしいとは感じているけれど、より強大な異変が捻り潰してしまっているようだ。


「さ、戻りましょう。あたしも、瞼が少し重くなってきたわ」


 差し出された僕より少しだけ小さい手を、少しだけ大きな手で繋ぐ。


「うふふっ。優くん、あたしと手を繋ぐのは慣れたかしら?」

「べ、別に、な、慣れるとか、そんなんじゃないよ!」

「そうかしら? 最初の時は、あたしの手に触れることさえ躊躇していなかった?」

「あ、あれは、姉ちゃんが唐突に手を握ってなんて言い出すから、変な意図があるんじゃないかって警戒しただけだよ!」

「ということは、今はもう警戒はしていないって認識でいいのかしら?」

「ま、まぁ、そういう解釈をしてくれて大丈夫だよ。実際、する必要はないと思ってるし」

「うふふっ。そうなのね」

「……なんだか嬉しそうだね?」

「それはそうよ。優くんってあんまりあたしのことを見てくれていないと思っていたけれど、それが誤りだって証明されたんだから。それに、優くんに褒められると、なんだか感情の奥底から嬉しさがこみ上げてくるのよね」

「なにそれ」

「優くんが普段、あたしをあんまり褒めないからいけないのよ?」

「別に、褒めたつもりはないんだけどなぁ」

「言い手の意図より、受け手の解釈よ。あたしがそう思ったのなら、それもまた正しいの!」


 楽しげに自論を展開する彼女が、白い靄に覆われていく。

 徐々に薄れていく彼女の頬だけは、春に咲く桜の色に火照っているように見えた。

 それも一瞬。淡紅色も純白に包まれて、その色を変えていく。

 世界が移り変わる瞬間、僕は周囲の背景と同化した〝立派な大木〟を見上げる。


 ――あれ?


 気のせいかもしれないけれど、白く染め上げられた世界の命運を担う樹木は、今日ここへ来た時よりも僅かに大きくなっているように思えた。

 

 翌朝、僕は予定していた時刻よりも早く起床した。

 設定していたアラームより先に目が覚めたので、無駄に鳴ってしまわないよう目覚ましの解除を行おうと、就寝前に枕元に置いた携帯電話に手を伸ばす。


「すぅ……すぅ……すぅ……すぅ……」


 眠気眼の状態で、目視で位置を確認せず、昨晩の記憶だけを頼りに仰向けの体勢のまま頭の後ろ辺りを手で探す。


「すぅ……すぅ……んん…………むぅ……」


 虚空を泳いでいた手がようやく何かに触れて、僕はそれを持ち上げた。

 寝ぼけているためか、掴んだ携帯電話の感触が妙に柔らかい。


「すぅ……すぅ……」


 そういえば、さっきから耳元で呼吸音に似た幻聴が響いている。

 睡眠が足りなかったのかなと考えながら、とりあえず携帯電話で現在時刻を確認しようと身体を反転させた時――。

 仰向けの体勢からうつ伏せに移行する途中で、僕は〝その存在〟に気がついた。

 柔らかいのも当然だ。僕の握っていたのは、携帯電話ではなく生身の人間の手だった。

 そしてそれは、僕自身の物ではない。


「う、うわっ!!」


 思わず声を漏らし、〝彼女〟から距離をとろうとしてベッドから転がり落ちた。すぐさま立ち上がり、二歩三歩後ずさって部屋の座卓に足をぶつける。


「ん……? ……んみゅぅ…………んん……もう、朝なの……〝おにいちゃん〟……」


 瞼を閉じたまま目元をこすりながら、彼女は上体を起こしてベッドの上に座り込む。

 両腕を広げて大きく背筋を伸ばした後、ようやく彼女の瞼が開かれた。


「んんーっ、ふわぁっ! んん……おはよう、おにいちゃんっ!」


 声も出せずにたじろぐ僕の目の前にいたのは、僕のことを「おにいちゃん」と呼ぶ、存在しないはずの妹だった。

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