エピローグ

 その日の朝、僕はいつもと同じように、自分の部屋のベッドで目を覚ました。

 意識が覚醒した瞬間、自分がどこにいて、何をしていたのかを忘れていた。けれどもすぐに思い出して、寒さも厭わず慌てて布団を跳ね除ける。

 おそるおそる壁面にかけてあるカレンダーへ目を向けると、そこには〝二〇〇二年十二月三十一日〟と、そう表記されていた。

 慎重に日めくりカレンダーの表紙に手を伸ばす。

 右端を摘むと、目を瞑って思い切り下方向に引っ張った。

 紙の繊維が千切れる爽快な音が反響する。

 睫毛を開き、次いで瞼をゆっくりと開いていくと、そこには――。

 もう、紙が残っていなかった。

 布団の上でアラームを鳴らしている携帯電話を取り上げると、アラームを解除して待ち受け画面で日付を確認する。

 見慣れた小さなディスプレイに、〝2003年1月1日〟という数列が表示されていた。


「……戻ってきたんだ」


 肩に張っていた力を弛緩させると、手にしている携帯電話のスリープを解除して、頭に浮かんだ名前をアドレス帳から探してみる。

 予想通り、二人ともアドレス帳からは消えていた。

 だけど、彼女達は今もどこかで僕を見守ってくれているのだろう。

 ならば、いつまでもこんな情けない姿を晒しているわけにはいかない。

 カーテンを開け放って自室から廊下に出ると、どうしても隣の部屋の様子が気になった。その欲求を、念のためなどと適当な理由をつけて満たすことにする。

 隣室の扉に手をかけて、一息ついてから奥へ押し込む。

 扉の先には、使われなくなった調度品などを保管するための、桜庭家の物置部屋が広がっていた。

 これが本来あるべき形なのは、もちろん分かっている。

 けれども、僕にとっては淡紅色の部屋こそが正しいように思えてならない。

 大切な、仲の良い姉妹が住んでいた……。


「――やめよう」


 余計なことを考えようとして、中断した。つい直前に女々しい真似はしないと誓ったくせに、すぐ破ってしまっている。

 情けない行為を寝ぼけているせいにして扉を閉めると、階段を下りて洗面所へ向かった。

 


 多量の水を使って何度も繰り返し洗顔する。冷たすぎる冬の水道水に、眠気と一緒に雑念が洗い流された気がした。

 タオルで水滴を拭い、鏡に映った自分自身を見据える。


「こんなんじゃ、二人に笑われちゃうな」


 対面した僕は、まだほんの少しだけ、暗い表情を捨てきれずにいた。

 再び冷水で顔を濡らした後、僕は食卓に移動した。

 


「ん、おはよう、じゃない。あけましておめでとう、優」

「え。ああ、そうか。おめでとう、じゃない。あけおめ、父さん」

「おおっ、なんだか若者らしいぞ、優」

「らしいじゃなくて、実際に若者だよ、僕は」

「ははっ、それもそうだな」


 食卓に入ると父が一角に座っており、新年らしい挨拶を投げかけてくる。

 巻き戻されている現実に戸惑ってしまったけれど、なんとか自然な返答を済ませた。

 立っているままなのも変に思われそうなので、とりあえず自分の席に腰かける。

 しばらく呆然と父の読んでいる新聞紙の紙面に視線を預けていると、母さんが二人分の雑煮を運んできて、僕と父さんの前に配置した。


「母さん、僕も手伝うよ」

「どうしたのよ、いきなり」

「大変だろうと思ってさ」

「その気持ちだけで充分よ。それに、あとは残りの器を運ぶだけだしね」

「じゃあその器だけでも運ばせてよ。台所にあるんだよね?」

「いいけど……ふふっ、ならお願いするわ。もう装って置いてあるから、こっちまで運んできてもらえる?」

「わかった。母さんは座って待っててよ」

「そうさせてもらうわ。ちゃんと両方持ってくるのよ?」

「両方? 両方って?」

「残りのお椀、二つともって意味よ」


 一瞬、僕の時間は停止した。

 機嫌の良い母親の言葉を耳にして、それが何を示しているのかを考える。

 ……そんなことを言われたら、都合が良すぎる考えを持ってしまうのは当然だ。


 ――しかし、それは……。


 僕が足を止めていると、母さんは食卓の前で振り返り、付け足した。


「あと、それを運んだら起こしてきてくれるかしら?」


 駆け出していた。

 母さんの言葉を聞いて、僕は食卓を飛び出した。飛ぶような勢いで階段をのぼり、自室の隣にある部屋の前で立ち止まる。

 一つ息を呑んで、その扉に手をかけた。

 息を止めたまま、僕はゆっくりと、その扉を開いた。

 


 そこには――。

 


 開け放たれたカーテンの奥で、純白の花びらのような雪が静かに舞っている。

 優しく、穏やかに。雪は僕の心を落ち着けるように、瞳の奥に意思を伝える。

 だけど、僕は窓の外なんて見ていない。

 雪を見ていたのは、その部屋にいた少女だ。少女はベッドに腰かけて、誰かを見つめるように空を見上げていた。

 やがて、少女は窓から目を逸らす。澄んだ眼差しを向けられた先で、僕は彼女を見据えていた。

 二つの視線が、無言のままに重なりあう。

 雪が舞っていた。僕と彼女を見守るように、雪は街に降り続ける。

 その雪が何なのか、僕は知っている。

 ここにいる彼女が誰なのか、僕は知っている。

 けれども、答えを本人の口から聞きたくて、僕はあえて彼女に訊ねてみた。

 あの日と同じ、彼女に初めて声をかけた時と同じ、あの言葉で。


「――君は、誰?」


 それがすごく滑稽に思えて、幸せで、僕の頬は自然と緩んだ。

 彼女がベッドから立ち上がる。微かに息を吸い込むと、彼女は自分が何者なのか、自信に満ち溢れた声で返答した。

 そう言った彼女の顔は、十三月に咲き誇った雪桜のように美しく輝いていた。

 忘れられない毎日の、一日目が始まろうとしていた。

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十三月に舞う雪桜 のーが @norger

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