5-5

 少し乾燥した硬い風が頬を撫でていく。

「新さん、学校に通いだしたそうですよ」

 微笑みながら天鬼が言うと、同じように波羅も頷いた。表情は相変わらずだがどこか嬉しそうだ。

「波羅さんもそろそろ退院ですよね」

「……でも、」

 波羅がしわがれ声で話し出すと、碓井が大きな声で咳ばらいをした。無言の圧力。喋るなと目配せもして。

 波羅は少ししょんぼりとすると、天鬼が買ってきた百均のホワイトボードに文字を書き起こす。

 事件後入院を余儀なくされた波羅と佐藤。汚染がひどく、かつての天鬼よりも重傷だった波羅はついこの間、最後の手術を終えたばかりだ。

[仕事はしばらくお休みだけどね]

 肩をすくめながら見せたボードにはそう書かれていた。いち早く退院した佐藤はすでに現場復帰をする目処が立っており、すでにやる気は十分だと碓井が話した。

「とはいえ、人員が足らないことに変わりはありませんから」

 波羅、佐藤、そして神来社。

「なんで急に辞めるなんていうかなあ」

「んっんん!」

 信じられないと言いたげな碓井の視線に再び肩をすくめる波羅。彼女も彼女で喋った方が早いのに、とでも言いたげだ。

「神来社さんなりに考えがあるんでしょう」

 神来社辞職の知らせにひどく落ち込んだのは天鬼だった。未だに信じられないが、嫌になって辞めたとかそう言う理由ではないような気がしていた。できることなら神来社に会って話し合いたいが相変わらず行方知れずだ。

[ある日突然現れたりしてね]

 いたずらっぽく口角をあげた波羅が言う。

「まあ神来社さんはいつも最善を選ぶ人ですから」

 碓井の言葉尻を鸚鵡返しした天鬼にやさしく頷きかける。

「自分のいいと思ったこと、ベストを尽くす人ですから」

 その選択に救われた人がたくさんいるのだと。

 天鬼も自分が助けられたときのことを思い出した。黒い嵐の中、屈することなく堂々としていた。朦朧とした意識の中でもはっきりと記憶に焼き付けることができた。あの姿は今でも夢に見ることがあるくらいだった。見ず知らずの新人のために戦ってくれた。それだけで天鬼の心のよりどころになった。

「神来社さんが放浪するのは、少しでも多くの人を助けるためだと聞いたことがあります」

 どんな小さな異変も見逃さないために。自分がいれば助かる命があることをよく理解しているがための行動だと。

 なんとも神来社らしい理由だなと思った。それなら、辞職するといいだすのも何となく理解できたような気がした。

[補填人員はあるの?]

「今要請をかけています。それまでは非常勤の職員が来て業務を賄うそうです」

 なるほど、と天鬼は頷いた。事務所の空気が一気に変わりそうだな、とも思った。エースを失ったN-3の中で天鬼は一番力不足だ。そう感じていた。だからこそ、できることがある。神来社のように、自分にしかできないことを探さなければ。いつまでも新人ではいられない。

 いくつか会話をしたあと、波羅の病室を出、二人はあの交差点へ来ていた。多くの人を悪夢に飲み込んだ元凶は小さな石敢當の中に封印されている。

 事故現場に花束を手向け、手を合わせた。相変わらずこの通りは賑やかで、車も人も絶えなかった。

 たとえ辻神が封印されていたとしても、煉獄に迷い込むことはあるだろう。何も知らずにたった一人で取り残された人の不安を考えると胸がきゅっと痛んだ。そんな人をいち早く救出するために、天鬼は再び決意を新たにした。

「ところで、この石敢當、いつの間に用意したんですか」

 さすがだと褒めた碓井が訊ねた。

「ネット通販にありました。万が一のために買っておいてよかったです!」

「ネット通販……」

 ぽかんと口を開けたあと独り言ちた碓井は再び石敢當を見た。部下の命はネット通販に救われたのかとなんとも言い難い気持ちになった。

「経費で落としましょう」

 とはいえ、最良の結果をもたらしたことに変わりはない。天鬼に感謝するとともに、領収書のありかを訊ねた。


よって、件の如し―完―

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いつか、煉獄で会いましょう 鳳濫觴 @ransho_o

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