4-6

 暗転。僕はつま先を見ていた。

いつもより早い就寝だった。体を休めるためのものではなく、義務としての睡眠。僕の命を懸けた、一度きりのチャンス。

 つま先には波紋が打ち寄せていた。波のように、向こうからこちらに。深くはない。足の甲が浸かることはなかった。指の間が粘度のある液体で滑り気持ちが悪い。指を寄せると間からどす黒い血がせり上がるのが見えた。

 打ち寄せる波紋に視線を向けた。乱れながらも絶えず現れ続けている。うつろな瞳、生気のない表情。死相を携えた頭がいくつも転がっていた。波間に漂う頭髪がでろでろと棚引いている。その中に鈍い光沢をもつ何かを見つけた。波紋はそこから出ている。わずかな動きにより波紋が発生している。蹄だ。なだらかな稜線を描きながら、武骨で堂々とした脚が伸びていた。

 黒毛の牛。この暗闇の中で溶け込んでよくわからなかったものだ。今でははっきりと輪郭が見える。大きな体躯をしていた。角の生えた頭はない。代わりに健介の顔があった。死相を浮かべたうつろな顔。なのに口は動き続けている。小刻みに動く顎を見つめた。震える唇がだんだんゆっくりになっていく。

 約束は理解していた。言葉を知ってしまうと死んでしまうからだそうだ。それでも健介の顔から視線を外せなかった。

 誰よりも優しかった健介。僕を気遣い、面倒を見てくれた。学校でいじめられたときも誰よりも先に気づき戦ってくれた。同級生と遊びたいだろうに、僕を誘い遊んでくれた。秘密だと言ってくだらないいたずらも一緒にした。どんな馬鹿げた相談も真剣に聞いてくれた。夢でさくらに会ったと言ったとき、かたくなに口を閉ざした理由が今ならよくわかる。僕をかばってくれたんだ。余計な心配をしないように。

 そんな健介が目の前で言っている。僕にはわからなかったけれど、無意識に言葉を追っていた。

 ――お、ま、え、は、

 きっと死ぬんだろう。繰り返し動く口の形が重複している。

 乾いて皺の寄る口角。切れた唇。濁った眼。どれも現実ではないとわかっているのに眼が離せなかった。

 その時だった。健介の瞳がぎょろりと動く。体がぶるぶると震え、そのまま横を見る。暗闇だったはずの空間に孔が開き、隣の部屋――健介の部屋が見えた。



 具象化した夢が開くなり、部屋になだれ込んできたのは耳をふさぎたくなるような爆音だった。調子の外れた電子音。部屋を震わせるほどの通りゃんせだった。

「空いたぞ!」と、叫ぶ来栖の声をも飲み込んだ。

「つなぎます!」

 そう叫んだ櫟原は煉獄への道を開く。

「新さん!」

 天鬼が叫んだ先にいたのは件と顔を突き合わせる新の姿だった。その呼び声に反応した件がガタガタと体を震わせ、到底生き物とは思えない動作でこちらを見る。接続の甘い首から血しぶきが上がった。そして、その頭上、暗闇に溶け込んだ大きな体躯、新たちに覆いかぶさるようにしてこちらを見る辻神の姿だった。膿のような濁った瞳がこちらを捕捉した。何をしているのか理解したのか、辻神が操る件が大きな声を上げる。叫びなどではない。死に直面してあげる断末魔だった。

 ずるりと夢から飛び出した辻神は、櫟原の準備した通路で煉獄へと飛び込んでいった。しかし、辻神から解放された件は、暴れまわりながらこちらへ突進してきた。部屋中のいたるものにぶつかり破壊しながら、部屋の窓を割り人々が住まう現世の夜に飛び出していった。

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