第41話

     ◆


 エクラは部下に声をかけて回った。

 亀裂から降り立った洞窟は、すでに完全にエクラたちに制圧されていた。

 この洞窟へ通じる通路での戦闘は酸鼻を極めたと表現するしかない。地獄が現実のものとなったと言ってもいいだろう。

 人間たちは身の安全のため、獣たちは自分たちの世界を守るため、退くことを許されず、また自身に退くことを許すこともしなかった。

 刃と刃が交錯し、盾と盾がぶつかり合い、鎧は砕け、壁にも地面にも天井にも、複雑怪奇な血液を使った抽象画が描かれた。それらの中をありとあらゆる意味の絶叫が、何かの演出のように響き続ける。

 あるものは指示を飛ばし、あるものは仲間を叱咤し、あるものは助けを求め、あるものは意味のない悲鳴をあげた。

 通路は死体で埋まるほどだったが、戦う者たちはその命を失った肉の塊を、戦闘に差し支えるという理由で回収し、その間もまた、戦闘は続行された。

 小休止のような膠着を何度か挟んだが、両軍共にここが正念場だと見ていた。

 激戦は半日に及び、最終的にはこの洞窟へ通じる通路は、人間の手に落ちた。エクラたちから見れば、異質すぎる存在である耳の生えた男たちは撤退したようであったが、人間は通路がどこへ通じているのか、知る由も無い。

 とにかくこうして、防御に最適な空間が確保された。少数で防御可能で、仮に大軍が押し寄せても数の優位が生きることの無い、そういう戦場を手に入れたのである。

 人間側の死者はさらに四十名を出した。百人隊が増援できていたとはいえ、重すぎ消耗である。食料や武具は万全でも、これではいずれ戦う者がいなくなる。

 エクラの心中では怒りが渦巻いていた。

 兄は何故、こちらが要求した三〇〇人の増援を、一〇〇人に減らしたのか。あの時、三〇〇名がそろっていれば、こんな苦労はすることはなかった。もっと迅速に、果断に、敵を押し返せただろう。

 過ぎたことは仕方が無い。絶対では無いが、大きいな戦力を持っていても、それを小出しにするのは愚行と言って良い。兄がその程度のことを判断できないわけが無い。

 エクラは思案を巡らせたが、さすがの彼も、アクロの元へ獣の側からの使者が派遣されているとは、知る方法がなかった。アクロが箝口令を敷いたがために、増援の百人隊長さえ、知らなかったのである。

 この混乱は見る向きを変えると情報共有が歪になったと捉えられる、と後の時代の歴史家はいうだろうが、この時を生きるエクラが求めるものはとにかく、兵力だった。残存しているのは一〇〇名程度。洞窟の先への偵察が上げてきた報告によれば、何やら広い空間があるが、今度こそ、敵は堅陣を組んでエクラたちを一人として通らせない構えでいるという。

 広い空間とは何か。

 そうエクラが問いかけた時、偵察の男は困惑を隠しきれないまま、「街のように見えました」と報告した。

 エクラは偵察を下がらせ、負傷した兵の間を励まして回りながら、背筋が冷えるのを感じた。

 エクラも遥か昔の伝承のことは聞いている。獣人戦争のこともだ。しかし全ては空想の上の伝承、作り話ではないのか。アガロン家にいた家庭教師は、獣人戦争とは、島の人間と大陸の人間の衝突を人と獣人に置き換えたものだ、と語りさえしたものである。

 それは全部、嘘だった。そう考えるしかないとエクラは考え直していた。

 敵は伝承にある獣人そのもの。地下に生き、街さえ存在する。

 獣人は実在した。

 歴史的な発見、歴史に刻まれる重要な瞬間に立ち上がっているが、エクラは興奮せず、喜びもできなかった。

 戦闘を始めてしまった。敵を殺し、味方を殺された。

 異種族との遥かな時を経たのちの再会は、すでに血に塗れ、憎悪に汚されていた。

「エクラ様」

 百人隊長がやってきた。

 洞窟は今や野戦病院のようになっている。負傷者を地上へ戻す作業は、なかなか進まない。

 百人隊長自身も怪我をしており、片足をわずかに引きずっていた。頬に傷跡があり、乾いた血がこびりついている。もっとも血を浴びているのはエクラも同様だった。

「洞窟から街らしい場所への一帯は完全に我々に制圧されております。敵は通路のようなものを抜けた先に隊を展開して、こちらを押しとどめる構えのようです」

「突破できると思うか」

「我らは小勢です。やはり増援がないと苦しいでしょう、この上におそらく、二〇〇人ほどは待機しているはずですが、おそらくアクロ様は二〇〇を参戦させないのではあるまいか」

「なぜそう思う?」

「怯んだり迷ったりするような方ではないかと。つまり待機させたのは、怯懦でもないし、慎重さでもないと思えるのです」

 なるほど、とエクラは思った。

 兄には兄で、何か考えがあるのだ。今、それがエクラの判断とずれているがために、アガロン家の兵隊たち、奴隷たちはチグハグな行動をとり、無駄な犠牲を出している。

 一度、地上へ戻るべきか。

 エクラはそのことを初めて意識した。ここは百人隊長に守らせ、自分は兄と状況を見る視点、今度の展望を共有する必要があるのではないか。

 そのことをエクラが百人隊長に報告しようとした時、洞窟に駆け込んでくる兵士がいた。その慌てぶりに洞窟にいたものは揃って殺気立ったが、彼はエクラを見つけると目の前まで来て膝を折った。

 そして声を張り上げた。

「申し上げます! 敵が交渉を求めています」

 交渉……?



(続く)

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