名もなき英雄

和泉茉樹

第1話

     ◆


 この島には三つの国がある。

 エッセルマルク、オルシアス、ハッヴァの三国は同じような国力を持ち、時に手を結び、時に裏切り、そうしてこの数百年を過ごしている。

 俺がこの島に生まれ落ちたのも不運なら、両親が疫病で死んだのも不運、その両親が農耕地のために借金をしていたのも不運だった。

 身寄りのない俺は、七歳で奴隷として売られた。

 引き取ったのはエッセルマルクの騎士家の男、アクロ・アルガンで、俺は彼の治める土地で、人がやりたがらない仕事をやらされた。糞尿にまみれたこともあれば、浮浪者の死骸を運んだこともある。

 そうして十四歳まで生きてこられたのは、それまでの不運を帳消しにするとはいかないまでも、幸運だったと思う。

 ただし、その幸運は新たな不運の呼び水でもあったのだが。

 エッセルマルクにオルシアスの軍が侵入し、略奪行為を働いた。エッセルマルクは即座に対抗する隊を編成し、送り出したのだが、その部隊の中に俺も組み込まれた。

 雑用などをやらせるためではない。

 歩兵として使われるためだった。

 そうして俺は体と大きさが合わない鎧を着て、槍を手に持ち、腰に剣を差し、背中に盾を背負って、堂々とした体躯をきらびやかな武具で覆ったアクロにくっついて、総勢二百名のアクロ隊の一員となったのだった。

「これで勝てば、生き延びられる」

 同じ奴隷の少年が、俺と同じように不似合いな鎧をがちゃがちゃいわせながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いている。

「兵士を一人でも倒せば、生き延びれる。そうだ、指揮官を、指揮官の首をはねれば、奴隷じゃなくなるんだ。兵士になれる。解放される」

 そんなことを繰り返す奴の横で、俺は冷めていた。

 今まで、俺は何人もの仲間が戦場へ行くのを見送ったが、帰ってきたものは少なく、帰ってきたとしても心が完全に壊れていた。常に怯え、震え、やがて食事を摂らなくなり、病にかかり、死ぬ。

 戦場はそういう場所、心が砕け散る悲惨な場所だと、俺は理解していた。

 なるほど、指揮官、将校の首を持って帰れば、評価されるかもしれない。でも俺たちは、その首にたどり着くまでにいったい、何人を倒せばいいのだろう。何より、生きていられるのだろうか、戦場で。

 軍の行進は続く。食料は領地にいた時より質が良くなったほどだが、それだけ奴隷より兵士の方がいい飯を食えるということ。救いはない。

 奴隷たちで集まり、話は自然と、どう手柄を上げるか、に集中した。

 しかし一人、俺より一歳年上だという少年が冷え冷えとした声で水を差した。

「仮に指揮官とやらの首を手に入れるとして、その時、ここにいるもので誰が生き残っているんだろうな」

 反射的に、全員が全員、ここで顔を並べているものの顔を見やった。

 生き延びるしかない。

 それが簡単な目標だったし、俺たちは今までずっと、それを考えてきたはずだった。

 それなのに、これから俺たちが行くところは、今までとは勝手が違うのだ。

 今までは下手を打たなければ、生き残ることができた。

 鞭で打たれたり、食事を取り上げられたり、そういうことはあったけれど、殺されることはなかったから。

 なのに戦場では、相手は俺たちを、容赦なく殺そうとしてくる。

 生きるか死ぬかという二択は、今までの生活の中での二択と似ているようで、まるで違った。

 夜は静かに更け、朝が来て、日差しが全てを照らし、夕日が世界を朱色に染め、夜の闇が全てを漆黒に塗りこめる。

 奴隷上がりの歩兵を束ねる隊長たちが話すには、オルシアス軍はすでに陣を敷いていて、地名で言えばイナンホテプという平地で待ち構えているようだ。

 エッセルマルクの騎士たちが自然と合流していき、すでに総数がどれくらいか、俺には見当がつかなかった。数千はいそうな雰囲気で、かなり大規模な戦闘になるのはもはや疑いの余地はない。

 ある夜、奴隷が数人、脱走しようとした。

 それを俺が知ったのは、深夜、叩き起こされて整列させられ、篝火の明かりの下で首だけになった仲間を見た時だった。

 そして歩兵隊の小隊長が俺たちが見ている前で、奴隷頭の首と胴と切り離した。

 何か小隊長がわめいていたが、どうしようもない。

 俺はいよいよ死ぬしかないと覚悟して、ただ無関心に目の前の光景を見ていた。

 その三日後、全隊はイナンホテプに布陣した。

 向かい合うオルシアス軍は見たところ、四千ほどか。騎兵と歩兵の割合は不明。まだ矢が届く距離ではない。

 しかし空気はすでに戦機が熟しつつある、奇妙な熱気に変わっていた。



(続く)

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