第43話

     ◆


 アクロは幕舎の外に立ったまま、じっと腕組みをして思案していた。

 兵を退くことができるのか。まずはそれだった。

 現時点では、地面にできた亀裂の奥、そのまた下の亀裂しか、道筋がない。負傷者がそこを自力で這い上がるのはありえないだろう。となると大掛かりな道具を用意するのか。

 死んだものはどうすればいい。遺体は生きている人間を引っ張り上げるよりは楽かもしれないが、そう簡単にいくだろうか。しかし戦死したものをそのまま捨て置く訳もいくまい。奴隷はともかく、身分のあるものの遺族に、なんと言えばいい。

 やはり最初に三〇〇を投入するべきだっただろうか。

 幕舎の中に奴隷の少年と異種族の少女を残している間にも、地下からの伝令が頻繁にやってくる。負傷者の数などはそれでわかるし、戦況も、割れ目の下の洞窟は完全に制圧した、という知らせもある。また、その洞窟へ通じる通路も確保したようだ。

 何者が地下にいるにせよ、それは人間に限りなく近いが、決定的に違い、しかし人間と相似の知性を持っている。

 どこかで融和できるのか。それとも、どこまでいっても共存は不可能なのか。

 エッセルマルクの騎士の一人に過ぎないアクロには荷が重い、重すぎる難題だった。しかし今、アクロの代わりに考えてくれるものも、決断してくれるものもいなかった。助けを求めている時間的余裕もない。

 八方塞がりだな、とアクロはいっそ笑いたかったが、できなかった。

 背後に気配がした。アクロの周囲を、というか、幕舎の方を見張っていた兵士たちが一斉に槍を構える。

 幕舎から出てきたスペースという少年の奴隷と、獣の耳が頭に生えた少女が、アクロの前に膝をついた。

 アクロは彼らが外に出たことを指摘しなかった。

 気配がしたのだ。

 決意の気配が。

 言葉を発したのは、意外にも異種族の少女だった。

「名乗るのが遅れました。私はナルーと申します。地下に生きる獣を統べる者の使者として、ここまでやって参りました」

 俯き加減の顔は憔悴しきっているが、声には力があり、発音も明確だった。

「使者として、何を伝えるつもりだった?」

「人間と獣、この両者は決して混ざってはいけないものだと、我々は思っております」

 混ざってはいけない、か。

 今、まさに両者が混ざり合い、泥沼の様相を呈している。容易には抜け出せない泥沼だった。

「それで?」

「戦闘の停止、地下からの撤収を求めるはずでしたが、既にそれは叶いません。私が間に合わなかったことに咎があり、あなた様には何の不手際もなかったと心得ています」

 さすがのアクロも目を細めた。怒声を発さなかったのは、あまりの怒りに言葉を失っていたからでもあった。

 不手際がなかったわけがない。

 アクロは自分の力の足りなさを、たった今、痛感していたのだ。

 いっそ、それを責められた方が楽だった。何の責も受ける立場ではない、とされるのは、アクロにとって愚弄に等しかった。

 ナルーという少女を睨みつけたまま、アクロはしばらく黙り、「方策があるのか」とだけ確認した。それがあるからこそ、こうして幕舎を出てきたのだろう。

 少年も少女も、顔を上げることはなかった。

「あなた様には、地下の騒乱を鎮圧していただきたいのです」

 言ったのは少女の方だが、アクロには意外な内容だった。

「騒乱を鎮圧するなどというが、まさか大声で呼びかけろ、というわけではあるまいな」

「はい。武力をもっての鎮圧です」

 少女の言葉に、アクロは眉をひそめた。

「お前が言っていることは、我々、人間が地下世界に突入し、そこでお前の同類を切れ、と言っているように聞こえるが、違うのか?」

「我々は本来、戦いは好みません。今は、その、冷静さを失っているだけのこと。戦力に差があること、抵抗が無駄なことがわかれば、それで誰もが武器を捨てるでしょう」

「身勝手なことを言う!」

 アクロは腰の剣を抜いて、少女の額に切っ先を触れさせんばかりに突きつけた。

「もし戦闘になれば、お前の仲間も、私の部下も、死ぬかもしれぬのだぞ! それを承知で、我らに動けというのか!」

 不意に少女がわずかに顔を上げた。

 真っ青な顔をしているが、瞳には強い意志の光があった。

 それを真っ向からアクロは受け止め、弾き返した。

 にらみ合いはどれほど続いたか。

 アクロは剣を引いた。

 そうするよりない。アクロは心の中で負けを認め、その負けにこだわらないことに決めた。

「地下へはどうやって向かえば良い? ナルーとやら」

「人間のうちに伝えられているはずです。かつて人間と獣の激戦地だった、神威の回廊、そこへ向かうのです」

 神威の回廊?

 思わず舌打ちして、アクロは腕を組み直した。

「誰か、神威の回廊というものを知っているか」

 唸るように彼が言うのに、周囲の兵士たちは困惑しながら首を振った。これには今度はナルーが困惑した。

「誰も知らんよ、残念ながらな」

 アクロが言ってやると、少女の顔に絶望のようなものが差した。

 いや、そうでもないか。

 不意にアクロは気付いた。

「おい、誰か、例の聖教会の老女がいただろう」

 アクロがそう声をかけると、兵士たちが駆け出していった。

 ナルーは悔しそうに顔を俯け、スペースの表情はアクロからは光の加減で見えなかった。

 真夏の日差しの下で三人はほとんど動かず、強い日差しに焼かれるままでいた。



(続く)

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