第44話
◆
俺は事態の推移を見守るしかなかった。
幕舎の中でナルーとは打ち合わせをしていた。奴隷である俺が進言するのは立場上、ありえない。ただでさえ奴隷という身分にしては優遇されているのに、その奴隷が騎士である自分に助言してくるのは、さすがのアガロン騎士家の現当主でも不愉快だろう。
だからナルーに話させた。
ナルーが話をする意味として、獣であるナルーが獣との騒乱の鎮圧を求めるのは、矛盾しているようで、別の見方もできる。
それは、自己犠牲を甘受する、という姿勢だ。
獣の身でありながら、獣の犠牲を受け入れる。だからどうか、平穏を約束してほしい。
ナルーの言葉に含まれたその真意を、アクロは受け取り、剣さえも抜いたが、最後の一線で彼は冷静さを選んだ。
俺は何もしなかったに等しい。
ナルーには獣の犠牲を容認させ、アクロには人道的な行動を取るように誘導する。そんな操縦だけが、俺が実際にやったことで、俺自身の成果はまるでない。
自分が陰から選んだ展開は、果たしてどこまで正しいだろう。
死んだ人間、死んだ獣は、報われるだろうか。
報われるとは、何か。
最良は生きていることではないのか。
どんな身分でも、どんな立場でも、どんな場所にいようと、生きていれば、それでいいのではないのか。
俺は奴隷として生きている時、何かに対して不満を持っていたかもしれない。それはある時には両親であり、ある時には銭であり、ある時には自分の不運だった。
しかし今になってみれば、その不満にまみれた生活でも、どこかに手応えがあり、その手応えがあれば、幸せだったのではないか。
例え、翌日には戦場で果てるとしても、陣に戻って座り込む時、恐怖と絶望、形だけの安堵、解放感、そういう全てが、実は幸福だったのではないか。
生きているから、俺は俺だった。
死なないこと。それしかない。
生き延びること。それしかないのだ。
死者のために祈る。死者を悼む。そうして先へ進むのが、生きている人間の特権であり、幸福そのものなのではないか。
俺がじっと膝を折っているところへ、人が戻ってきた。
「聖教会で、神威の回廊、その場所はわかるか」
アクロの声に、「神威の回廊など、どこで聞きました」と答えたのはしわがれた声で、どこか空気が抜けるような発音で聞き取りづらい。音の高さ、しゃべり方からすると女性で、相当な高齢のようだ。
「そこの娘から聞いた。地下への道筋だと聞いているが、知っているようだな」
その言葉の直後、女性が引きつったような声を上げた。俺はわずかに顔を上げたが、確かに老婆だが、尼僧服を着ている。そうか、聖教会の人間か。戦場では戦死者のための祈祷などで、教会関係者が必要になる場面は多い。奴隷の俺にはあまり縁がなかったが。
「なんですか、このものは……!」
老婆の視線はナルーに向いている。
「このような、汚らわしい、異形の化け物を、どうして切り捨てないのです! あなた、なんと不信心な……! 切りなさい! 今すぐ!」
「この娘を切っても意味はないな。地下にはもっと大勢、いるらしい」
アクロが平然と答えると、老婆は口をわななかせたが、言葉はなかなか出なかった。そこへ追い打ちをかけるようにアクロが言葉を重ねる。
「あんたの言うところ、異形の化け物とやらがな、私に軍を率いて地下を制圧しろと言っている。しかし道筋が神威の回廊という私にはわからない経路しかない。これでは異形の化け物を討つこともできない。困ったことだ」
「き、き、教会を、愚弄するつもりか! この、小僧が!」
「小僧と言われたのは久しぶりだよ、婆さん。老後という奴を楽しみたいなら、今、吐くべきことを吐いてもらおう」
俺は黙って聞いていただけだが、見たこともない光景だった。
アクロ・アガロンという人物のことを俺は誤解していたらしい。彼は柔軟に、押したり引いたりの駆け引きを展開している。怒りを煽るのも巧妙だった。地位や立場、後ろ盾、年齢、そういうものを的確に押さえていく手法は、ユニークだ。
「知っているのか、いないのか、教えてもらおう」
先ほどとは違い、今度はわざとらしく、長い時間をかけてアクロが剣を抜いていく。鞘と剣が擦れる音が伝播したように、老尼僧はガタガタと震え、一歩、二歩と後退した。もちろん、それで動きを止めるアクロでもなかった。
切っ先が太陽の光を反射した時、ついに老婆の自制心は決壊した。信仰心が、と言ってもいいかもしれない。
「神威の回廊は、イナンホテプの平地に面する、ハムジャン遺跡のことでございます!」
「ハムジャン遺跡か」
俺にはその知識はなかったが、アクロにはあったらしい。受けてきた教育が違うのだ。
鞘に剣を戻したアクロから矢継ぎ早に指示が飛び始め、どうやらアクロは隊を総動員して、ハムジャン遺跡へ向かうようだ。
「ナルーとやら」
アクロが膝をついたままのナルーに声をかける。
「これは侵攻ではない、と、伝えておこう。我らが仲間を迎えに行くのだ。地下になど、私は興味がない」
「ありがとうございます」
俺も一層深く、頭を下げた。
しかしここで、思わぬ報告が入った。
アクロのそばに立った兵士が「地下に住む者たちが交渉をしたいとのこと。エクラ様が、代表として対応するとのことです」
なんだと。
いつになく冷えたアクロの言葉は、俺の背筋を震えさせる響きを持っていた。
しかし、交渉だって?
誰がそんな提案をしたんだ……。
(続く)
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