第54話
◆
俺がすぐそばに膝をつくと、ナルーは俺の方を見た。
「さっき、何かが私に、記憶を見せたの」
「記憶?」
「そう、あれは、トピア様の記憶だった。それとトピア様の御意志」
もう一度、ナルーが目を閉じた。その口元は、激しく震えていて、言葉は聞き取りづらいほどに発音が乱れた。
「トピア様も、長老たちも、自分たちを滅ぼすと決めたのよ。人間にわざと獣の剣を抜かせ、自分たちを化け物に変えた。そうすれば、獣たちはただの魔獣に過ぎず、駆逐する対象とされ、本当にこの世から消えるだろうって」
俺は何も言えずに、彼女の言葉をただ聞いた。
「今のままでも争いは避けられず、そして自分たちが、正気のまま、争いを継続するのを恐れたのよ。だから何も考えず、ただ襲い、ただ破壊するだけの存在になることを選んだ」
それは愚かなことなのか、それは逃げだったのか。
俺には答えの出せない問題だった。
人間は我を忘れることなく、同類を殺すことがある。俺が立った戦場だって、まさにそうなのだ。俺は例えば薬物で酔っていたわけでもなく、ただ剣を振るい、敵を倒した。自分が死ぬことさえも、正気の中で受け入れていたのだ。
獣にはそれができなかったのか。
それはある面では獣という存在の高い理性を証明するのだろうか。
でも、理性があってどうなる? 争いを拒絶し、正しい行いだけを選べることは、果たして幸福だろうか。
以前、ナルーは俺に言った。地下の世界には争いがない、と。
争いがないことは、楽園の一つの条件かもしれない。
しかし楽園なんて、現実には存在しない。現実に存在するものはなべて、競争、闘争の後に生まれたか、それらの萌芽を育んでいるのではいか。
千年の昔、獣人戦争の後にこの地下の楽園ができたように。
千年を経ても、結局は騒乱によってこの地下の楽園が廃墟と化したように。
「寂しいことね」
ナルーのか細い声は、いとも容易く空気の中に溶けて、消えていってしまった。
彼女に体の様子を聞くと喉が渇いたという。地上の水だが、と断って飲ませると、彼女はやっと笑顔を見せて「おいしい」と言った。それだけのことが、俺には何故か無性に嬉しかった。
半日ほどでナルーは起き上がり、体に問題のないことを確かめると、街を見に行きたい、一緒に来ないか、と俺を誘った。
「もう魔獣はいないと思う。私がこうして獣の姿でいるわけだしね」
それもそうか、と俺は彼女についていった。
洞窟を抜けると、街が見通せた。
すでに火災は燃えるものが燃えたからか、鎮火しているようで煙すらも消えていた。
街は激しく破壊されている。
魔獣の死体がどこかにあるのではないか、と俺は思っていたのだが、どれだけ道を進んでも魔獣の死体など一つもなかった。
まるであの時の光景、惨劇は妄想だったのだと伝えるように、破壊の痕跡はあってもその破壊をもたらした存在は、影も形も無くなっていた。
ナルーは痛ましそうに破壊され尽くした街を見て、そして巨大樹の方を見上げていた。
二人で生命の川にかかる橋へ来た。ここからは巨大樹がよく見える。
今は太すぎるほどのに太い幹は真っ黒く染まり、いつ倒れてもおかしくないように見えた。
「元に戻ることはないのかなぁ」
ナルーの声は涙のせいか、震えていた。
「誰もいなくなっちゃった。巨大樹だって、枯れて……」
俺とナルーは橋の上で、ただその巨大な木を見ていた。
水音が不意に、鮮明に聞こえた。
足元を見る。
「おい、ナルー」
橋の欄干の向こうから、俺は目を離せなかった。
水から淀みが消えていく。
「ナルー、見るんだ」
俺が言葉にしている間にも、水はみるみる透き通っていく。
濁りはなくなり、ささやかな光をまるで何倍にも増したように、水面がきらめく。
ナルーが歓声のような声を上げた。
生命の川が、甦っていく。
その透明な水は、巨大樹の根元を流れており、巨大樹の数え切れない無数の根が、それに触れている。
変化は少しずつだった。
巨大樹の根元に、かすかに色の変化がある。その小さな点のようなものが、いくつも重なり合う。
点の一つ一つが、緑の新芽だった。
あっという間に、巨大な枯れ木の根元に、鬱蒼と緑が茂り始めた。
巨大樹が元に戻ることはないが、しかしその命は今、また新しい季節を迎えたようだった。
すごい、と呟いたのは俺か、ナルーだったか。
今までどこか焦げくさかった風に、瑞々しさが織り込まれているような気がしたが、それは気のせいではないだろう。
再生の時が、来たのだ。
新しい時が。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます