第53話
◆
目の前に寝かされているナルーを見ながら、俺は兵士たちが残していった食料の中にあったチーズをかじっていた。
酒もあるようだけど、飲む気にはなれなかった。
すでに岩は光を発さなくなり、俺は小さな焚き火で周囲を照らしていた。木箱など無数にあるので、燃料に困ることはない。
ナルーをこうして眺めて、すでに丸二日が過ぎている。
呼吸はしている。脈はある。でも目覚めようとしない。
彼女を背負って生命の川の上流へ向かい、そこにある清浄な水に、俺はナルーを沈めた。
そこでは生命の川は生命の川の本来の効能を発揮し、見る間にナルーの傷は癒えたのだ。
だが意識が戻らない。まるで意識を取り戻すのを、彼女自身が拒絶しているのではと思うほど、彼女は停止していた。
俺はいつまで、ここで彼女を見守るのだろう。
食料が無くなったら、どうするのか。この地下で、一人きりで、自給自足の生活を始めるのだろうか。
一度、立ち上がって俺は生命の川の様子を見た。
まだ少し濁っているが、透度は取り戻されつつある。さすがに飲む気にはなれないが、手で触れてみた。何かの膜が手にまとわりつき、皮膚がちりちりと痛む。まだ元通りというわけにもいかないか。
背後を振り返る。
ナルーは眠っている。
その時、不意に声が聞こえた気がした。頭上を振り仰いだのは本能的なもので、揺れる焚き火に照らされ、影が不規則に踊っているだけだ。割れ目は確かにそこにあるが、外は見えるわけもない。
憎しみは克服できぬものだ。
そんな風な声に聞こえた。耳を澄ますと、今度は背後から声がした。
お前は何故、憎まないのだ。
振り返っても、誰もいない。
誰が喋っている?
「誰だ!」
俺の声は空間に反響し、消えた。
誰でもない。
水中からの声。視線を向ける。何もいない。
かすかな明かりに、俺自身の影が壁に映っている。
ゆらゆらと俺の影が揺れるのと、声が同調する。
お前とそこの娘、二人から始めるのも悪くあるまい。
意味不明だった。
「何を言っている! どこにいる! 姿を見せろ!」
私はどこにもいない。
どこにもいない?
私はお前のうちにいる。万物のうちにいるのだ。
周囲を見回す。影が揺れ続ける。まるで影が喋っているようだ。
しかし影が喋るわけがない。
万物のうちにいる? それはどこのことだ?
人のうち、花のうち、岩のうち、風のうち、光のうち、全てだ。
意味がわからなかった。
しかしそういう存在に、人は名前をつけたことがある。
精霊王とも呼ばれるもの。神ともされるもの。
名前など、意味がないことを、お前自身が知っているはずだ。
その言葉に、俺は急に気づかされた気がした。
どのような名前で呼ばれても、俺は俺だった。あるいはどのような場所にいても、俺は俺だったのではないか。両親の元にいても、奴隷となっても、偶然に地下に落ちて獣たちと関わっても、結局、俺は俺だった。
それで良い。お前がお前であれば良い。世界を救ったのではなく、種族を滅ぼしたのでもなく。
違う。
俺は何も救えなかった。そして、獣たちを滅ぼしてしまった。
もし俺が、地下へ落ちる時、あの時に死んでいれば、こんなことにならなかったのではないか。違うだろうか。
答えてくれ。
俺が何もかもを、台無しにしたんじゃないのか?
答えはどこからか吹く風に乗っていた。
それを知ってどうする。それを知って、何が、どう変わる。
何もできることはない。何も変わらない。
ただ、自分自身に絶望することはできる。
不可視の存在、不可知の存在は、笑ったようだった。
絶望など、一時のこと。いずれ忘れる。
反論しようとした。しかしそれよりも早く、理解の範疇を超えた存在が強く言った。
生きよ。
声が反響する。視線をどこへやっても、声の主はいない。どこかにいるはずなのに、どこにもいない。
無意識に胸に手を当てていた。早い鼓動が、触れると如実に感じられた。
もしかしたら肉体も、姿すらも持たない何者かが、強い声を発する。
生きよ! その先にしか、光はない!
はるか高いところから、まるで風が吹くように、その声は響いた。体は少しも震えず、その内側にあるのだろう心だけが、激しく震えた。
それきり、声はしなくなり、俺は反射的にナルーの方を見ていた。
彼女の瞼が上がっている。
仰向けに寝たまま、彼女は一点を見据え、そして目尻からこめかみの方へ、一筋の涙をこぼした。その小さな雫が、キラキラと焚き火の光を反射して、眩しいほどだった。
眩しさは一瞬で消えたが、ナルーはそこにいた。
俺もここにいる。
生きよ。
俺は俺自身に言い聞かせるように、心の内で繰り返した。
そうしてから俺は、ナルーに歩み寄った。
(続く)
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