第52話
◆
ナルーが倒れこみ、兵士たちがわっと声を上げてエクラの方へ駆け寄ろうとした。
「動くな!」
アクロの大音声に、全員がピタリと黙った。
「スペース」
名を呼ばれた俺は、やっと体の自由を取り戻し、緩慢に足を送ってアクロの前に立ち、膝を折った。
「スペース、お前につらい任務を与えなくてはならない。お前がそれを望むだろうとも思うからだ」
「何なりと」
倒れているナルーが気にかかる。アクロも同じようだ。
「地下を封印する方法は考え直すとして、獣人を魔獣のままにはしておけぬ。今一度、精霊王の力とやらに頼ってみるより他にない。お前が、地面に剣を突き立てるのだ。おそらくそのものは、二度と人の地には戻れぬのかもしれぬが」
「構いません」
俺は立ち上がった。
その時にはエクラは兵士たちに抱えられ、しかし血走った目はこちらを見ている。
アクロが動き出し、他の兵士と協力し、ナルーから獣の剣を抜き取った。大量の真っ赤な血が流れ、周囲の地面の色を変えて触れたものの手を汚していく。
俺はまだ血がこびりついている剣を手に取った。
ナルーの応急処置をした兵士たちが足早に境界線から離れた。
そうして地下世界に最も近いのは、俺だけになった。寝かされたまま動かないナルーは俺の目の前に寝かされている。しかし彼女は、人間の側だ。
「さらば」
アクロがそう言った気がした。
俺は数歩で地下世界の側に移動した。
時が来た。
躊躇わない自分が不思議だった。
贖罪だっただろうか。
両手で剣を持ち、深呼吸し、地面に突き立てた。
これで、獣は破滅を回避できるのか。
切っ先が地面に食い込んでも、何も起こらなかった。
しかし変化はすぐに始まった。
足元が揺れ始め、それは地震に変わった。激しい揺れに落盤が起こり始める。兵士たちが声を掛け合い、下がっていく。俺も反射的にそちらへ行こうとしたが、足元がおぼつかなくて膝をついたところで、目の前に巨大な岩が落ちてきた。土煙がもうもうもうと立ち込め、あとはもう自分がどこにいるのか、わからなくなった。
揺れは長い間、続いた。
周囲では岩が落ちる音が幾重にも重なり、人の声も聞こえない。
次の瞬間、俺も岩に押しつぶされるかもしれなかった。
揺れが収まるまで、俺はひたすら目を閉じていた。
死の恐怖は、外界を俺に拒絶させた。
どれくらいが過ぎたか、気づくと揺れは収まり、土煙も落ち着いていた。
息を吸い込むと、それでも埃っぽく、少しむせる。
よく見ると、人間の世界と獣の世界の境界線のあたりは、どれくらいの規模かわからない落盤と落石で、完全に埋まっていた。それが見えるのは、新しい岩肌にある例の光を放つ不思議な岩のせいで、それがなければ漆黒の世界だっただろう。
俺は岩の壁をしばらく見ていたが、不意にそれに気づいた。
誰かが倒れている。
それは……。
「ナルー!」
思わず声を上げて、駆け寄っていた。
どうしてここにいるかはわからない。いや、流れている血の様子では、人間の側にいたはずが、落盤の位置の関係で獣の側に取り残されたらしい。人間は誰も、ナルーを気にする余裕がなかったのだろう。
しかしもうナルーは動こうとしないし、顔からは血色が失われていて、まるで生きているとは思えない。
どうするべきか、俺は途方に暮れた。
どうやって葬れば、と考えたとき、何かが思考に引っかかった。
そう、ここには、生命の川がある。
気づいたときには動き出していた。着ている服を脱いで、ナルーの傷口を圧迫するように強く縛った。相当に痛いはずなのに、ナルーは無反応だ。意識は完全にない。手首に触れてみる。脈はかなり遅いが、ありそうだ。
彼女の軽くなった体を抱え上げて、洞窟を走った。
もう魔獣の心配はないはずだが洞窟がどこまでも続くようで、焦燥感ばかりが頭を支配した。
外に飛び出す。煙の匂いが濃い。火の手は弱くはなっているようだ。
人気はない。ああ、人間たちは、本当に獣を皆殺しにしてしまったのか。
俺は無人の廃墟を駆けた。
あの巨大樹は、今や葉を全て失い、枯れ木として、それも何百年も前に朽ちた枯れ木のようにそこに立っていた。
生命の川を渡る橋に出た。
川の水は漆黒に濁っており、所々では火が揺れていた。
これではとても、生命を回復できそうにない。
なら、最初の洞窟へ戻ればいい。
もう一度、ナルーを抱え直し、また俺は走り始めた。
とにかく、ナルーを救うことだ。
必死に足を動かす。息が続かなくなり、喘いで、それでも無理に体を動かす。
背中が濡れてきた。汗じゃない。もうほとんど残っていないだろう、ナルーの血が流れているのだ。
洞窟の入り口が見えてくる。
飛び込んだ。
岩が頼りない光で先を照らしている。
でも光は光だ。
やがて洞窟に出た。人間たちが残した物資がそこここにあるが、一部は先ほどの地震の影響だろう、落盤で埋まっている。
生命の川は、まだそこにあった。
色はかすかに濁っている。
ナルーを背負ったまま、俺は川に入った。
水はぬめりを帯びていて、触れると痺れるような感触がある。
でもここはまだ、あの巨大樹の下よりも水がきれいだ。
もっと奥、上流なら……。
俺は川の水を掻き分けて、歩いていく。
腰までの深さになり、腹までの深さになる。
胸まで水が届く。
光は徐々に弱くなる。
しかし水は今、きらめき始めていた。
(続く)
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