第35話

       ◆


 鳥の鳴き声が聞こえる。

 はっとして目が覚めた。鳥が鳴いたことなんて、ずっと前のことだ。

 起き上がって、自分が例の洞窟ではなく、古い遺跡の一角にいるのを思い出した。すぐそばではナルーが丸くなっている。

 そう、地上はすぐそこだ。

 少ない水で唇を湿らし、それから干した果物を口に含んだ。

 ナルーは俺の気配に気づいたようで、ゆっくりと起き上がり、伸びをした。それから俺の方を見てのほほんと「おはよう」と言う。

 何も変わらない。

 何もかもが変わろうとしているこの時に、ナルーがいつも通りなのは、正直、ありがたかった。頼りになると思える。

 簡単な食事の後、二人で先へ急いだ。

 しばらく歩くと、岩と砂しかなかった遺跡に緑が見え始める。乾燥していた空気に湿気が混ざり、まるで空気が柔らかくなったように思えた。

 そして前方に、今度こそ光が見え、大きくなっていく。

 俺とナルーは並んでその光の中に入った。

「オォー! 広い!」

 ナルーが大声を上げる横で、俺は目の前の光景をただぼんやりと見るしかなかった。

 俺たちが出たのは岩場で、崖の淵にある。

 眼下には森林が広がり、その向こうにイナンホテプの平地が見える。

「すごい! 地上だから天井がないんだ! どれくらい広いんだろう!」

「あまり騒がないでくれよ」

 思わず答えながら、俺はじっとイナンホテプの平地の方を見た。小規模な陣地が残っているだけで、すでにオルシアス軍もいなければ、エッセルマルク軍もいないようだ。戦争というか、小競り合いは終わったということだろう。

 仮にオルシアス軍が勝利していたら、という可能性はまだ捨てきれない。地下にやってきた男が、アガロン家の鎧を身につけていたとしても敵が奪った可能性だってある。

 じっとイナンホテプの平地にある陣地、そこにはためく旗を見ようとした。

 あれは、まさかアガロン家の旗だろうか。

 判然としないが、色使いは似ている。

 とにかく、あそこへ行くしかない。

「ほら、ナルー、行こう。耳を隠すために布を頭に巻いてくれ。尻尾も隠して」

 はいはい、と言いながら素早くナルーが布を頭に巻いた。

 二人で崖の不完全な足場に注意して回りこみ、傾斜が少しでもゆるやかなところを選んで、森林地帯へ降りていく。すぐに遠くは見通せなくなり、鬱蒼とした森になる。下草も払われていない。

 邪魔になる枝葉を、抜いた剣で切りながら進む。短いのはこういう時に取り回しが便利だ。

「ねえねえ、スペース、あれ、何?」

 急に声をかけられ、まさか兵士に見つかったか、と思ったが、ナルーが見上げているのは実がなっている一本の木だった。オレンジ色の実で、二十個ほどがひとかたまりに鈴なりになっている。よく熟れているように見えた。

「登って行って取ってみれば?」

「わかった!」

 からかったつもりだったが、木に取り付くと、するするとナルーが登っていく。木の実があるのは背丈の四倍はあろうかという高い位置だったが、あっという間にナルーはそこにたどり着いていた。

「受け止めてやるから、枝を切ってくれ!」

 こちらからそう言うと、わかったー、と気軽な返事があり、ナルーの手元で剣が一閃する。

 枝を切ったが、根本からだ。

 この馬鹿!

 逃げるべきか、と思ったが、すでに目と鼻の先に枝と木の実があり、受け止めるしか選択できなかった。

 ものすごい衝撃に腰に痛みが走る。よろめきながら、どうにかこらえた。

 ナルーがひょいひょいと降りてきて、俺が腰を押さえているのをよそに傍に投げ出していた木の実をもぎって、しげしげ眺め始めた。

「これ、皮も食べられる?」

 俺の心配をしろよ。

 食える、と言ってやると、ナルーは大口を開けてかじりついた。

 その顔が、酸っぱいのだろう、盛大にしかめられる。手足をじたばたさせた後、しかし「美味しい!」と叫んだかと思うと、またかじりつき、ばたつく。

 こういうのを見ていると、何か、地下世界に閉じ込められるのも、平和に過ごせる、安全に過ごせるとしても、間違っている部分もあるように思えてくる。

 自由を極端に制限され、それはそのまま、知ること、体験できることを極端に制限しているという側面を持つ。

 俺も果実を一つもらって、かじってみた。想像より酸っぱいが、その奥に濃厚な甘みがある。ずっと果物といえば干した後のものしか食べていないので、この新鮮さはありがたい。

 記憶が刺激され、幼い時、母が用意してくれた果物の存在が思い出された。

 あの時の果物がなんだったか、色も味も忘れてしまったけど、美味い、と感じたのは間違いない。

 果物を手に俺とナルーは前進を再開したが、イナンホテプの平地に出る前に夜がやってきた。

「太陽が沈むって、不思議な感じだね。気温が下がって、静かになるし、地下とは全く違う」

 夜が来ることさえ、ナルーには珍しく、心躍るようだ。

 開けた場所で俺とナルーは焚き火を挟んでいた。火を起こすのには、地下を出るときに与えられた火打石を使った。まだ事前の計画、想定の範囲内ということだ。 

「ほら。あれだぞ」

 俺は頭上を指差してやる。ナルーもそちらを見上げた。

 木々の枝葉はかなり濃密に上を覆っているが、それでも隙間から星はわずかに見える。

「あの星、小さな点が、夜空全部に数え切れないほど並んでいるの?」

 ナルーの言葉に、俺は「そうだよ」と答えた。

 何もかもが変わろうとしている予感がした。人間も獣も。

 でも、悪い方にだけ変わると決まったわけじゃない。

 俺は木の枝で焚き火を動かし、火の粉が盛大に散って、消えた。



(続く)

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