第34話

      ◆


 水、ちょうだい。

 ナルーのかすれた声に、俺は水筒を差し出した。ゆっくりと寝そべっていた姿勢から、ナルーが上体を起こした。

「さっきのはね、野獣化、って私たちは呼んでいる状態なの」

「野獣化……」

 水筒の口から直接に水を飲み、はあぁ、っと大げさにナルーが息を吐く。

「獣は普通、人間とそれほど変わらないでしょ。だけど、それは力を押し込めているからで、それを解き放ったのが野獣化。変な話だけど、野獣化した状態こそが獣の本来の形で、今の私たちは力を抑えているのね」

 初めて聞く話だった。

 岩はナルーが動かせる、というのが事前の話だった。

 ナルーが淡々と言葉にする。

「野獣化するとね、とにかく力が何倍にもなる。感覚も鋭敏になるし、とにかく、普段とは何もかもが違うわね」

「結構、便利そうだな。しかし逆に不自由か」

「日常で馬鹿力が必要になることもないし、宝の持ち腐れかな。水筒、ありがとう」

 俺の手元に水筒が戻ってくる。

 ナルーがまた横になった。

「野獣化するとね、すごく疲れちゃって当分は動けない。無理して動けなくもないけど、これが今の私たちに課せられている封印なのよ」

 封印……。

「さっきの、例の剣が関係しているのか?」

「そう、獣の剣。そういう伝承ね。獣の剣は、獣たちの野獣化を極端に制限しているらしい。大昔、人間との戦闘の時、私たちは野獣化して一騎当千の兵士になって戦ったから、野獣化を制限するのは、争いを選択肢から消した、という意思表示なのかも」

 俺には何も言えないことだった。

 野獣化は確かに、目の当たりにすると凄まじいものがある。

 でも、それを封じたところで、戦うための手段は残されている。実際、あの洞窟で人間の首をはねたのは、野獣化した獣の打撃などではなく、普通の弓が放った矢だったのだ。

 ナルーが問いかけてくる。

「人間も何かを手放したはずだけど、そういうことは伝わっていないの?」

「いや、人間の伝承では」

 俺は記憶を検索したが、目新しい話は何もない。

「精霊王が地下と地上を別けただけで、制限とか放棄とか、そういう話はない」

「私たちの中では、人間は獣を目にせずに済むように、剣を大地に刺した、と伝わっているわよ。そんな話もないの?」

 乏しい明かりの中で、俺はナルーを見た。ナルーは目を閉じて、横になっている。

「そんな伝承が、獣の間にはあるのか?」

「あるけど、何を意味するかはあまりわからない。あの精霊王の前での契約の時、人間の代表は獣から戦う力を奪い、獣の代表は人間と永遠の別れを誓い、それぞれに大地に剣を突き立てた。結果、地上世界と地下世界に別れた」

 それが千年前のことか。

 千年という時間の果てに、新しい時代が来ようとしているのだろうか。

「さて」

 反動をつけてナルーが立ち上がる。俺は座ったまま、ただ彼女を見ていた。そんな俺にナルーが首を傾げる。

「どしたの? 上に行きましょうよ」

 ああ、そうか。

 俺はゆっくりと立ち上がり、荷物を身につけた、

 ナルーが動かした巨岩により、落石で埋まっていたはずの場所に人が抜けられる空間ができている。もう一度、明かりをかざしてみるが、確かにその向こうにも階段が続く遺跡が見える。

 二人でそっと隙間を抜け、俺たちは先は進んだ。

 どれくらいを進んだか、前方に光が見えた。終着ではなく、天井の一部が崩落し、そこから光が差し込んでいるのだ。もう俺の手元の光を放つ石も必要ではなさそうだな。巾着の中に入れて腰にぶら下げる。

 差し込む光の真下に立って、ナルーが眩しそうに上を見上げている。

 瞳がキラキラと光っているのが印象に残った。

 俺はこの光景を忘れない、そんな気がした。

 少女がこちらに向いて、笑みを浮かべる。眩しい笑みだ。太陽の光よりも。

「ねぇ、スペース! これが太陽の光? これがそう?」

「きっとね。ほら、先を急ごう」

 俺はナルーの手を取って先へ進んだ。なんでそんなことをしたのだろう? ここがもう、自分の世界だと思っているのか。

 進むと光の下を抜け、また薄闇になるが、しかしもうそこが終着だった。

 また落石で、埋まっている。ナルーが野獣化しても意味のない、小さめな岩がうず高く山になっている。

「これをどかすしかないな」

 面倒だなぁ、とナルーが返事をして、荷物を下ろす。二人の手はいつの間にか離れていた。

 俺も身軽になって石を運び始めた。

 地下遺跡に差し込む光が乏しくなる頃、やっと岩をどかして通り抜けられる空間ができた。

「外に出るのは明日にしよう。もう夜だ」

 俺の言葉に、了解です、と答えるナルーは楽しそうだ。何故だろう。冒険家になったつもりかもしれない。任務を忘れてもらっては困る。

 食事をして、岩に敷物を敷いて横になった。

 自然、俺も彼女も頭上を見る。

「ねぇ、スペース、星は見えるかな?」

「え? 星?」

 すぐにはわからなかったが、そうか、地下には星はないのだ。

「すぐには騎士と面会できないし、これからいくらでも機会はあるよ」

 楽しみだなぁ、と繰り返しながらナルーが寝転んだまま身悶えするのは、微笑ましい。

 星なんて、いくらでも見れる。

 早く寝ろよ、と言って、俺は目を閉じた。

 すぐそこに本来の日常があると思うと、実は俺も落ち着かなかった。

 少し、胸がドキドキしている。

 落ち着こう。

 落ち着け。

 落ち着け……。



(続く)

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