第47話

      ◆


 兵士たちは黙った。

 アクロでさえ黙った。

 俺も、ナルーも黙った。

 全員が見ている前で、魔獣の太い腕に跳ね飛ばされた兵士が俺たちの前に転がってきて、やっと全員が反応した。

「動くな!」

 アクロの一喝が、仲間を助けようとした兵士や奴隷の足を止めさせた。

 ナルーでさえも足を止めた。

「よく見ろ」

 指差すアクロの視線の先を追うと魔獣の一体がこちらに近づこうとして、しかしできないでいる。まるで壁でもあるように。しかし壁なんてない。空白があるだけだ。

「そいつらはこちらへ来られない」

 言いながらアクロが歩み寄り、倒れて呻いている兵士のすぐそばまで行く。それは同時に魔獣の目と鼻の先だった。ほんの一メートルもないのに、魔獣は暴れるばかりで一歩も近づけなかった。

「どうやら精霊王とやらが私たちと獣人の世界を分断したという、奇跡のようなものは実在するらしい」

 そんなことを言いながら兵士を引きずって魔獣から遠ざけさせると、アクロが部下に新しい指示を出した。

「あそこにいる仲間をこっちへ引っ張り込め! そうすれば安全だ!」

 気を飲まれていた兵士たちが、それで一斉に動き出す。魔獣が俺たちの方へ向かってきたので、それまで戦っていた兵士たちは一息つきながらも、警戒しながら魔獣から距離を取っていたのだ。

 とりあえず、見えるところには魔獣は一体しかいない。

 俺はナルーのそばへ行ったが、ナルーは土気色の顔をしている。

「あれは、野獣化よ、でも、どうして……」

 力なく呟いているナルーの腕を引いて、俺は後ろへ下がった。

 あっという間に生き残っていた兵士が見えない境界線の人間側へ移動してきた。動けるものは全部で四人、負傷しているものが六名だった。負傷しているもので意識がないものが二名である。

 負傷者を後方へ護送することが決まった。この場に残る兵士は全部で一二〇名。

 魔獣はまるで知性を失ったように、囮の兵士に翻弄されてみすみす獲物を逃がす形になったが、そんなことも考えられないようだった。

 俺はその魔獣をじっと観察し、あることに気づいていた。

 どことなく女性のようであり、トピアを連想させる。ボロ切れのように体にくっついている破れた布も、トピアの纏っていたものに刺繍されていた模様を思い出させた。

 ではこの魔獣が、トピアなのか。

 しかし、何が起こっている?

 俺たちを攻撃することを諦めた魔獣が意味のない吠え声を上げながら、洞窟の向こうに駆け去って行った。暗闇の向こうから、何重にも吠え声が聞こえてくる。何かの意思疎通とも思えないが、しかし、魔獣は一頭や二頭ではないとそれでわかった。

「何が起こっているか、説明できるか」

 アクロがナルーのそばに来た。俺もそばにいたので片膝をついたが、ナルーは立ち尽くしている。

「獣人の娘、知っていることを話せ」

 光が閃く。

 アクロの剣がナルーの首筋に触れるか触れないかのところで停止していた。

 その時、ナルーの頬を涙が伝った。

「きっと、獣の剣が抜かれたんだわ」

「獣の剣、とは何のことだ?」

「この剣と対になる剣」

 ナルーがわずかに手元の剣を動かす。反応した兵士たちが剣を抜いて俺たちを取り囲んだ。しかしアクロは微動だにしない。

「その獣の剣とやらが抜かれて、何が起きているかを説明しろ」

「私たち、獣に対する精霊王の封印、戒めが解かれてしまった。私たちはまさに野獣に戻ったのよ。そう、剣を抜いたから……」

 不意にナルーが激しい怒気を発した!

「全部、全部、あなたたちが悪いのよ! あなたたちの仲間の誰かが、獣の剣を抜いたから! だから、また戦争が始まる! 大勢が死ぬわ!」

 涙を散らしながら叫ぶナルーに、しかしアクロは冷静だった。

「何故、お前は無事なのだ?」

 ナルーがぎこちなく、何かを確認するように自分の体を見た。それにアクロが鼻を鳴らす。

「人間の側にいれば、精霊王の戒めなるものは生きるらしい。なら、何とか、あの魔獣どもを人間側に引きずりこめばいいのではないか?」

「さっきの様子じゃ、あの姿では無理でしょうね」

 一転して、ナルーの声は弱々しかった。

 事実、あの魔獣は境界線を突破できなかった。何もなかった境界線を。

「あるいは、ナルーも境界線の向こうへ踏み込めば、あの姿になるかもしれません」

 俺は思い切って言葉にした。アクロの視線、そしてナルーの視線を感じるが、顔は上げなかった。

「つまり、この娘はここに置いておけと、そう言いたいのか、スペース」

「その通りでございます。それと、その人の剣に触れられるものは、獣だけかと存じます。ナルーが倒れれば、もはや人の剣を再び、大地に突き立てることができる存在がいなくなります」

 難儀なことだ、とアクロが言った時、負傷した兵士が近づいてきた。下がっていろ、とアクロは言おうとしたようだが、それより先に、その負傷兵が言葉を口にした。

「エクラ様が、剣を抜かれました」

 その震えた声は、場を静まらせるのに十分な内容だった。

 エクラが抜いた。

 そう、獣の剣は、獣には抜くことができない。

 ナルーが叫んだことを、みなが思い出した。

 人間が獣を魔獣に変えてしまった。

「ナルー」

 アクロの声に含まれているのは、なんだろう。期待、希望だろうか。

「獣の剣とやらを、もう一度、地面に突き立てれば、それでこの騒動は終わると思うか」

 返事をその場の人間の誰もが待った。

 ただ待った。

「……わかりません」

 落胆。

「ですが……」

 痛いほどの沈黙。

「やってみる価値はあると思います」

 その一言で、全員が静かに奮い立ったのが、俺にはわかった。

「よし、エクラを探そう。地下のどこかにいるはずだ。奴がおそらくまだ、獣の剣を持っているだろう。ナルー、お前はここに残れ。兵を二十名つけておく。何か伝えたいことがあれば、そこから伝令を出せ」

 兵士たちが動き始める。

 ナルーは立ち尽くし、うつむき、唇を噛み締めていた。

 俺は声をかけることもできず、ただ、彼女の肩を二度、三度と叩いた。

 二人ともが無言。

 あっという間に地下へ突入する一〇〇名が用意を整えた。

 時間はない。

 ここが正念場だった。



(続く)

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