第17話

      ◆


 イナンホテプの平地に幕舎が並んでいる。

 全てがエッセルマルク軍のそれである。すでにこの血が戦場となってから一ヶ月が過ぎようとしていた。

 エッセルマルク軍はイナンホテプでの戦闘の後、オルシアス軍の背後を脅かし、後退させることに成功していた。もっとも、そこではオルシアス軍の後続部隊とエッセルマルク軍の別働隊がにらみ合っており、一時的にエッセルマルク軍が挟撃の危険にさらされたが、そこはイナンホテプから進出したエッセルマルク軍が陣を構えることで、四つの集団による競合は解消され、今では両陣営がそれぞれに固まり対峙している位置関係だ。

 アクロ・アガロンの姿はイナンホテプにある。ここでの地割れの現場、その確認を命じられているのである。

 できることなら武勲をあげたいところだがアクロは指示に淡々と従った。

 いくつかの理由があり、一つはあの地面が割れるほどの地震の直後、エッセルマルクの王都からやってきた聖教会の巫女という老婆の様子である。

 現場にいた騎士数人を前に、老婆が臆した様子もなく喋ったが、瞳には明らかな恐怖があった。

「この大地の裂け目に人を近づけてはなりませぬ。この裂け目は、世界の裂け目にございます。近づかぬことです。混乱をこの世に溢れさせてはなりませぬ」

 なるほど、とアクロは納得した。

 この老婆は、アクロたちのような剣を手に取る人間、権力を持つ人間は恐れないが、超常現象、理解不能なものは恐れるということか。

 アクロもまた聖教会の信者ではあったが、依存することもなく、しかし祈りを捧げるくらいのことはしていた。戦いの場で神や精霊が自分を守ってくれたことなどなかった。敵を滅ぼすこともだ。自分を守ったのは鎧や盾で、敵を倒したのは自分が握る剣や槍だった。

 聖教会に全てを捧げているこの老婆が怯えるような、人知を超えた現象といえば納得もできるが、その老婆が語ることこそ人心を乱すのではないか。

「世界の裂け目とは?」

 同席していた騎士の一人の問いかけに、老婆ははっきりとした発音で答えた。

「この世ならざる場所との境界の破れでございます。古の時代に、この世界とは分け隔てられた別世界へ通じている、本来はあってはならないものです」

「別世界?」

 大真面目に老婆が言うのに、騎士の数人が笑う。アクロも笑いたかった。

 昔話、お伽噺を聞いている場合ではなかった。

 結局、老婆は丁寧に陣に作った住まいに送り返され、軍はオルシアス軍を追撃する必要があった一方、大地の割れ目の調査のために一部がその場に留められた。留められたのはアクロの隊だった。

 アクロが新しい戦場にこだわらなかったのは、地割れの現場から数人でもいいから生存者を回収したかったのと、世界の裂け目とやらが気になったからだ。

 あの地割れの奥に何があるのだろう?

 もう一つ、戦場に立つことをそうと悟られずに回避したのは、弟の存在だった。

 今、アクロはイナンホテプの平地が見える丘の上にいるが、すぐ背後に控える弟のエクラは、まるで集中していなかった。

 戦闘の前は意気軒昂、戦闘となると一気呵成、といえば聞こえはいいが、要は暴力を振るうのが大好きで、戦闘を前にすると残虐さを発揮できる解放感から気力が爆発し、戦闘では敵兵を一人でも倒すために暴れまわるだけのことだった。

 アクロは今年、三十九歳。一方、歳の離れた弟であるエクラは十九歳に過ぎなかった。

 もっと覚えることは多くあるし、勉学も剣術も、まだまだ未熟だ。

「もう誰も見つかりませんよ、兄上」

 あくびをかみ殺すような口調に、アクロは返事をしなかった。

 まだ出来の悪い弟が何か言おうとしたが、幸運にもアクロはそれを聞かずに済んだ。

 地面が揺れ始める。地震だ。

 しばらくすると揺れはおさまった。丘の上から見ているが、巨大な地割れはもちろん塞がったようでもない。広がってもいないだろうが、探索している部隊は恐ろしかっただろう。落石、落盤があったかもしれない。

「行くぞ」

 自分の目で確認しようと、アクロは身を翻し、馬に歩み寄った。エクラは無言でついてくる。

 地割れの現場に着く前に、報告のためらしい兵士が馬を駆って向かいからやってきた。アクロたちに気づくと、馬から飛び降り、地面に片膝をついた。アクロはその前で馬を止める。

「申し上げます。生存者は発見できず、無数の亡骸を回収しております」

「先ほどの地震は大丈夫だったか?」

「幸い、怪我をしたものはおりません。ただ、割れ目の奥にさらに深くへ通じる割れ目があります」

 さらに深く?

「どれくらい深い?」

「検討がつきません」

 アクロは「わかった」と言って馬腹を蹴った。実際に見てみる気になったのだ。

 地下にいったい、何があるのか。

 聖教会の老婆の言うことは本当か、明らかにするいい機会だ。



(続く)

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